表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄ありがとうございます、その後私は幸せになりました。

作者: 未玖乃尚

「婚約の件、なかったことにしましょう」


 初めてあった日。二人でお店に入って、アスターさんはカップの中を一気に飲み干して、すぐに言った。


 短く刈り込んだ髪の彼は、傷だらけの無骨な両こぶしを握り締め、私の瞳を真っすぐに見つめる。


 反論は許さない、それほどの強い意思を目の中の光に感じた。


 おそらく彼は、自分の信念に向かって突き進む。そんなタイプの人なんだろう。


 私はテーブルの上に視線を落とし、お茶を一口飲んでこう答える。


「いいですよ」


 私が了承したことで、話はすんなりまとまった。


 返答を受け、彼はほっとしたように息をつくと、急ぐからと席を立って二人分のお金を払い、店を出て行った。


 ま、いいんだけど。

 母は命と引き換えに私を産んでくれた。そんな生い立ちが影響してるのか、私は物事を冷静に捉えがちだ。


 店の中を見回す。天気のいい今日はお出かけ日和で、店の中は仲睦まじそうな男女や家族連れで賑わっている。


 そんな中、私はゆっくりとお茶を飲み干す。


 うん、おいしい。

 さて帰るか。


 店を出た私は、ぽっかり空いた時間を潰すべく街を歩く。

 あっさりしたもんだ、ま、そんなものか。

 

 もともと私とアスターさんの婚約は、親友同士の父親たちが勝手に決めたものだった。


 あちら方の父親が結婚を機に、奥様の実家がある街に引っ越したのだが、病気で亡くなったことから、先日故郷へ戻ってきたとのことだった。


 離れている間も父親同士は手紙のやりとりを続け、お互い子供ができたことを報告しあった。


 あちら側が男の子、こちらが女の子ということで、大人になったら是非結婚させよう、と話をまとめてしまった。


 顔合わせ、ということで、本日お茶をすることになったのだが、結果はこの通り。


 仕方ないよね。本人の了承もなく親同士に決められて、「さあ、会え」「デートしてこい」と言われたって、心がついてこない。


 私だって、別に乗り気だったわけじゃない。

 ただ、いつからだろう。


 ある時から、お父さんが私の結婚相手について話を始めたんだ。


 お父さんの昔からの大切な友人、その息子がいて、お前と結婚して家族になって、みんな親戚として暮らしていけたら、どんなに楽しいだろうって。


 目を細めて言うんだ。そんな夢物語を聞かされてたから、会う前に断るなんてありえなかった……


 だから、お茶をしたのはお父さんのため。

 アスターさんに特別な感情を持っていたわけじゃない。


 あちらだってそうなんだろうけど、店に入って、お茶飲んで、義務は果たしたぞ的な感じで立ち去るのはどうなんだ?


 見るのも嫌なくらい、私のことが気に入らなかったのか?


 服の匂いを嗅いでみる。店のガラスに映る、自分の顔を覗き込む。


 そんなことしたって、本人でなければ原因なんて分からない。


 とりあえず、このことだけは言える。


 あんたなんか足元に及ばないくらいの、いい男を見つけてやるよ。そして、羨むくらい幸せになってやるからな!


 こっちだって、何とも思ってなかったんだよ。

 アスターめ、あの野郎。


 いつもの私ならそんなことしなかった。このムシャクシャした気持ちをどうにかしたくて、足元の石ころの形が、あいつの頭の形に見えたから、思い切り蹴り飛ばした。


 それがいけなかった。


 気持ちの強さに比例して、石ころは一直線に飛んだ。

 唸りを上げた石は坊主頭の後頭部に激突した。


「あん?」


 坊主頭の男の人はびくともせずに、振り返った。目が合う。眉を顰めて私を睨みつける。


 足が、動かない。金縛りにあったように体が硬直する。叩きつけるように心臓が跳ね回る。


 なのに、視線だけが彼を見ることをやめなかった。

 額に太い血管が浮かべ、口元を歪めている。


 まずい、顔を見られた。そう思ったとき、彼が私に向かって走り出した。


「ごめんなさい!」


 叫んだが、怒号を繰り返す彼には届かない。

 私は背を向けて走りだした。通行人に謝りながら肩をぶつけ、人波に腕を差し込んで道を作り出す。見えないように体を屈めた。


 身を竦めるほどの声が響き渡った。人影、物陰を探し、体を隠しながら逃げる。捕まったら何をされるか分からない。


 なるべく直線のルートを避け、曲がり角を利用しながら家までのルートを考える。


 お願いだから諦めて。


 家の扉を開けて、思い切り叩きつけた。怒号は聞こえない。扉に背中を預けると、足の力が抜けた。床に座り込んで、膝を抱きしめた。


 動悸が治まらない。お父さんが声をかけてきた。呼吸が苦しくて、すぐに返事なんて、できなかった。

 その日の夜は、ずっと目が冴えていた。



 -----------



 あれほど不安を抱えた夜なんて初めてだった。

 こんなことなら、昨日は出かけなければ良かった。


 ため息をつきながら起きて、私はお父さんと二人分の朝食を作った。

 物心ついたときから、ずっとしている。


 食事の準備をして、後片付けをして、洗濯をして、掃除をする。手慣れたものだ。今日もいつもの作業を繰り返すだけなのに、テンポが、崩れた。


 目玉焼きを、焦がしてしまった。不用意に皿を掴んで、落としてしまった。洗剤を入れすぎた。掃除が雑になった。


 息をつく。


 ちらちらと、あの男の人の顔が頭をよぎったからだ。

 今日は買い物に行かないといけない。昨日行けなかったから、食材がないんだ。


 お父さんは仕事で忙しい。私が行くしかない。


 外は晴れた青空なのに、私には曇って見えた。家の中を振り返り、貯金箱に目を止める。


 私が長年、コツコツ貯め続けたお金。それこそ、結婚費用にでも使おうかな、と思っていたもの。今では私のお守り代わりだ。


 一度、家へ戻った私は、重たい足を引きずって市場に向かった。


 行き交う人の間を小さくなって歩く。昨日追いかけられた場所だった。よけいに慎重になった。


 だから、私の方が一瞬早く気づいた。坊主頭が振り返る寸前、身を屈めた。急に私がうずくまったので、近くの女性が私に寄り添って、「大丈夫?」と尋ねてくれた。


「はい……」


 あの人に聞こえないよう、声を潜めて答えた。

 もう嫌だ。私はずっと、このまま怯えて暮らさないといけないのかな。


 ふらつきそうな足元を踏ん張って立ち上がる。近くの建物の体を預けて足を引きずった。見つかっていないか、後ろを振り返って確認した。



 -----------



 扉を開けると、ちりんと鈴の音が鳴った。

 私は胃を押さえてカウンターに向かった。冒険者ギルドに来るのは初めてだ。こんなことで、お世話になるなんて思ってもなかった。


 屈強な体格のマスターに声をかけた。

 街を歩くだけのためにボディーガードを雇う。こんな依頼主いるのだろうか。恥ずかしい。


 渡された紙に必要事項を記入する。マスターは記入された紙を確認し、依頼内容の欄で目を止め、怪訝そうに眉を寄せて私を見た。


 断られるだろうか。こんな依頼内容なんて、やりがいがなさすぎて、誰も引き受けてくれないかもしれない。


 今さら場違いに思えてきた。重苦しい空気感に耐え切れず、胸元の服をぎゅっと握りしめた。


「おい、リオ!」


 空気を揺るがすような声に体が強張った。びっくりした。


 張り裂けそうなほど、肌が刺激に敏感になってる。

 背中のほうで、ガタンと音が鳴った。席から立ちあがったらしい。


 リオ、と呼ばれた人が私の隣に来たのが分かった。私は服を掴んでカウンターを眺めることしかできなかった。


「お前、今日からしばらく、手開いてたよな。これ受けてやれ」


 カサという音がして、依頼書がリオさんに渡された。

 目が合った。私は服を離していた。手に汗が滲む。


 リオさんは私から視線を反らして、依頼書を確認する。


「ボディーガード、ですか」


 リオさんは少し気まずそうな顔をした。

 私だって気まずい。でも、扉を振り返る。今にもあの男の人がやってきそうで、体が震えた。


 お父さんには言えない。もう他に頼る人はいない。この人に受けてもらうしかないんだ。


「お願いします」


 気まずいだの恥ずかしいだの言ってられない。頭を下げて、とにかく頼むことにした。お願い断らないで。


 お金なら、お金なら、この貯金で何とかなるはず。家から持ってきた、お守り代わりの結婚資金。


「まあ、オレでいいなら」


 リオさんは、仕方ないなとでも言うように、苦笑いをして太い指で頭を掻く。短い髪が指に当たって跳ねた。


 私はハッとして、慌ててカバンに手を突っ込んだ。騒がしい音を立てる貯金箱を引き出し、カウンターに置いた。


「貯金箱?」


 こんなところに貯金箱を持ってくる依頼人などいないだろう。


 リオさんも、マスターも目を丸くしている。

 もう恥も外聞も捨ててやる。私は貯金箱の中身をぶちまけた。


「あの、あの、細かいのしかありませんが、代金はこれでどうかお願いします」


 私はリオさんとマスターに対して、交互に頭を下げた。


「とりあえず、次の仕事まで三日間あるから、その間でいいですか? それから先は、状況に応じて考えましょう」


「はい。よろしく、お願いします」


 断られる可能性も考えていた私は、感謝の意を込めて精一杯頭を下げた。


「お嬢ちゃん、こいつは若いが腕は確かだ。大船に乗った気でいな」


 マスターの声に頼もしさを感じ、私はリオさんとともに外へ出た。



 -----------



 リオさんとともに市場へ向かった。

 お金でつながるだけの関係だけど、さっきまでの不安感は落ち着いていた。


 キョロキョロしなくなった。人影に怯えることがなくなった。店の野菜を手に取り、吟味できる。


 並んで歩いていると、改めてリオさんの腕の太さに驚いた。


 隣で揺れる彼の腕は、いったい私の腕の何倍あるんだろ。思わず自分のか細い腕と見比べてみた。無骨な指も、長年、剣を握ることで太くなったのだろうか。


 初対面の時から太い指だなと思っていたけど、彼が私の隣を歩くから、なおさらその違いに驚愕する。


 会話はなかった。

 話すの、苦手なのかな。確かにペラペラ楽しく、話すタイプではなさそうだ。


 リオさんの第一印象は、一言で言えば「誠実だけど、面白みに欠ける」、そんなタイプではないだろうか。


 こんなやりがいのない仕事でも退屈そうにするわけでもなく、視線鋭く周囲と私に気を配る。


 そんなところが頼もしいのだけど、ギルドを出てから、ずっとお互い無言だ。少し気まずい。


 声、掛けてみようかな。通りすがりの店の鏡にちらりと視線を移す。


 睡眠不足のクマはない?

 軽く目の下をほぐす。


「あの!」


 私は意を決して話しかけた。


「何か?」


 仕事の邪魔をするな、とでも言いたいのだろうか。彼は異変を察知すべく、注意深く周囲を探る。


「昨日まで仕事だったんですか?」


 マスターの言葉を思い出して訊ねた。


「ああ……」


 納得したように頷き、リオさんは、視線を宙にさ迷わせた。


「実は昨日の朝方、おやっさんに頼まれて急遽モンスター退治に狩り出されました」


「そう、だったんですね」


 えっと……


「無事倒せました?」


「これだけ」


 リオさんが左手を差し出した。親指付け根付近に、牙の跡が残っている。

 気づかなかった。


「すいません、あの。大丈夫でした?」


「全然。この通り」


 太い手を何度も握り、リオさんは影響がないことを示す。


 そうなんだ、私……


 リオさんを見上げると、鋭かった彼の表情が、険しくなった。


 乱暴に腕を引かれる。私の前を影がよぎった。リオさんの背中が、私を覆った。


「何だてめえ?」


 太く、響く声には覚えがある。駆け巡った恐怖が全身を支配した。


 昨日の、あの人の声だ。


「あなたこそ、どなたです?」


 リオさんは、一切の感情を見せずに淡々と問い返した。


「俺はな、そのお嬢ちゃんに、ちいと用があるんだよ」


「石のことか?」


「あん?」


 男の人の怒号に、体が跳ね上がった。


「そのことなら、こちらに非がある。この通り謝らせてもらう」


 リオさんが頭を下げた。

 悪いのは私だ。彼が謝ることじゃない。


 私は暴れ回る鼓動の息苦しさに逆らいながら、リオさんの隣に並んだ。


 できるだけの誠意を込めて、深く頭を沈める。


「昨日のことは、本当にごめんなさい」


 喉が掠れ、声が引っかかる。それでも相手に聞こえるよう、声を吐き出した。


「謝って済むと思ってんのか」


 髪を掴まれ、引っ張られた。

 悲鳴を、飲み込む。怯えの声すら、出ない。


「それ以上はやめろ」


 冷徹な忠告だった。リオさんが、男の手首を捩じり上げた。


 苦悶に歪みながらも、彼の表情には強い敵意が宿ったままだ。


 右の拳がリオさんの頬に沈む。

 正面から拳を受け、リオさんは男を睨みつけた。


「こちらは石だからな。もう一度だけなら反撃しないでやる」


 鈍い音が響いた。二度目の拳で、リオさんの口から血が垂れた。


 リオさんが血を吐き捨てた。


 口の中が切れてるんだ。私は彼の腕を掴んで首を振った。私の代わりに彼がこんな目に遭うなんて耐えられない。


 リオさんは、そっと私の肩を掴んで背中に隠れるように促す。


「これでおあいこだ。今からは、俺とお前のケンカだな」


 リオさんが、相手の胸倉を掴んだ。

 相手が宙に浮きあがる。


「どうする?」


「は、離せ!」


 男が叫ぶと、リオさんはあっさりと解放する。男は怨嗟の声を上げ、立ち去った。


 私はリオさんの手を取った。少しあった抵抗を無視して、一直線に井戸へ向かう。


 周囲の人々は今の騒動で、私たちから距離を置いていた。


 すんなり井戸に着くと、リオさんに口をゆすぐように言った。私は彼の隣に腰を下ろし、痛まないようにそっとハンカチを当てた。その合間に首を巡らせ、氷屋を見つけると、一袋買ってリオさんに差し出す。


 リオさんは、きょとんとして私を見ている。のんびりしてるリオさんを促すべく、私は自分の頬を指先で叩いた。


「それ、当ててください」


「ありがとう」


「こっちのセリフですってば」


 私の言葉に、リオさんは、下手くそで不器用な笑いを浮かべた。


 それとも、口の中が痛かったのかな。

 でも、初めて彼の笑顔を見たな。

 こんなふうに笑うんだ。


 今さら、知った。知らないことだらけだ。


「ご飯、食べられそうですか?」


 リオさんの隣に座り、顔を覗き込む。彼の頬は痛々しく腫れている。


「これくらい、何ともないですよ。この程度で食べられなくなってたら冒険者なんてやってられないです」


「そう、ですか……」


 傷に染みない料理、私に作らせてください!


 謝罪と感謝を込めて、そう伝えようとした。でも、その言葉は寸でのところで飲み込んだ。迷惑に思われたら困る。


「ボディガード、終わりですか?」


 あの男は逃げて行った。安心したはずなのに、なぜか心が霧がかったように隠れてしまう。


 私は何を望んでいるんだろう。


「契約期間は働きますよ」


 なんだかなあ。

 事務的な返答に、少し心が曇る。


 まあ、間違ったことは言ってないんだろうけど。

 なんだか、ね。

 


 -----------



 翌日はギルド前で、リオさんと待ち合わせることになった。


 バスケットを持って、軽やかに外へ出た。

 何だか空気がおいしい。

 不安が一つ解消されたからかな?


 優雅を気取って、足を交互に出す。

 いつもと同じだと思うけど、雲が多い空なのに気持ちは晴れやかだ。


 きっと、昨夜はぐっすり眠れたからだろう。


 ギルドが近づいてきた辺りで、自分がスキップしていることに気付いた。慌てて足を止め、淑女を真似て歩みを進める。


「おはようございます」


 挨拶前に、こほん、と喉の声を確かめてから、リオさんに声をかけた。

 リオさんは胸の前で組んでいた太い腕を解いて、私に向き直る。


「おはようございます」


 リオさんは着任した兵士のように、顔を引き締めた。

 真面目、なんだよな、この人。


 いや、仕事に忠実なのはいいことだし、依頼人としてもありがたいんだけど。


 少しくらい気を楽にしてくれてもいいのにな。

 おはようと言うには遅い時間を、二人で並んで歩く。


 リオさんは眉間にしわを寄せて、すれ違う人を怯えさせるほどの形相で観察している。


 昨日のことがあったからなんだろうけど、さすがに顔が怖すぎでは?


 私のためだってことは分かってる。でも、もう少し肩の力を抜いてもいいんだよ?


「あの、リオさん?」


「何ですか?」


「リラックス」


 私は肩を揺らした。


「……ああ」


 納得したように頷き、リオさんは私の行為を真似した。


「怖い顔してました?」


「けっこう……」


「昔からよく母に言われてたんですよ。『あんたは顔が不愛想なんだから、もっと笑いなさい』って」


「それ、分かります」


 お母さんは、リオさんのこと、よく見てたんだな。


 思わず笑ってしまい、不愛想なのを肯定してしまったことに気付く。


 慌てて両手を振った。


「違います。不愛想ってことじゃなくて。笑顔になると可愛いというか……」


 口を押えて言葉を押し戻す。


「えっと、変な意味じゃなくて、笑顔が……」


 昨日の不器用な笑顔を思い出して顔が火照った。


 この流れだと、どんな表現をしても、好意を出しているように受け取られないか……?


「いいですよ、無理にお世辞言わなくても。顔は不愛想、人付き合いは不器用。おまけに、お前は真面目すぎるって、おやっさんにもよく言われます。でもこういうのって、なかなか治らないんですよね」


 ごめんなさい、私も同じこと思ってました。

 でも。


「昨日、そして、今日話してみて分かったんですけど、それがリオさんの個性、なんだと思います」


 きっと感覚的なもの。説明しろと言われてもできない。


 ただ彼のじれったさを感じるくらいの笑顔が、私の中でくすぶっているのは、リオさんが不愛想で不器用で、真面目過ぎるからだ。


「そんなこと、初めて言われました……」


 リオさんは、変わり者でも見るかのように、私の目を見た。


「そっか、話してみて分かることってあるんですね。知りませんでした」


「あるんです。急いては事を仕損じるって言葉もありますし」


「身に覚えがありすぎて」


 ようやく彼の表情も緩んできた。リオさんは少し、気張りすぎなんだ。


「ライナさんも……」


 え……?

 その言葉で、少し、胸の苦しみを、感じた。

 初めてだ、彼の口から、私の名前が出たのは……


「ライナさんのイメージも変わりました」


「そう、ですか?」


 平静さを装う。平静さ……って私ってどんな人だったっけ?

 混乱、してる?


「雰囲気は冷静そうなのに、実は臆病、それでいて世話焼き、でしょ?」


「世話焼きでしょうか?」


 持ってきたバスケットに意識を向けた。


「ええ。昨日の応急手当ありがたかったです。こうして、今日も買い出しされてますし」


 そっか。世話焼きなのかな、私。

 だったら、この流れなら、言ってもいいのかな。


 迷惑がられないかなと思いつつも、朝から作ってきたもの。昨日のせめてものお礼。


 世話焼きだから、私は。

 この流れなら違和感、ないよね?


「ご迷惑でなければ、良かったらサンドイッチとか、どうですか」


 私はバスケットをリオさんの眼前に突き出した。



 -----------



「たまごサンドなら、嫌いな方も少ないのかな、と思って作ったんですけど」


 広場のベンチに並んで座ると、バスケットを開いて目を瞑った。

 差し出す。


「昨日の、口の中の、ケガもありますし、食べやすいのかなと」


 次々と言い訳がましい言葉が出てくる。


「いただきます」


 暗闇の中、彼の言葉を聞いた。

 反応なんて見れるわけがない。


「うん、おいしい」


 弾んだ声に顔を上げていた。


「本当ですか!」


「え、ええ」


 思わず声を張り上げていた。

 リオさんは気圧されたように苦笑し、バスケットのたまごサンドを摘まんで、口に押し込んだ。


「一気に口に入れすぎです」


 お茶を入れて渡す。リオさんは、豪快にお茶を流し込んだ。


「ほら、世話焼きだ」


「からかわないでください」


 私たちは周囲からどのように見られているんだろう?

 子供連れの家族を眺めながら、たまごサンドを一口齧った。


「たまごサンド、子供の頃からの好物なんです」


 競争しているわけでもないのに、リオさんは両手にたまごサンドを摘まんでいる。

 勝ち誇ってなんだか嬉しそう。


「誕生日、クリスマス、事あるごとに作ってもらってました。その度に……」


 また、たまごサンドを一口で頬張る。

 その仕草はまるで子供だ。

 リオさんは、お茶を飲み込んだ。


「こんなふうに食べて、母に叱られました」


「しっかり噛んで食べてくださいね」


「そうですね、懐かしくてつい……」


 リオさんが手を伸ばす。

 バスケットは空になっていた。


「あ……」


 リオさんの指は行き場をなくしてさ迷った。


「ふふ」


 困った顔を見て、笑いが込み上げてきた。


「食い意地張ってるのバレたかな」


 リオさんが冗談を言った。

 二人で顔を見合わせて笑う。


「もし、迷惑でなければ、ですけど」


 あまり距離を詰めすぎるのは危険だ。

 心を閉じ込める蓋が欲しい。


「良かったら、また明日作ってきますよ」


 それでも私は、そんな提案をしていた。

 私たちは、ギルドの冒険者と依頼人。お金でつながる関係。明日には、解消される。



 -----------



 最後の日は昼食を終えると、二人で川沿いを歩いた。

 鉄柵越しの川は、太陽の光を反射して輝いている。水面は浅く、泥が隆起して幾筋もの流れを形成していた。


 無言で歩く。言葉を発しない、居心地の悪さはなかった。私は鉄柵の縦棒に指を当てて歩く。旋律を奏でるように、指が棒の上で、跳ねた。


 ぽちゃん、と蛙が川に飛び込み、流れに任せて泳ぎ始めた。


「流れた川の水は、元には戻せませんね」


 蛙は川底に潜り、どこかへ行ってしまった。


 誰かが作った笹船が二艘流れてきた。船は、ゆっくり歩く私たちを追い抜き、泥で分岐した流れに沿って、二手に分かれ別方向へと進んだ。


 そう。流れた水は戻らない。従うだけ。

 でも、一つだけ思うことがある。


「私はこうも思うんです」


 少し歩く速度を速めた。

 水嵩が増し、泥の隆起がなくなった。分かれていた笹船が合流した。


 船はぶつかり、渦に巻き込まれたかと思うと、浮上し、寄り添うように水面を進む。


「意志があれば、新たな流れに乗ることも、もしかして、できるんじゃいかって」


「意志、ですか」


 リオさんは笹船を眩しそうに見送り、鉄柵に腕を預けた。


「俺はきっと、流れに身を委ねること自体を拒絶していたんです。幸せなんてものは与えられるものでなく、自分の手で掴み取るものだと思ってたから」


 体を反転させ、リオさんは鉄柵にもたれた。


「でも、流れに飛び込んだうえで、掴み取れば、それは与えられたものじゃない。自分の手で掴み取ったものだったんだ」


 自虐的に笑い、リオさんは私の瞳を探るように覗く。


「もう意志が届かないくらいに遠いところまで、流れて行ってしまったのかな」


 その言葉は私に訊ねているのか、それとも独り言なのか、そんな曖昧な響きを持っていた。

 だから私もリオさんを見返して、曖昧に答える。


「意志を持つことに遅すぎる、なんてことはないと思います」


 私の言葉にどういう感情を持ったのか、リオさんは深く笑った。


「こうなると思ってた」


 さっきまでの静かな世界での笑顔ではない。もっと獰猛な笑い、仕掛けた罠にはまった獲物を見た狩人のような満足感が彼の表情に浮かんだ。


「今日で良かったです」


 リオさんが囁いて、私の視界を塞ぐ。彼の大きな背中が、私を隠した。


「あの時、言ったな。ここから先は、俺とお前のケンカだってな」


 先ほどまでの優しい声とは変わって、鋭い声が飛んだ。


 私は息を飲んだ。

 リオさんの影の中で、男の人たちの声が聞こえた。


 あいつだ、と察した。私がギルドに駆け込む原因となった、あの男の人だ。しかも複数人いる。先日の仕返しに来たんだ。


 いくらなんでも危険だ。私が原因なのに、こんなことにリオさんを巻き込めない。

 私は彼の袖を引っ張った。


「逃げましょう」


「ここで逃げてもあいつらは、またやってくる。この場で終わらせるべきだ」


「だったら、リオさんだけでも逃げてください」


「何言ってるんです、これは仕事……」


 言葉を切り、リオさんは袖を掴む私の拳にそっと指を入れる。


 親指が、ほどける。

 リオさんの無骨な指が私の拳を、崩した。


「これは俺の意志なんです。俺が掴み取るべきものなんだ」


 肩を押された。

 リオさんは男たちへと一歩踏み出した。


「さあ、教えてくれるか。どれくらい痛めつければ、お前たちは諦める?」


 男が飛びかかってきた。リオさんはその腕を捉えて体を反転させる。地面に叩きつけられ、男の体が跳ね上がった。


 背中に目がついているように左腕を振るう。拳が顔面を捉えた。後方に蹴りだした足が、相手の顎を突き上げる。


 地面に三人の男性が重なって倒れた。


 叫び声を上げて、男がリオさんに掴みかかった。


 指がリオさんに届くより早く、足が男のこめかみを弾いた。

 鈍い音がして、男が崩れ落ちた。


「まだ、続けるのか?」


 リオさんが坊主頭の彼に尋ねる。彼は震える顎を閉じられないまま、空気を欲するように喉を鳴らす。


 襟を破るほどの勢いで、リオさんは彼を胸元に引き上げた。


「答えろよ、まだ続けるのか?」


 坊主頭の彼はかろじて首を横に振った。


「いいか、俺に用があるなら、いつでも来い。ギルドで、リオ=アスターの名前を言えば、いつでも俺に繋がる。分かったか?」


 額をぶつけるほどの勢いでリオさんが叫んだ。坊主頭の彼は、慌てて何度も頷いた。


 リオさんは男を突き放した。坊主頭の男はよろめき、鉄柵に体をぶつける。


 太い指が私の指を包んだ。


「行きましょう」


 走り出した。リオさんは力強く私の手を引く。私は手を握り返した。呼吸が弾む。


 心臓が跳ねるのは、走っているからか、目の前の乱闘に恐怖したからなのか、それとも……


 男たちの姿が見えなくなると、リオさんは足を止めた。手を離す。


「怖いですか、俺のこと?」


 短く刈り込んだ髪。固く握りしめた無骨な拳は、傷だらけだった。


 まっすぐに見つめる瞳は、なぜだか初めて会った日のことを思い出させた。


 でも、あの時とは違う。リオさんの目の光は少しぼやけて、拳が、なんだか震えているように見えた。


「不愛想で不器用で、おまけに、真面目すぎ。そして……」


 傷だらけの拳に両手を乗せた。


「冒険者として頑張ってるのが、リオさん……でしょ? 怖いところなんてないですよ」


「その任務も、今日で終わりです。あいつらも、もうあなたのところには来ないでしょう」


 私は依頼主、彼にとって私は護衛対象者。お金でつながる関係は今日でおしまいだ。


「そうですね……」


 私は精一杯笑った。リオさんが私の手を握りしめた。思わず手を引こうとすると、力で封じられた。


「今さら、かもしれません。自分でも、都合がいいな、と思っています」


 不器用ながらも、リオさんは言葉を紡ごうとする。


 私は手の力を抜き言葉を待った。


「もし、迷惑でないなら、明日の午前中、空いてるのでまた買い出し行ってもいいですか? 今度は任務ではなく、お手伝いとして」



-----------



 今日は忙しい。ここ最近で一番忙しい。リオさんと二人の買い出しで、家と市場を何往復しただろう。


 父親たちの歌声とはしゃぎ声が響く。

 肩を組んで、お酒を飲み干し、肉に噛みつく。


 いくら昔ながらの親友同士だからって、あまり長いこと騒がれては近所迷惑だ。


 私は手を打ち鳴らして、お酒も食材も尽きたことを宣言し、お開きを一方的に告げた。


 そんな私を横暴だと、父親たちは言うが、わがままには付き合っていられない。こっちだってすることがあるんだ。


 隣の部屋に移ると、座っていたリオさんが振り返り、一枚の紙を差し出した。


 慎重に紙を受け取った。自然と笑みがこぼれる。

 テーブルが汚れていないか確認して紙を置く。


 受け取ったペンを慎重に動かし、婚姻届にサインをする。


 ライナ=アスター。


 これからお世話になる私の名前だ。


『婚約の件、なかったことにしましょう』


 振り返ってみれば、最悪な初対面だった。


 でも、この言葉がなければ、私はギルドに駆け込むこともなかったし、「リオさん」としての、本当の彼を知ることもなかった。


 きっと、彼だって同じだ。

 川の流れが一つになるように、私たちはまた巡り合った。


 この幸せは、お互いの父親が用意したものじゃない。

 私たち自身が、自分の意志で掴んだ幸せなんだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ