第一章 春のまなざし、ふたりの朝
――目覚ましのベルが鳴る少し前、静かな寝室にやわらかな陽射しが差し込んでいた。
カーテン越しに春の光がゆらぎ、ぬくもりを帯びた空気が、まだ夢の中にいる姉妹の輪郭をそっと浮かび上がらせていた。
「……あすか、起きて。もう朝だよ」
結城ことはは布団の中からそっと身を起こし、隣で丸くなって眠る双子の妹――結城あすかの肩を軽く揺すった。
「ん……もうちょっと……」
薄く眉をしかめながら寝返りを打つあすかに、ことはは小さく笑ってカーテンを開けた。朝の光がふたりの部屋を優しく満たし、ふわりと花の香りが窓から流れ込む。
「ほら、ほんとに遅れちゃうよ」
渋々起き上がったあすかが寝ぼけ眼で髪をかき上げ、ことははその横で制服のブラウスをハンガーから取り出す。
ふたりで使う大きめの姿見の前で、ことははゆっくりとパジャマのボタンを外し、薄手のブラをつけ、制服のシャツを身につけた。あすかも同じように着替えながら、「髪、乱れてない?」とことはに聞く。
「大丈夫。可愛いよ」
「……そ、それはこっちのセリフ」
頬を赤らめるあすかに、ことははくすっと笑う。
リビングに下りてトーストを焼きながら、姉妹はいつものように軽く言い合いになる。
「私はバター派。トーストはシンプルが一番」
「えー、私はジャムがいい。いちご、今日もあるよ?」
「甘すぎるのは朝に重いよ……」
「ことはは大人ぶってるだけー」
そんなやり取りをしながらも、結局ふたりはそれぞれの好みでトーストを頬張る。ほんのり焦げた香ばしい匂いと、甘いジャムの匂いが、部屋に混ざり合う。
食後、ふたりは玄関に並んで立ち、廊下の壁に飾られた両親の写真に静かに手を合わせた。
「今日も行ってきます、お父さん、お母さん」
写真の中で優しく笑うふたりの両親。三年前の事故で亡くなったその面影は、ことはとあすかの記憶の中で色褪せることはなかった。
両親が遺してくれたこの家に、姉妹ふたりで住んでいる。叔母の涼子がかつて世話をしてくれていたが、今は海外に転勤中だ。
ことはは鍵をかけ、あすかと並んで家を出る。駅までの道を歩きながら、ふたりは自然と肩を並べた。
「今日もいい天気だね」
「ねー、でも花粉飛んでそう」
住宅街の坂を下り、駅前の商店街を抜けていく。桐ヶ丘市は静かで緑も多く、ことははこの街ののんびりした空気が好きだった。
やがて楡原駅が見えてきた。こぢんまりとした駅舎。各駅停車しか止まらない、古めかしい駅だ。
そのとき、風を切って通勤急行がホームを通過していく。
「うわ、今の新型だった!」
あすかが悔しそうに叫ぶ。「なんで楡原は各駅しか止まんないのよ~」
「でも、静かでいい駅だよ。お父さんとお母さんが残してくれた家があるし」
ことはの言葉に、あすかは小さくうなずいた。「……そだね」
やがて、古びた各駅停車がホームに入ってきた。
「あー、また古いやつか。ボロいなあ……」
「それも桐山電鉄らしさだよ」
ふたりは乗り込み、吊り革につかまりながら揺られる。制服姿の女子学生が多く、車内は活気と静けさが同居している。
桐山電鉄は都心から郊外を抜け、温泉街まで続く私鉄路線。桐ヶ谷駅までは通勤客が多いが、その先は赤字区間。車両は古いが、たまに運行される新型に乗れるのが姉妹のささやかな楽しみだった。
約25分の乗車ののち、車掌のアナウンスが車内に響く。
「まもなく、蒼嶺学園前~、蒼嶺学園前です。蒼嶺女学院にお越しの方はこちらでお降りください」
ふたりは他の生徒とともにホームに降り立ち、改札を抜ける。駅前は整った住宅街。その奥に向かって、学園への坂道が続いていた。
「今日もこの坂かー。体育よりしんどい……」
あすかがぼやく。
徒歩8分ほど、緩やかだが確実に体力を奪う坂道。その先に、白壁の学舎が顔を覗かせる。
蒼嶺女学院。桐ヶ丘市ではトップクラスの私立女子校。制服姿の生徒たちが門をくぐっていく中、ことはとあすかも並んで歩いていた。
「おはようございます」
校門に立つ教師に声をかけ、姉妹はそろって一礼する。
穏やかに始まった春の一日。
この日常のなかに、まだ誰も知らない影がそっと差し始めていることに――
ふたりはまだ、気づいていなかった。