自死念慮
冷たく、硬い、レンガの床。
薄暗く、不衛生な、湿気の多い空気。
常に、誰かの呻き声が、誰かの叫び声が、どこからか聞こえてくる。
そんな劣悪極まりない空間に、不釣り合いな革靴の足音が整然と鳴り響く。
その足音の主は、いかにも貴族風といった格好の男だ。
貴族風の男の向かいから、看守の男が歩いてきた。
看守は、この場を管理する仕事を任されている。
そして、看守は貴族風の男を知らなかった。
看守の知らない、この場に不釣り合いな人間がいる。
要するに不審者だ。侵入者だ。看守は、その男の身元を問いたださなければならない。
しかし、看守はその男とすれ違う際、道の脇を小さくなって俯きながらすれ違った。
それはまさしく道端の小石のように、その男の邪魔にならぬようにすれ違ったのだ。
それも当然な話だ。
その小石のような看守は、低賃金で重労働の仕事を仕方なくこなす、社会での最底辺付近に位置する人間だった。
目の前のいかにも貴族然とした格好で、威風堂々と、支配者然と歩く男に対して、身元を問う勇気も、権利すらないと、看守は自認していた。
看守と男がすれ違ってすぐに、男の向かいから医者が歩いてきた。
看守と同様に、医者も男を見た瞬間、男が自分より圧倒的に立場が上の存在であると認識した。
しかし、医者はその施設の最高責任者であった。その男の正体を知らなければならなかった。
医者はその男に、大いなる勇気をもって話しかけた。
「そこの御方!今日はどのようなご用件でこちらにお越しでしょうか?」
「いやなに、大した用事ではない。一時しのぎの遊戯を、ちょいとしにきたにすぎないのだ」
男は、自身の歩みを一切止めずにそう答えた。
医者は男の態度と、その返答に畏怖した。
一体全体この男の言う「遊戯」とは何なのか、それを想像して医者はぞっとした。
ここは立場の弱い物、社会的弱者、この世から消えても大して問題のない者ばかりが集まる場所だ。
そのような場で行う、権力者による「遊戯」が、人道的な物であると医者は思えなかった。
医者は、この劣悪極まりない空間の最高責任者だ。
しかし、劣悪にしようとして劣悪になったわけではなく、医者はその空間が最善であるように努力してきた人間なのだ。
人道に反するような「遊戯」を、医者は許せなかった。
しかし、それは権力者に逆らう理由にはなりえなかった。そのため、医者はその「遊戯」をなるべく人道的な物であるようにするべく努力することを、今、神に誓った。
「それにしても、旦那様はどうしてこのような場を歩いているのでしょうか?もし、お探しの物があるのであれば、わたくしめが見繕いましょう。」
「その必要はない。私が見つけたいものを、私が探すのだ」
「そ、そうでございましたか。そのようであれば、お探しの物の特徴を教えていただければ―――あ」
医者が言葉を止めたのは、ちょうど真横のドアから「死なせてくれ!!!」という、患者の懇願のような怒号が聞こえてきたからだ。
しかし、その声を意に介することなど、普段の医者であればありえなかった。
医者がその声に反応したのは、嫌な予感がしたからだ。
その嫌な予感は、すぐさま的中した。
医者に話しかけられても歩みを止めようとしなかった男が、そのドアの前で立ち止まったのだ。
「よし、この者に決めた」
男はそう言って、医者が何かをする暇もなくそのドアを開け放った。
ドアを開けた先には、劣悪な環境の廊下と同様な、劣悪な部屋と、汚らしい恰好をした男の患者がいた。
その患者は、両手両足に枷を付けられ、ベッドに四肢を括り付けられていた。
患者は男と医者を見ると、少し驚いた後すぐに「死なせてくれ!」と、懇願した。
「医者よ、どうしてこの男は鎖につながれている?」
「そ、それは、自由を与えると、自殺を図るからでございます」
「まあ、そうであろうな」
「あの、旦那様。この患者で一体何をなさるおつもりなのでしょうか・・・?」
「医者よ、暫し黙れ。分かったか?」
「は、はい!」
男と医者の問答の最中も、患者は「死なせてくれ」と譫言を繰り返していた。
「おい、患者」
「死なせてくれ」
「お前はどうして死にたがる?」
「死なせてくれ」
「死んだあとの幸福を信じているのか?」
「死なせてくれ」
「生の苦しみから逃れたいのか?」
「死なせてくれ」
「お前の大切な物は何だ?」
「死なせてくれ」
「お前は何を望む?」
「死なせてくれ」
「ならばなぜ今死なない?」
「死なせてくれ」
「お前、口は自由だろう?」
「死なせてくれ」
「なぜ舌を嚙み切らない?」
「死なせ・・・」
「死にたいというのなら舌を噛み切れ」
「・・・・・・」
「どうした。早くしろ」
「・・・・・・」
「なぜしない?」
「怖い」
「ほう?」
「痛いのは怖いんだ」
「そうか」
「だから、怖くないよう死なせてくれ。お願いだ」
「よかろう。ただし、条件がある」
「なん・・・でしょうか」
「私のいくつかの質問に、正直に、正確に答えろ」
「分かりました」
「お前は何を望む?」
「死を望みます」
「なぜ死にたい?」
「これ以上生きたくないからです」
「生きたくないと思う前、お前は何を望んでいた?」
「・・・・・・」
「何を望んでいた?」
「妹の、幸せです」
「妹はどうした?」
「し・・・しに・・・・死にました」
「お前が死にたい理由は、妹の死に関することだな?」
「・・・・はい」
「よし、お前は質問に答えた。望みを叶えてやろう」
そう言うと、男は患者を指差した。
男はただ、患者を指差しているだけだ。
だが、男の断言する姿勢と、その堂々とした態度から、患者も、医者も、その男によって患者は死ぬのだと、今、死ぬのだと、そう確信させた。
「ところで、患者よ」
「はい、なんでしょうか」
患者は、絶対的な流れに身を任せるように、目を閉じて男の問いに答えた。
「『これでようやく妹に会える』お前、そう思ったな?」
「はい」
「それは間違いだ」
「なぜ・・・なぜでしょうか・・・?」
「お前の妹は生きている」
「え・・・?」
患者と同様に、医者も驚愕の声を漏らす。
「お前の妹はまだ生きている。だから、お前が死んでも、お前は妹の元には行けない」
患者は、男の言葉に目を見開いた。しかし、患者は目の前にいる男を見てはいなかった。
「は・・・・え?いや、妹は・・・妹は目の前で・・・・」
「信じていないようだな。お前の妹をここに呼んである。おい、君、出てきなさい」
男の言葉と同時に、ドアがゆっくりと開く。
開いたドアの先には、どこにでもいそうな町娘が居た。
「ああ、なんてこと、なんてことだ・・・!」
患者の驚嘆を見て、医者も驚いた。
町娘が口を開く。
「ごめんね、ずっと待たせちゃって」
元より汚い顔を涙や鼻水でさらに汚した患者が答える。
「そんなことはない!そんなことは・・・!生きているだけで、それだけで・・・!」
久しい再会の会話も早々に、男は今までになく強い声で問う。
「患者よ!お前は一体何を望む!?」
「・・・・・!」
「何を望む!?」
「生きたいです・・・!妹と共に生きたいです!」
「よかろう!お前は質問に答えた。望みを叶えてやる!」
「ああ、ああ!神よ・・・!」
「すぐさま、妹を連れてここから出ていくがよい!」
「はい!」
患者はベッドから立ち上がり、妹を連れて足早に出て行った。
場には医者と男と静寂が残った。
医者が口を開く。
「発言を・・・・・発言を許していただけますか?」
「許す」
「あなた様は、神か、悪魔か、どちらなのでしょうか?」
医者の問いに、男は即座に答えた。
「質問を二度だけ許す」
医者は男の言葉の意味を理解し、数秒悩んだ後、また口を開いた。
「私の行いは、正しいものなのでしょうか・・・?」
「私が保証しよう。お前の行いは間違っている」
「ああ・・・!」
「しかし、お前はそうせざるを得なかった。だが、今後の行いは変えられる」
「ああ、ああ!」
医者は己の信ずる神に深い祈りを捧げた後、また数秒悩み、口を開いた。
「あなた様の仰っていた遊戯とは、死にたがる者を救済する事だったのでしょうか?」
医者は、どうして自分がこのような問いをしたのか分からなかった。
「違う。ただ・・・」
「ただ・・・・?」
「話の合う相手が欲しかっただけさ」