龍神池
山間にある小さな村で暮らすスエは、齢六つになる女童だ。
父母と兄弟六人で村の端にある小さな家に住んでいる。土間と板の間だけの荒屋だ。板の間は家族全員が寝てしまえばいっぱいになるほどに狭い。
父母は日の出から日没まで田畑で働き、夜は僅かな灯りの中で縄を編んだり細々とした手仕事をしている。
子どもたちができる仕事は季節により様々だ。
一番年上の長助と次介は父と共に田畑を耕している。三番目のトキは母の代わりに一番年下の四郎を背負って煮炊きや洗濯をする。四番目の三治と五番目のスエはまだ幼いので畑の雑草を抜いたあとは村の子どもたちと遊んでいた。遊ぶといっても、川で魚獲りをしたり山菜や果物を採ったりして家の足しにすることが多い。
家は貧しいが、どこの家もそんなものだった。
特に去年は雨が多くて作物の実りが悪かった。そのせいで年貢を納めるだけで精一杯で、今年はどの家も米が少ない。元々粟や稗が混じったご飯は次第に薄い粥へと変わっていった。
だが、今年は去年とは違った問題が起きた。
春の田植えが終わり、稲が青々と茂り始めた夏になると雨が降らなくなったのだ。
池の水は半分になり、山から流れてくる川の水も減った。いつもならたっぷりと注がれていた田の水は表面をギリギリ覆うほどで、このまま晴天が続くとカラカラに渇いてしまうだろう。
「このままでは干上がってしまう」
「野菜も枯れてしまう」
夜中に父と母が深刻そうな顔で話しているのをスエは聞いてしまった。米も少なく、水が少なければ、食べる物は極端に少なくなる。スエは小さくなった腹を抱えて丸くなった。
「早くゼゲンが来てくれれば…」
「トキとスエなら今年一年ぐらいは凌げるよ。あんた、庄屋様に聞いてみちゃくれないかねぇ」
「半年も早いと無理かもしんねぇな」
「そんな悠長なこと言ってたらみんな飢え死にしちまうよっ」
母は小さな声で父を叱りつけた。
父は困りながらも庄屋様のところに行ってみると応えていた。
ゼゲンは、地方の見目の良い女の子を買って遊廓に売り飛ばす職業で「女衒」と書く。
子沢山の家では、子を売る親は少なくない。器量が良ければ高く売れる。その金で他の家族が生きていけるのだ。子どもは労働力でもあり、資産でもあった。
親としてもここでひもじい思いをさせるよりも、遊廓で綺麗な着物を着て食べるものに困らない方が良いと考える。
この村にも何度か女衒が来たことがあったが、その時はまだトキもスエも幼すぎて売られることはなかった。
トキの見目はそこそこだが、もう十を過ぎているから大した額にはならないだろう。だが、スエは村でも一番の器量良しだ。トキの倍にはなるのではないかと、父母は期待していた。
翌日、スエは庄屋様のところへと行く父の後を尾けて行った。
丘の上に建つ庄屋様のお屋敷は大きくて立派で、粗相をしちゃなんねぇからと子どもたちは近寄ることを禁止されていた。
その庄屋様の屋敷に、父はゼゲンを頼みに行くと言っていた。ゼゲンを知らないスエは食べ物だと思った。貰ったゼゲンを少しだけ分けてもらおうと考えたのだ。
お屋敷に近づくと怒られるかもしれないので、スエは木の影に隠れてお屋敷の入り口を見ていた。
しばらく待ってみたが父はまだ出てこない。暇で欠伸が出そうになった時、背後から肩を叩かれた。
「うきゃあっ」
「うおっ」
驚いて悲鳴が出たが、肩を叩いた相手も驚いたらしい。身を竦めて振り向けば、三治が両手を上げて目をまんまるにしていた。
「もぉ、びっくりしたぁ」
「こっちも驚いたぞ。こんなとこで何をしてんだ」
「な、なんでもない」
「庄屋様のお屋敷に近づいたら母ちゃんに大目玉喰らうぞ」
三治は脅すように両手を振り上げて手首をふるふると震わせる。
「兄ちゃんだって怒られるからね」
「怒られるのはスエだけじゃ」
「違うもん」
囃し立てる三治に腹を立てて両手を振り回すが身長差があり全く届かない。
じゃれあいがいつの間にか鬼ごっこになり、他の子どもたちも加わりはしゃぐ声があたりに響いた。
その様子を父と共に出てきた庄屋様がぎょろりとした目で見ていた。
日照りが続く中、父は村の寄り合いだと何度か庄屋様の屋敷へと足を運んでいた。
いつも手ぶらで帰ってくる父を見て、スエはゼゲンが食べ物ではなかったのかとガッカリしていた。
土が見え始めた田を見て母はため息を吐くことが多くなった。食事も粥の代わりに蒸した芋などに変わり、乳の出が悪いと四郎が泣くことも増えた。
川の水が半分以上も減った頃、スエたちが住む荒屋に庄屋様が訪れた。
緊張した面持ちで父と母が挨拶をしている。何かを感じ取った子どもたちは家の隅でその様子を静かに見ていた。
「スエ。こっちおいで」
開いた戸から漏れる光が眩してくて、スエは大人たちの顔がよく見えなかった。
母の声に戸惑いながらも近づくと、母の手がスエの背中をぐいっと押し出した。タタラを踏みながら母よりも前に出ると、目の前には恰幅の良い庄屋様がいた。
どちらかといえば柔和な顔立ちをしている庄屋様だが、無遠慮に見下ろしてくる目が怖くてスエは思わず後退った。
おどおどと見上げてくるスエを見て、庄屋様はにっこりと笑いかけた。
「スエだったか。いま幾つだったかな」
「む、六つ、です」
「そうか。そうか。弥平、それじゃあ連れて行くぞ」
弥平とは父の名前だ。
呼ばれた父は躊躇う素ぶりをみせ、母に背中を軽く叩かれていた。
「へ、へぃ。あ、あの、庄屋様…その今年は……」
「分かっとる。お前のとこの年貢は免除じゃ。ゼゲンの件も早めになんとかしよう」
父と庄屋様のやりとりを不思議そうに聞いていたスエは、母に呼ばれて顔を向けた。
母はいつになく真剣な顔で、膝を地につけてスエの両肩をガシリと掴んだ。
「いいかい。今日から庄屋様の言うことをちゃんと聞くんだよ。うちに帰ってきちゃいけないよ。分かったね」
「な、なんで……」
「分かったね!」
帰ってくるなと言われて不安になったが、母が鬼気迫る顔で重ねて言ってくるので、不承不承頷くしかなかった。
怖い顔の母と情けなく眉を下げた父、その間から不安そうに覗く兄弟たちが佇む家を何度も振り返りながら、スエは庄屋様に手を引かれて歩きだした。
どうして庄屋様と手を繋いでいるのか、これからどこにいくのか、スエには何も分からない。聞いてみたいが、話しかけてもいいのかが分からない。
分かるのは、家に帰ってはいけないということと、庄屋様の言うことをきくことだけ。
庄屋様は偉い人だと父も母も言っていた。
父を追ってきた木の側までやってきた。あの時と変わらず庄屋様のお屋敷は立派だった。
スエは生まれて初めて庄屋様のお屋敷に入った。
自分の家とは全然違う様子に目がまんまるになる。門を越えると、スエの家が四つも五つも入りそうな大きな家があった。どこからか鶏の声も聞こえてくる。
「お戻りなさいまし」
「ああ。フク、この子がスエだ。面倒をみてやってくれ」
「まぁ、まぁ、この子が………そうですか」
母よりも年嵩の女が奥から出てくると、庄屋様は繋いでいたスエの手を離してフクという女の人のほうへとスエを押し出した。
おどおどと見上げるスエを見て、フクは少しだけ眉根を寄せて渋面になった。
「スエ。ついておいで」
フクは土間にあった履き物を履くと家の外へと出てしまった。どうすれば良いのかと、庄屋様を見ればスエを気にすることなく家の中へと上がって行ってしまった。少しだけ考えて、フクの後を追った。
フクは家の横にある井戸の前にいた。
「服を脱いで、ここにお座り」
指さされたのはフクの前だ。
スエは言われたとおり、ツギハギの着物を脱いで横に置くとフクの前に座った。
フクは貴重な井戸水を汲み上げると手拭いを使ってスエの体をぬぐい始めた。汚れた体を拭えばすぐに手拭いが黒くなる。二度と三度と井戸水を替える頃にはスエの体はすっかり綺麗になった。
「まぁまぁ、愛らしい顔だこと」
新しい手拭いで全身を拭かれ、スエは素っ裸のまま家の中に連れて行かれた。
畳が敷かれた部屋でフクは立派な箪笥から綺麗な着物を取り出した。
それは、フクが着ているような鮮やかな緑に小花が散った着物だった。こんなにも綺麗な着物を見たのは初めてだったスエは、自分がこの綺麗な着物を着ると聞いて飛び上がるほど驚いた。
そんなスエを見てフクはコロコロと笑った。
「スエは特別だから良いのよ」
「とく、べつ?」
「そう。スエにしかできないことをしてもらうの。だから、これはそのお駄賃のようなものよ」
フクはにっこりと笑ってスエに着物を着せた。
髪の毛を梳いて艶を出し、下唇にほんのりと紅をさす。それだけで、スエは見違えるように可愛くなった。
その上、家では食べられなかったご飯が夕飯に出てきた。白い部分が多いご飯に、大根の漬物、焼き魚に味噌汁と、スエの家では考えられないご馳走だ。
庄屋様の屋敷には井戸があるから味噌汁も作れるのだという。その井戸も日に日に水が少なくなっているらしい。
そんな貴重な井戸水で自分の体を洗ったのかと思うと申し訳なさでいっぱいになる。
落ち込むスエにフクは「スエは特別だから良い」のだと教えてくれた。一緒に食べていた庄屋様もその通りだと頷く。
「あの、あたし何をしたらいいですか?一生懸命、頑張ります」
その言葉を聞いて庄屋様は満足そうに笑った。
「そうかい。嬉しいねぇ。スエにはやって欲しいことがあるんだよ。これはスエにしかできないことで、村の命運がかかっとる」
「めぇいうん?」
「村人全員がスエに期待しているということよ」
難しい言葉だったがフクが教えてくれた。
そんな大事なことを任されるとは思ってもみなかった。だが、みんなのためだと言われれば頑張るしかない。
自分ができる特別なこと。
スエは自分がとてつもなく偉い人になれた気がした。だって庄屋様でもできないことをスエがやるのだ。
あたしは『特別』だから。
翌日の朝餉には真っ白なご飯が出てきた。こんな白いご飯を見たのは生まれて初めてだった。しかも大盛りだ。山のように装われた白い飯がピカピカと光って見えた。他にも煮魚にお味噌汁。それだけでも涙が出そうなほど美味しいのに、朝餉のあとに干し柿まで食べさせてくれた。
「美味しいかい?」
庄屋様の声にスエは何度も何度も頷いた。
「美味しくて、美味しくて泣きそうだ。あたし、もう死んでもいい」
「そうか、そうか」
大袈裟なスエの言葉に庄屋様もフクもにこにこと笑っていた。
なんて幸せなんだろう。
美味しいご飯も綺麗な着物もある。それはスエが『特別』だからだ。
「さぁ。スエ、今日は大事な日だ。スエにしかできない大事な、大事なお役目があるんだよ」
「うん!あたし、頑張るっ!」
フクはスエに真っ白の着物を着せた。着物どころか帯まで白い。フクのように顔にお白粉を薄く塗り、下唇に紅を指す。
まるで、母に聞いた花嫁御寮のようだとスエは思った。
「さあ、両手を出して」
フクに言われるまま両手を差し出すと、フクは縄でスエの手首をくるくると縛ってしまった。
「なんで縛るの?」
「そういうものなんだよ」
そう言いながらフクはスエの両足も同じようにくるくると縛ってしまった。
「歩けないよ?」
「男衆が担いでくれるから大丈夫さ」
フクが誰かを呼ぶと大きな男の人がやってきてスエを米俵のようにひょいと担ぎ上げた。両手両足を縛られたスエはされるがままに運ばれ、家の外に控えていた輿に乗せられた。
木材で作った輿には落ちないように高い縁が付けられていて、座るように乗ったスエが転げ落ちないようになっている。
「ああ、スエ。綺麗になったな」
「しょ、庄屋様。あたし、なにをするの?どこに行くの?なんで縛るの?」
「スエはなにも心配しなくていい」
庄屋様が近くにいた男に何かを言うと、その男は持っていた手拭いを猿轡のようにしてスエの口を封じた。
男衆の手によって輿が持ち上がる。動き出した揺れでスエの体が倒れた。自力で起き上がることのできないスエはそのまま運ばれていく。
即興で作られた縁の隙間から庄屋様が見えた。
「今年の日照りは酷いと思わんか。去年は雨が多くて、今年は少ない。こんなに天気が乱れるなんて、龍神様が怒っていらっしゃるんだよ」
龍神は雨を司る神様で、水を好む。
お寺の裏にある龍神池に棲んでいるので、子どもたちは近寄ることを禁止されていた。
「だからね。龍神様に雨を降らせてもらえるようにお願いしようと思うんだよ」
「んー、んんー」
神妙に話す庄屋様は詳しいことを話さない。
龍神様にお願いするために何をすればいいのか、スエは何も知らない。聞こうにも猿轡のせいで話すこともできない。もどかしくて首を振ってみるが、よほどキツく縛られているのか外れる気配もない。
そうこうしているうちに、輿は寺の山門を潜り、本堂に沿ってさらに奥へと進んでいく。
大きな木々の中を進んでいけば水の匂いがした。
輿が下ろされ、スエを担いだ大男が再びスエを持ち上げた。今度は乳を食む赤ちゃんのように横抱きにされた。
龍神池も水嵩は減っていたが、変わらず緑に囲まれていた。濁っているのか緑色の池は底が見えない。
緑に囲まれた静謐な龍神池は干上がっていく村とは対照的で、スエには別の世界のように見えた。
「スエ。これはお前にしかできない『特別』で『大切』なことなんだよ。大丈夫だ。七つまでは神様の子だ。お前は神様の元に還るだけなんだよ」
庄屋様は優しくスエの頭をひと撫でする。
グッと垂れ下がった袖が重くなった。それが何かと確認する前に、庄屋様がスエの両手に収まるほどの石を握らせる。その上から誰かが縄でくるくると縛りつけた。
手首も両手も縄でぐるぐる巻きにされてしまう。
「龍神様。どうか、雨を降らせてください」
庄屋様が合掌しながら池に向かって叫んだ。
それと同時にスエの体はぽーんと放り投げられ、冷たい池の中に沈んでいった。
雷を伴った豪雨は三日三晩降り続き、田畑や家は水に浸かり、山は崩れて庄屋の屋敷は土砂に埋まってしまった。
生き残った人々は龍神の怒りだと、龍神池に新たに祠を建てて祀った。
白い飯や干し柿を供えると池が美しく輝くと噂になり、祠には常に食べ物がお供えされるようになったという。
お読みくださりありがとうございます。