EP:45
目的地に辿り着いた。
懐かしさよりも、気持ちが逸る。
探知の奇跡を使えば、レイニーに察知される。
いや、私がここへ来たことなど、とっくに気づかれている気がした。
ならば、もうどうでもいい。
夫婦の寝室、そのベランダに静かに着地する。
ガラス戸を小さく「コン」と鳴らせば、室内に人の気配。
やがてカーテンが開き、レイニーと目が合った。
ガラス越しの"私"は、まるで一年前と変わらない。
驚くでもなく、怯むでもなく、ただ静かに私を受け止めて、扉を開けてくれた。
そして、笑った。
その笑顔に、私はそっと「ありがとう」と言った。
彼女から敵意は感じない。
その理由は、色々あるけれど、一番は、なんとなく理解している。
それから、気配も足音も消して、書斎へと向かう。
きっと彼は、あの日と同じように、そこにいるはずだ。
扉の前で、深く息を吸い、吐く。
静かに、扉を押し開けた。
すぐそこに、ソファで眠るジャックがいた。
その寝顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
そっと近づく。
自分の鼓動が早くなっていくのを、はっきりと感じた。
その理由も、今はもう分かる。
分かっている事が、嬉しいと感じた。
眉間に皺を寄せたまま眠る姿が、ひどく愛しい。
目を逸らしたくないと思ったが、それ以上に、話がしたかった。
あの日の、再現をしようか。
ジャックの背後に回り、耳元で囁く。
「……ジャック」
瞬間、ジャックが飛び起きた。
反射的に身構え、低くかすれた声で言う。
「……誰だ?」
私は仮面を外し、もう一度、彼の名を呼ぶ。
「ジャック」
その声に、彼の表情が、ゆっくりと柔らかくほどけていく。
「……レイニー?」
まさか、という声。
信じたいのに、信じきれない――そんな顔。
「ジャック!」
手を伸ばすと、彼は予想に反して、その場に崩れ落ちた。
「俺、俺……」
驚いた。
慌てて駆け寄り、その背を抱きしめる。
「俺、俺、レイニーを探したんだ……君を、手放さないって、誓ったのに……」
「……うん」
「でも、見つからなくて……それで、何度も陛下にお願いしたんだ……」
「……うん」
「でも……君はもういないって言われて……だから俺、君は死んだと思って……」
「……うん」
「絶望して……なんであの時、そのまま帰してしまったんだろうって……後悔しかしなくて……」
「……うん」
「生きる気力もなくて……レイニーが居ない事が、受け入れられなくて……」
「……うん」
「あの人形に、八つ当たりして……それも意味無くて……それで……」
「……うん」
「陛下を恨んだけど……でもだから、どうこう出来るわけも無くて……」
「……うん」
「結局……手を離したのは俺だから……俺が、俺が悪くて……」
「……うん」
「あ、会えると思ってなくて、それから、あの時の事謝りたくて、だから、今、嬉しくて……」
「……うん」
「……ほんもの?」
そのあまりに弱々しい声に、思わず微笑んだ。
「ジャック、顔が赤いよ?」
あの時と違うけど、あの時と同じように。
現実を受け入れたのか、私の存在を実感したのか、ジャックは私を抱きしめた。
「あぁ……!」
漏れ出た声と、腕に込められた力に、愛を感じた。
「ジャック、会いたかった」
「俺も、俺も……!」
余裕のないジャックに、心が満たされた。
幸せな気持ちになった。
ただ、ただ抱きしめているだけなのに。
それだけで、世界が変わったような気がした。
たったそれだけで、自分の選んだ行動が間違っていなかったと、心から思えた。
青年を前に、私は思った。
ここで青年を殺したら、私を殺したら、
それはもう「私ではないのではないか」と。
それはもう「生きている」とは言えないのではないかと。
だから、殺さなかった。
私は、まだ「生きたい」と思ったから。
ジャックと過ごしたいと願えたなら、それはきっと、私は「生きたい」という事だと思った。
少し、理屈めいているかもしれない。
ただ「生きたい」に理由を付けただけかもしれない。
「殺さない理由」を、探しただけかもしれない。
なんでもいい。
私は「生きたい」と思った。
だから、殺さなかった――。
ジャックは、私の存在を確かめるように、長く長く抱きしめ続けてくれる。
その腕にこめられた熱が、心の奥にまで染み渡る。
やがて彼は、私の顔を見つめながら、まだ不安げだった。
その様子があまりにも可愛らしくて、笑いそうになるのを堪えながら、そっと唇を重ねた。
初めて、私からしたキスだった。
それはほんの触れるだけの軽いもの。
恥ずかしいというより、ただ、照れ臭くて。
ジャックは一瞬呆然とし、それから熱く、深いキスを返してくれた。
一年ぶりのキスは、あの時と同じく、甘く、蕩けるようだった。
胸がいっぱいになった。
息ができないほど、幸せだった。
ジャックは、私を確かめるように、何度も何度も求めてくる。
私はすべてを受け入れた。
今この時間を、深く、深く噛みしめる。
訊きたいことは、確かめたいことは、山ほどある。
けれど、今は何も考えずに、ただ彼とともに、静かにこの時を慈しんだ。




