EP:32
「何か勘違いをしていらっしゃいますわ。そもそも、貴方たちは交渉の土俵にすら立っておりません」
即座に行動に移る。
関節を外して拘束を解き、素早く男の背後へ回り込む。
その腰に差されたナイフを奪い、ためらいなく首筋へと突きつけた。
それから低い声で、男にだけ聞こえるように話す。
「命の保証は結構です。そして、貴方たちの命の保証も致しかねます」
男の額に玉のような汗が浮かぶ。
やがて、懇願するように口を開いた。
「た、頼む……せめて、せめてあいつだけでも逃がしてやってくれ……」
「あいつ、とは?」
「も、もう一人向こうにいる奴だ。家族がいる。息子もいるんだ……」
「家族ですか。それは、ご立派ですわね」
私の声に、感情は乗らない。
「では、一つ。私の問いに答えていただきましょうか」
「なぜ、私を誘拐したのですか?」
男は黙したまま、答えない。
私は手にした刃をわずかに動かし、男の首筋に浅く傷をつける。
「た、頼む……あいつだけでも……助けてやってくれ……」
「無理ですわ。もう一度申し上げましょうか。貴方たちは、交渉の場に立つ資格すらない」
「お、俺は……あいつを逃がしてくれるまで、何も話さない。それは君にとっても不利益のはずだろう?」
焦りながらも、男はなお交渉を試みようとする。
──惜しい男ね。冷静で、判断も早い。
舞台が違えば、ともに踊れたかもしれない。
「あなたを殺してから彼に聞けば済む話。彼を生かす理由にはならないわ」
「あいつは、何も知らない!今回の件は、俺が仕組んだ。あいつは関与していない……!」
……さて。どうしたものか。
この場で男を殺せば、情報が手に入らない可能性がある。
それでは骨折り損というもの。
せっかくママゴトに付き合ってあげたのだから、その報酬くらいは頂きたい。
金銭目的でないなら、なおさら情報には価値がある。
とはいえ、生かしておくつもりもない。
彼らは私の正体を知ってしまった。
そして、ジャックに危害が及ぶ可能性もある。
……うーん、どうするべきか。
尋問で口を割らせられるだろうか?
いや、恐らく──無理だろう。
この男は、今や自らの命よりも「あいつ」の命を優先しようとしている。
面倒だ。
誰かの為、という大義名分に、人間は弱い。
本当に、できれば使いたくなかったのだけれど、仕方ない。
指先で魔法陣を描く。
対象は、「あいつ」。
ズキンズキンと痛む腕を我慢する。
それから男に声をかけた。
「分かりました。あなたの言う“アイツ”の命を保証いたしましょう。今、あなたが声をかけて逃がしなさい」
「それから、これ以上の譲歩は致しかねます。仮に、あなたから情報が得られなかった場合は、“アイツ”に聞きます。そして、その家族を人質に取ります。それでよろしいですね?」
冷たい声と、冷たい刃を突きつけながら。
男は安堵したように「ありがとう」と呟いた。
そして、奥に向かって呼びかける。
「ジョン……悪いが街まで薬を買いに行ってくれ。例のやつだ。この女に飲ませたい」
「カルロス、本気か?」
椅子が軋む気配。
ジョンが動いた。
「ああ。口を割らねぇ。薬が要る。頼む」
「……分かった。すぐ戻る」
ジョンはそのまま外へ出ていった。
これでカルロスの懸念は取り除かれたはずだ。
「では、質問に答えていただきましょう」
「ああ」
「なぜ、私を攫った? 目的は?」
「金だ。どうしても金が欲しかった」
「身代金の要求?」
「ああ、そうだ」
「なぜ、それが成功すると考えた?」
「ワイルズが、長年誰かを探していたことは知ってた。でも、ついに見つけて結婚したという。ならば話は早い。長年探し続けた女なら、さぞ大切な存在だろう」
「その“探している相手”が、どうして私だと?」
「教会で話していただろう。“長年の夢が叶った”と」
……なるほど。
点が線になった。
「だから私を攫えば、身代金が支払われると信じて、この計画を?」
「ああ。でも、正直成功はしないと思ってた。そんな女なら、公爵が絶対に守るはずだからな」
「それでも実行した。なぜ?」
「金が……なかった。俺たちはアドランス地方に住んでる。帝都から遠くない村だ。でも、情勢が悪すぎて、このままじゃ餓死するやつが出る。仕方がなかったんだ」
「あのときは、他に選択肢なんて思い浮かばなかった」
アドランス──確か、西のヴァルドレッド公爵領だ。
しかし、そこまで困窮しているという話は聞いていない。
……情報が足りない。
「ただの金のために、異国の人攫いまで雇ったと?」
「あ、ああ。仲介人がいた。この計画を持ちかけてきたのも、そいつだった。本来、帝都の情報なんて、俺たちにはほとんど入ってこない」
「その仲介人は誰?」
「名前は知らない。旅をしているって言ってた。少し訛ってた気もするが、国内の人間だと思う」
「訛り? どんな?」
「いや、訛りってほどじゃない。独特な喋り方で……自分を“吾輩”って言ったり、相手を“そち”って呼んだり。異国の言葉らしいけど、気に入ってるとか」
「他に特徴は?」
「金持ちだった。人攫いへの報酬も、全部そいつが出してくれた。だから、俺たちは決行できたんだ」
「名前は?」
「分からない。“吾輩は旅の者、名は無い”と笑っていた。だから俺らは“旅の者”と呼んでた」
……なるほど。
彼らはただ、使い捨てられた道具に過ぎないらしい。
なにかの下準備。
あるいは何かの確認か。
「他に何か情報は?」
「ほかに……。そうだな、旅の者が言っていた「ワイルズが探してる女性の特徴」と、君の特徴は一致しない、という事くらいか」
……まずい。
答えることも、質問を重ねることもできない。
「その理由も、今なら分かる。君は影武者なのだろう? 本物は、別にいる」
どうする。どうすればその先の情報が聞ける。
言葉が見つからない。
何も質問できない。
「本物の特徴を、もっと正確に伝えるべきだったな。ま、どのみちこの作戦は失敗したが」
まるで、最期の言葉のようだった。
「最初から間違ってた。俺たちの問題は、俺たち自身で解決すべきだったんだ……なんで、こんなことを……」
「その後悔も、もう遅い。報いを受ける。せめて、“あいつ”だけでも救えたなら、俺は満足だ……」
人はなぜ、死を前にして、かくも饒舌になるのだろう。
まるで、自らの存在をこの世に刻みつけようとするかのように。
誰にも聞かれていないというのに。
まだ生きたいと願うなら、こちらに向かってくればいいのに。
その足掻きすらしない姿が、私にはただ、虚ろに映る。
「向こうに行ったら──」
これ以上、得られる情報はない。
そう判断し、ナイフを滑らせた。
頸動脈を断てば、出血多量で即死に近い。
彼の嘆きを最後まで聞き届けるほど、私は優しくできていない。
──さて。
「ジョン」の追跡に入る。
彼が部屋を出る前に、位置追跡の魔法を付与しておいた。
再び魔法陣を描き、追跡を開始する。
カルロスとの約束を守る気はない。
ジョンに家族がいようと、関係のないことだ。
位置を特定し、自身の脚に身体強化を施す。
鎮痛剤の効果は既に切れ、度重なる魔法の反動で腕は動かない。
だが、両足と片手があれば十分だ。
──殺せる。
風を裂き、地を駆ける。
ジョンは馬で移動していたため、私の接近には気付かない。
そのまま背後から、心臓目がけて刃を突き立てた。
血を吐き、ジョンは馬から落ちた。
馬は驚いて、そのまま駆け去っていった。
──これで二人。
ジョンをよく見ると、混血のようだ。異国の血が混じっている。
部屋で異国語を話していたのは、きっとこいつだ。
例の「旅の者」ではない。
つまり、この場に現れなかった。
賢いな。
「旅の者」は危険だ。
早急に追う必要がある。




