EP:30
それからさらに数日後の真夜中のこと。
いつもの日課を終え、護衛術について学んでいた最中に、屋敷の外に不穏な気配を感じ取った。
警戒しつつも、ベッドに身を潜める。まるで眠っているかのように装った。
感覚からして、数人はいるようだった。詳細までは掴めない。
手練れか? ……判断がつかない。殺気を隠しきれない者もいれば、ほとんど気配を消している者もいる。
このまま死ぬつもりは毛頭なかった。腕の痛みを承知の上で、魔法陣を描く。
探知の魔法。やや広範に、屋敷を包むようにして調べる。
この術に気づく者など、常人にはまずいない。
仮に気づいたとすれば、それは奇跡の遣い手だ。
通常のやり方とは異なる。
奇跡の発動に伴い、腕に激痛が走る。
探知にかかった人数は八人。凶器の内訳は、拳銃が四名、短剣が二名。残る二名の武器は不明。
さらに、拘束用の縄と布、薬品らしきものも所持している。
全員がアイコンタクトで意思疎通をしている。
多少心得はありそうだ。
状況から察するに、すぐに殺されることはなさそうだった。拘束を前提とした装備がある以上、即座の殺害は意図していない。
あと数分で突入してくるだろう。残念ながら、この屋敷にはそれを阻止できるだけの準備はなされていない。
――これもジャックの不在による影響か。
私は、何も知らぬ人質を演じることにした。
ただし、一瞬でも確実な殺意を向けられたならば、即座に反撃に転じるつもりである。
寝たふりを続けて数分後、窓からの侵入を感知。パリンと鋭い音を立ててガラスが砕ける。
私は飛び起き、目の前の光景に怯えるふりをする。
「な、なん……!」
言葉を発する間もなく、口を布で塞がれた。
薬品が染み込んでいる――これは私の意識を奪うためのものだ。
数十秒後には意識を失ったふりをする。吸い込まなければ問題はない。
ぐったりとした私の様子を確認した彼らは、迅速に撤収を開始した。
動きは手馴れている。おそらく、人攫いの専門だ。
そのまま抱き抱えられながら、どこに連れていかれるのか予想する。
道中、彼らは一言も発しなかった。
侵入の手際、警戒の仕方――彼らは明らかにプロの集団だ。
幾度も人員の入れ替えがなされ、時には乗り物を使い、かなり遠方へと運ばれた。
途中で目隠しをされ、身体も拘束された。
まずは現場からの離脱、次いで対象の完全拘束。
場数を踏んでいる手順だ。
そうなると、異国の者かもしれない。
帝国内で人攫いのプロは極めて少なく、さらに集団で活動している組織となれば、片手で数えられるほどだ。
加えて、彼らは貴族を相手にすることはない。
リスク管理を徹底しており、帝国の目を避け、自らの縄張りを守っている。
つまり、プロでありながら貴族を標的にする集団は、異国の者に限られるというわけだ。
やがて、どこかへ連れ込まれ、雑に床へと放り出された。
痛い……人質に乱暴は控えていただきたいものだ。
しばらくして、依頼主らしき人物との会話が聞こえてきた。やはり異国の言葉だった。
「例の女で間違いないな?」
「間違いない」
「女は何か言っていたか?」
「発言する暇を与えなかった」
「危害は? 丁重に扱ったのだろうな?」
「傷の一つもつけていない。確かめてみろ」
「誰にも見られていないな?」
「侵入時を除けば問題ない。追跡もすべて撒いた」
その後も話は続いていたが、彼らが場所を移動したのか、詳細は聞き取れなかった。
数人が立ち去る足音が聞こえ、恐らく依頼主だけが残ったのだろう。
目隠しをされた状態で奇跡を使うのは危険が伴う。気配だけで状況の把握に努める。
床の感触は冷たい。地下か、あるいは牢獄のような環境か。
他に気配はない。どうやら私一人のようだ。
空気には埃の匂いが混じる。日常的に使用されていない場所の可能性が高い。
奥の部屋に依頼主がいるらしく、落ち着かない様子で歩き回っている。
まだ「目覚める」には早いだろう。
状況把握が終わったところで、静かに時間の経過を待つことにした。
――それから一時間ほどが過ぎただろうか。
ようやく、目覚めたような素振りを見せる。
「……ここは?」
私の声に反応し、誰かが部屋の様子を確かめにやってくる。
「メノール! メノール!」
焦ったように呼びかけると、その人物が応じる。
「落ち着け」
声に怯えをにじませ、体を震わせながら返す。
「だ、誰……?」
「大人しくしていれば、数日で帰れる」
おそらく依頼主と思われる、男の声だった。
「何が起こっているの……? メノールはどこ……?」
動揺している様子を装う。
その瞬間、右頬に激痛が走った。
殴られた――信じられない。
「三度目は命がないぞ。大人しくしておけ」
「あっ……あっ……」
恐怖に体が固まったように見せかける。
人質に手を上げるとは、常軌を逸している。危うく反射的に反撃するところだった。
もし彼に殺意があれば、私は容赦なく命を奪っていただろう。
拘束具など関係ない。関節を外せば縄など緩むし、手が使えなくとも、足一本で相手を気絶させるのは容易い。
まったく……人質のふりというのも、案外疲れるものね。
長い時間が過ぎた。体感ではすでに朝だろう。
私の状況は何も変わらない。
目隠しも拘束もそのまま。
時折、向こうの部屋から話し声が聞こえるが、内容までは分からない。
……そろそろ御手洗に行きたい。
まさか、何の対処もされないとは思わなかったが、そもそも人質になったことなどないので確信が持てない。
発言一つで命を奪うと脅された以上、下手に口を開けぬ。困ったものだ。
さらに長い時間が過ぎた。さすがに限界だ。
「こ、殺さないでください! 御手洗に行きたいです!」
怯えたように、必死に懇願する。
私の声に反応し、誰かが部屋に入ってきた。南京錠だろうか、鍵の音がする。
「すまないが、許可できない。そこでしてもらう」
――これは困った。どのように返すのが正解だ?
「私を誰だと思っているの!」と怒るべきか?
「こ、困ります、どうか、どうかお願いします」と懇願すべきか?
「なぜですか?」と静かに問うべきか?
あるいは、何も言わず受け入れるべきか。
正解は分からない。
普通の淑女なら、どのように反応するのだろうか。
……仕方ない。私なりのやり方でいこう。
「流石にそのご判断は、悪手かと存じますわ」
諭すように、落ち着いた口調で続ける。
「私の尊厳を貶めるということは、公爵家の品位を傷つけることに等しい」
「つまり、私は公爵家にとって不要な存在となり得ましょう」
「あなた方の目的は存じませんが、それでは私の利用価値が著しく下がるのではありませんか?」
「交渉の材料とするおつもりならば、私の尊厳を保持することが得策かと」
「もっとも、私を奴隷にでもするおつもりであれば、不要な提言ではありますが」
先ほどまで怯えきっていた様子から一転した様子に、相手は動揺しているだろう。
判断力が一時的にでも鈍れば、それでよい。
つまり、御手洗に行かせて下さい。
本来なら私の話は全くの虚偽。
尊厳を守る必要なんてないし、それならこんな扱いするなよ、と前提が崩れる話だ。
正直に言えば、ここに留まっているのは情報を得るため。
そうでなければ、とっくにこの場を壊滅させて脱出している。
見張りの男は全くの素人。
そもそも人質を取る手段が浅はか。
おそらく、ジャックとの人質交換で大金を得ようという程度の目論見だろう。
――愚かしい。
大金の受け渡しはどうするつもりだ?
その金は誰が持ち、どうやって管理する?
金を手にしたところで、私の身の安全はどう担保される?
自分より強い相手にどう立ち向かうつもりか?
その程度の浅はかな思考で、ままごとをするものではない。
私の言葉に何を思ったか、男は「ついてこい」と言い、鎖で私を繋いで御手洗に連れていった。
とはいえ、腕が後ろ手に縛られていては、満足に用を足すことも叶わない。
「せめて、手を前で縛ってくださいませんか」
再び怯えた様子で訴えると、男は拘束を解いてくれた。
――驚いた。本当に愚かだ。
個室を出た後に襲われる可能性など、十分に考えられるはずだというのに。
私は目的があるからこそ、何もしないだけ。
用を済ませ、再び腕を縛られ、部屋へ戻された。
そしてまた、長い時間が過ぎた。
お腹が、空いてきた――。




