EP:16
何かあったのだろうか。
それとも……。
嫌な想像が、嫌な予感が、頭を曇らせる。
ズキズキと痛む腕が、何でもないくらい、心臓がドクンドクンと鳴る。
自室に戻り、鎮痛剤を飲んで、指輪を外す。
それからメノールを呼んで、朝食の為に準備をお願いする。
「本日ですが、旦那様から1日空けておくようにと仰せつかっております」
「分かりました」
昨日「できる限りの用事は済ませたい」って言っていたから、夫婦で挨拶回りでもするのだろうか?
そう、きっとそう。
そうであってほしい。
支度を終えて、食堂に向かう。
足が重い。
嫌な予感が、頭から離れない。
歩くたびに、胃液が上がってくる。
気持ち悪い。頭も痛くなってきた。
呼吸も次第に荒くなる。
食堂の扉の前で、立ちすくむ。
弱きな気持ちを抑え、なんとか平常心を装う。
大丈夫大丈夫と、言い聞かせる。
本当は、泣きたいくらい辛い。
その気持ちを隠して、前を向く。
メノールが扉を開けると、ジャックが席に着いて待っていた。
報告書を見て、難しい顔をしていた。
その姿を見て、少しだけ安堵する。
私に気付き、挨拶をしてくれる。
「レイニー、おはようございます。本日も大輪の向日葵のように美しいですね」
「ジャック、寛大な評価を頂き、胸いっぱいの気持ちです」
「さぁ、食べましょう」
「はい」
ジャックの変わらない対応に、安心した。
不安に駆られた心が、ゆっくりと元に戻っていく。
「レイニー、午後は一緒に街へ出ましょう。準備をしておいてください」
「承知しましたわ、ジャック。何か欲しいものでもありましょうか?」
「はい、結婚指輪を買いに行きましょう。それから結婚式で使ういくつかと、相談ですね」
「けっ、結婚指輪ですか?」
結婚式ですか!?と言ってしまうところを抑える。
「はい、結婚式の日取りは既に決まっているので、それに合わせて早めに調整が必要です」
「けっ、こんしきの日取りも決まってますものね。確かに、早めに行きましょう」
結婚式の日取りが決まっている!?!?
「ウェディングドレスも、本当はオーダーメイドしたいのですが、生憎と間に合いそうにありません。折角の晴れ舞台、最高の形にしたかったのですが……」
「構いません。大切なのは二人の想いです」
「そう言っていただけてほっとしました。僕も全く同じ気持ちで嬉しく思います。僕はあまり家にいないので、できる時にと、少し詰め込み過ぎました」
「ジャックはお忙しいですもの。少しでも時間を共にして頂けることに、最大の敬意を」
「ありがとうございます。結婚式はレイニーの希望通りに進めて構いませんので、僕が居なくとも準備を進めて下さい」
「承知しました」
「本当は皇帝陛下にも謁見をと思ったのですが、生憎と断られてしまいました」
「皇帝陛下に謁見、ですわよね。また機会はありますわ」
口調が少し乱れる。
突然色々言われても、こちらにも心の準備をさせてほしい。
もっと妻の気持ちを尊重して下さい!
なんて、明るい気持ちでそう思えた。
「実はそう悠長にしていられないのです。次帰ってくるのは2ヶ月後か、早ければ1ヶ月程ですが」
「そうですか……」
「そんな悲しい顔をしないで下さい。僕は必ずレイニーの元に帰ります」
「はい、信じておりますわ」
それから他愛も無い話をする。
結婚式が3ヶ月後だと知った。
公爵家の結婚式が3ヶ月後。普通ならありえない。
本来、公爵家ともなれば結婚式の準備に1年をかけて、盛大に祝われる。
それが公爵家。貴族の最上位の結婚式である。
それが、たった3ヵ月。
マナーも教養も、まだ何も習っていないのに。
それでも私は、安堵した。
結婚式が、行われることに。
この契約婚が、破棄されなかったことに。
私からこの契約を破棄することは出来ないが、ジャックの希望であれば、この話は無かったことになるだろう。
ジャックが求めたのは「レイニー」では無く「都合の良い女性」だ。
つまり、私でなくても良いのだ。
ワイルズ家に来てから、私は多くの失態を犯している。
それは私との契約を破棄するに充分だ。
国も公爵様の意見を無下にできない。
つまり、私は『任務遂行』出来ない、ということに繋がる。
そしてそれは、絶対に許されない。
私の存在意義が、無くなってしまう。
最悪を予想していた。
ジャックの靴を舐めてでも、契約を破棄されないように縋るつもりだった。
何を要求されようと、例え奴隷の様に扱われようと、契約破棄だけはされない様に。
プライドなんてない。
何よりも優先されるべきは、『任務遂行』である。
そのために必要な行動であれば、何でもする。
だけど、そんなことにならなかった。
嫌な予感は、ただの予感で終わってくれた。
結婚式が3ヶ月後に控えているから用意しておけ、という、随分なお願いに、安堵した。
目的が決まっているのなら、その過程は問題にならない。
3ヶ月で、ワイルズ公爵家当主の妻になってみせましょう。