第五話 夏の東京旅行(後半)
こういう投稿に慣れていないので、最初、みっちり字を詰めて書いたのをそのまま投稿してしまいました。
他の方々の投稿を見て、これでは読みにくいと思ったので、行間を開けました。
まだ手探りの状態ですが、お読みいただけると幸いです。
神保町から坂を上がり、線路沿いに秋葉原へ歩いて行った。
秋葉原には表側と裏側が出来ていた。
表側と言われる区画には家電やIT機器、ゲームなどの店が集まっていて、昔から電気街という名で親しまれているが、裏側は漫画・アニメ・ポルノの看板が集中する怪しげな地域だった。
かつては表裏という区別はなく、外国からも観光客が来ていたが、文化やエンターテインメントとしての漫画・アニメと、女性の性を商品化するポルノ的なものとの線引きを怠ったために、衰退していった。
特に、イスラム圏において不健全な要素を文化から追放する運動が興った時、日本製アニメも攻撃の的になったことが響いていた。
日本アニメの巨大市場だった東南アジアにはイスラム教徒が多いのに、日本の製作者たちは対応も配慮も遅く、真剣に女性キャラクターの表現について検討しようという態度を示せなかったため、アメリカのアニメーションにどんどん市場を奪われてゆき、アジアだけでなく中東やアフリカからも日本アニメが姿を消していった。
テコ入れのために大きなアニメシネマが建設されたが、赤字続きで一度も改装することもできず、薄汚れた外壁をさらしていた。
一家は裏側へ入らないように気をつけながら、電気街を見物した。
秋葉原を見た後は、神田川沿いに隅田川の方へ歩くことにした。父が昔働いていたオフィスがそのあたりにあったので、皆で見に行こうとしたのだった。
しかし、そのオフィスはもう無くなっていた。
オフィスどころか、川岸全体が全く別の景観になっている、と父は歩きながら何度も驚いていた。
「いや、何だこれ。跡形もない。」
「オフィスはどこにあったの。」
「このあたりかな。そうだ、あのビルがこういう角度で見えたから、ここらへんのはずなんだ。」
「ここって、この芝生の上?こんな川っぷちだったの?」
「そうだよ。前は川のぎりぎりまで建物があったんだ。この川沿い、ずうっと建物が並んでたんだ。向こう岸もずうっと。」
父が言葉を切り、一同は黙って神田川を眺めた。
川沿いに見渡せる限り、芝が植えられた幅の狭い斜面が続いていた。芝のところどころに灌木や木も生い茂っていて、涼しげだ。
その緑地帯は両岸にあり、その外側に奇麗な敷石の遊歩道があり、犬の散歩をしている人たちや、美香たちと同じ観光客がまばらに歩いていた。
全体の景観はとても感じがよかった。造成されたばかりの歩道にありがちな、敷石やコンクリートが汚れ一つない真っ白で、植えられた緑が馴染んでいないという感じではなく、植物がよく茂って落ち着いた感じだ。
遊歩道に接して建物や店舗が並んでいた。ほとんどの建物は入口が川側にあり、背面を見せているビルは少なく、あったとしても庭木や奇麗に塗装された柵で体裁を整えてあった。
よく見ると建物の景観は統一されておらず、ガラス張りに白い壁の婦人服店の隣に昭和風の和菓子屋が縁台を出していたり、最近多く見かける木材とガラスを多用し細めの鉄骨で強度をつけた建物もあり、全体の形が非常に変わった凹凸形のビルもある。
こじんまりした通りだったが、雰囲気は普通の地方の川沿いの道とは全く違っていた。
観光地の裏通りという感じとも違う。
建築家が己の創造性をいかんなく発揮したといった感のある建物が多いが、それを小さな空間にギュッと押し込んで生活感を混ぜ込んだような、独特の感じがあった。
これが下町情緒なのかな、と美香は考えた。下町という場所が正確にはどこなのかも知らなかったが、300年もの長い間繁栄した江戸のまちの空気感が、痕跡だけでもどこかに漂っていてもおかしくはないと思った。
一行はこの通りの一角で昼食を摂ることにした。ランチセットのメニューの書かれたホワイトボードを出している店の前で立ち止まり、ここが良いと意見が一致したので、入って行った。
店内には白髪の男性が一人いるだけで、他に店員がいなかった。
入ってすぐに立ち止まって案内を待つと、白髪の店員は「お好きな所へどうぞ。」と笑いながら言った。
店内をよく見ると、カウンター席が三つとテーブルが四つしかなかった。こんなこじんまりした店内で案内を待つなんて、と美香も可笑しくなってしまった。
窓際に席を取り、狭いので荷物を足下に押し込んでいると、その店員は低い台のようなものを出してきて、席のすぐ横に置き、荷物置き場にしてくれた。
「ご旅行ですか。」と彼が愛想よく話しかけてきた。父が答え、雑談を始めた。すぐに注文するのではそっけないと思っての社交辞令だったが、予想外に話が弾んだ。
男性はこの店の店主だった。父は、昔川っぷちのビルで働いていたのだが、その会社はどこへ行ったか知らないかと訊いてみた。
店主は首を横に振った。この川沿いの道は十数年前に都が整備し、それ以前にあった建物はすべて取り壊されてオフィスや店舗もほとんどがよそへ引っ越して行った。
店主は整備後に新たにここへ入ってきたので、それ以前に住んでいた人たちとは会ったこともなく、父の元勤務先も、どうなったかどころか、名称すら知らなかった。
しかし、今はこの通り沿いにないことだけは確かだった。
昼食が済むと、店の外まで出て見送ってくれる店主を何度も振り返り、手を振って別れを告げた。
それから、浅草橋の方へ歩いていった。隅田川と東京湾を巡る水上バスに乗るためだ。チケットは予約しておいたので、出発時間の少し前までに乗り場へ行けばいい。
日本神話の神様の名を冠した船に乗り込み、隅田川下りを楽しんだ。平たい形の水上バスは真上も窓になっていて、橋をくぐるたびに上を向いて橋の裏側を眺めた。
水上バスを降りると、お台場周辺を見て回ったが、美香は何だか物足りなかった。
国際見本市や東京ビッグサイトを見、科学未来館にも入ったし、至る所にある気の利いたショップも見て回った。
が、その間ずっと表現しようのない感覚がつきまとった。
あまりに奇麗に整備されすぎていて、普通の生活とは別の空間だからかもしれない。つまり、自分の毎日の現実と関わりのない場所、という感じがするからかもしれない。神田の骨董店の多い通りや川沿いのこじんまりした通りでは、こんな感覚はなかった。
予定では、早めに夕食を済ませ、19時には車を止めてあるパーキングへ行く事になっていた。
ところが、父が浜離宮を見たいと言い出し、急きょゆりかもめに乗り込む羽目になった。
浜離宮入口に着いた時、美香は入場時間が17時半まで、と書いてあるのを見つけた。
冬はもっと早く、16時半で入場を締め切るとあるのを読み、美香は自分の帰宅時間と比べて羨ましい、と言った。
両親はすぐに、十分な給与をもらえて身分も保証されているのだから、2~3時間居残るくらいは我慢するべきだと説教をした。
美香は反論せずに黙っていたが、心の中では不満が膨張していた。
残業2~3時間というと軽く聞こえるが、それは早く帰れる日の話で、一年の3分の一ほどはもっと集中的に残業するし、だいいち定時で終わる日が全くない。休日がなくなることも多い。それが二十年ずっと続いているのだ。
この件に関しては両親が古いと美香は思っていた。
父の世代は残業はあるのが当たり前で、残業する社員の方が働き者という認識だったが、今は残業が悪者になっている。一日の労働時間が長くなるほど単位時間あたりの効率が悪くなることが科学的に確認されて久しく、残業する社員は能力が足りないと看做される。
日本が二流国家と言われるようになったのも、残業の労働効率の悪さのせいだというのが今の定説で、一般企業は大手ほど残業を減らしていた。
本当は労働効率の他にも原因があるのだが、とにかく今の日本は創造性をはぐくむ時間もなく、休日も少なく、長時間働き続けても豊かになっていかない大多数と、少数の富裕層に分裂しかかっていた。
ごく一握りの大成功者が世界的に活躍して日本の名を世界に知らしめているが、彼ら自身は海外に豪邸を構え、日本へはほとんど帰って来ない。
大富豪というほどではないが豊かな人たちは都市部に住み、メディアで華やかに喧伝される流行や、充実した文化生活を楽しんでいるが、その他大勢の日本人は余暇を持てないほど働いても生活するだけで手一杯だった。
セイフティーネットや公的設備・公的支援は、父の若いころに比べると良くなっているというが、社会全体を見渡してみると、じりじりとシンガポールのような二極化社会に近づいていた。
歩きながら、いつの間にかそんな話を父と交わしていた。
父は、グローバリゼーションが進んだ国ではどこでも近代以前の、富裕層と労働階級に二極化した貴族制身分階級社会に先祖帰りしている、と言った。
「アジア諸国はほぼ全てそうなっていて、日本もその道を進んでいるようだが、アジアの中では一番最後まで粘るだろう。
まだまだ外国の資本家の植民地にはなっていない。日本はかなりしぶとい国だ。」
「うん。」と美香は同意したが、気の抜けた声になってしまった。
残業が悪いという、目の前の現実の話をしていたつもりだったが、父には日常の事などどうでもいいのだろう。
いくつか茶室が復元されていて、それを見て回った。広い芝歩もあったが、真夏の西日に直撃されそうなので避け、木立に覆われた小道を選んで歩いた。
途中、各自が荷物の中に入れてきた飲み物がなくなったので、一行はそこで浜離宮見学を切り上げることにした。
そして新橋駅近くのコンビニでよく冷えたジュースと麦茶を買い、その場で立ったまま水分補給をした。
今日はこれから夕食なので、その直前にカフェなどに立ち寄っていたら時間が無くなってしまう。
父の一言で予定変更した時にディナーも一緒にキャンセルしてしまったので、一同は改めてスマホでレストランを探した。そして、すぐ近くにある台湾料理の店が評価が高いので、その場で電話して席を予約し、さっそくその店へ向かった。
急きょ探し当てた店だったが、大当たりで、夕食はこの旅行のハイライトになった。
素食という台湾のベジタリアン料理の専門店で、出てくる料理がどれも珍しくて、美味しかった。
美香はついアルコールを飲んでしまった。みんなで上機嫌になっていたし、お酒も美味しいのが置いてあった。少々後悔したものの、自動運転で帰ればいいと思った。
すっかり満足して店を出ると、地下鉄に乗り、前日東京に到着した時に車を停めたパーキングまで戻った。
そして自動運転をセットして、帰路についた。
来た時と同じように座席を向かい合わせにし、母が窓を開けるのを嫌がるので、冷房をかけた。夜とはいえ、閉め切った車内では蒸し暑くて居たたまれないから、父も文句を言わなかった。
途中、行きと同じサービスエリアで休憩のために停車した。
そこで、高速を降りたところにある外資の巨大ショッピングモールへ行ってみたいという話になった。
美香はお酒を飲んでしまったのを思い出したが、酔いが全く残っていなかったし、レストエリアから建物が見えるくらい近くだから、ほんの少し運転するだけならいいだろうと思い、運転席を前に向け、ハンドルを握った。
ところが、ショッピングモールの手前にパトカーが停まっていた。美香は慌ててしまい、ちょうど左へ入る道があったので、そちらへ曲がった。
かなり距離があったから、怪しまれてはいないだろうが、それでも追いかけて来はしないかと、しばらくはどきどきしていた。
両親も慌てていて、美香のとっさの機転にほっとしていた。
美香は動揺が収まらず、こんな短い距離でも面倒くさがらずに自動運転にすればよかった、と後悔した。
左折して入った道は、二車線の狭い道路だった。しばらくは道なりに走った。
やがて父が、来た道をたどって戻ったほうがいいと言い、確かにその通りだったので、Uターンできそうな場所を探しながら徐行した。
かなり走ったところで、ようやく少し広くなっている個所を見つけ、慎重にUターンして、来た道を戻り始めた。
道は細くて坂が多く、街灯も少なく、暗くて、くねくねと曲がりくねっている。
しばらく走ったが、先ほど左折したところへなかなか着かなかった。
そのうちに、道に迷ったことに気づいた。走っても走っても、曲がりくねる細い暗い道が続くだけで、広い道に辿り着けない。
知らないうちにY字路に入ってしまったのだろう。
いったん車を止めて、自動運転のパネルで位置確認をしようとしたが、電波が悪いのか、どう見ても現在位置がおかしなところになっていた。暗い細い道にいるのに、地図上では大きな通りに表示されていた。
ならばモバイルで現在地を表示して、その位置情報を自動運転に入力すればいいと思い、モバイルの電源を入れたが、こちらも電波が入らなかった。
仕方なく、誰か歩いているのを見つけたら道を聞こう、ということにして、再び走り出す。
ところが、しばらく走っても誰もいなかった。
後ろから父が、店舗が見えたらそこで道を尋ねようと言ったので、さらに走り続けた。
「どうしよう。何もなくなっちゃったよ。」
街路灯の少ない暗い道を走りながら、美香は不安な声で言った。行けば行くほど道の両側に鬱蒼とした黒い林が多くなり、建物が少なくなっていく。
「しようがないから、普通の家で聞いてみよう。あの家、あそこで止めて。」
父の言うままに、美香は明かりが灯る家の前で車を停めた。
急いで車を降り、駆け出しかけて、美香はどきっとして立ち止まった。
それは家ではなく、無人の野菜販売所だった。
電球が一個天井に下がっているだけだったが、ワット数の高い明るい電球だったから、遠目に見ると人家の窓の明かりのように見えたのだ。
振り返ると、車の窓から両親が顔を覗かせていて、間違いに気づいて笑っていた。
それを見ると、自分一人が慌てふためいて、しかも怖がっているのが可笑しくなり、美香も笑いながら運転席に戻った。
戻るしかないので、またUターンして、暗い曲がりくねった道を走り続けた。
途中で父が、あっと声を上げた。
「なに。」
「今二股になってなかったか。」
「待って、戻ってみる。」
方向転換するのが面倒なので、車をバックさせた。
父の言った通り、斜め右後方へ入ってゆく道があった。
父が「こっちから来たんじゃないか。」と言うので、美香は深く考えずにターンしてその道へ入って行った。
しかし、数分走ると、どうもまた間違った道のような気がしてきた。
暗いし、林や茂みばかりで目印がないから、正しいのかどうか確信が持てない。
そのうちに上り坂が多くなってきて、ますます曲がりくねるようになった。
「これはどう見ても違う道だな。」
父がぼそりと言ったが、美香はすぐに止まる気になれず、そのまま車を走らせた。
住所を書いた標識がどこかにあれば自動運転に入力できるのだが、車一台がようやく通れる程度の曲がりくねった細道には場所を示すものが見当たらなかった。
そのうちに何か急に怖いような感じがしたので、何だろうと一瞬考え、街路灯が一本も無くなっていることに気づいた。
車を止め、もう一度位置確認を試みる。
今度は、山の中の一本道が地図上に現れ、そこに現在位置が表示されたので、自動運転をセットしてみた。
すると正常に入力が完了し、すぐにスタートできる状態になった。
「ああ、良かった。これで帰れるね。」と母が言った。
美香は車が動き出すと、運転席を回転させ、後ろ向きに座った。そして緊張が解けて安心したためか、思いきり伸びをしたくなり、両腕を真上に突き上げ、うーんと唸りながら背中を反らせた。
「結局、どこを走ってるんだ、俺たちは。」
「わかんない。東北道からかなりそれちゃったみたい。」
答えながら、美香はモバイルを父に渡した。自分で気の済むように検索してくれ、と言わんばかりだ。
父はしばらく無言で画面をいじっていた。
「山の方へ行ってるぞ。かなりの回り道だな、こりゃ。」
美香は体をひねって真後ろの運転パネルを見た。これから走る経路が黒く浮き出ていたが、狭い範囲しか表示されておらず、東北道の西側にいることしか見てとれない。
わざわざ起き上がってパネルを操作する気にならなかったので、そのままシートにもたれかかっていた。