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『久しぶりに臨海公園へ行きたくなった。昔は彼とよく遊びに行ったっけ。水族館を一緒に回って、公園を散歩したな。お互いに無口だから会話は少なかったけど、隣にいてくれるだけで嬉しかった。それに頑張って話題を振ろうとしてくれて、そういう一生懸命なところがすっごく可愛かった』
手元の画面を凝視して状況を理解しようと試みる。だけれど脳内は混迷を極めていて、ただちに理性的な判断力を取り戻すのは困難らしい。それくらい現実味に欠ける出来事が起きていて、胸の鼓動が聞こえるくらいの現実が押し寄せていた。
常夜灯さえ消してしまった寝室に光源と呼べる存在はスマートフォンの画面くらいしかない。目に悪いからなるべく光量は落としているものの、それでも健康的とは言えないだろう。中高で習う保健の授業で夜更かしを戒めるセンテンスがあるとすれば、その隣には間違いなく現状をモデルにした挿絵が載せられるはずだ。布団を深くかぶり、うつ伏せでスマートフォンをいじっている青年。白いスクリーンに黒々とした目元の隈が照らし出される光景は不健康を表現するに的確すぎる。自分でも身体に悪いとは感じているものの、現代人の習慣なので簡単に矯正するのは難しかった。
そんなことより。思考を素早く切り替えて、もう一度スマートフォンのスクリーンを睨む。白くハレーションする画面には黒い文字が描写されている。いま開いているアプリはいわゆるSNSと呼ばれるものであり、その中でもマイクロブログに分類されるものだ。日常の出来事を日記感覚で投稿するのがこのアプリの草創期における構想らしいが、現在では不特定多数との会話や著名人や企業による宣伝に用いられることが多い。ニュースの閲覧も可能なので中年層は情報収集に使っているとも聞く。まぁ僕の主な用途といえば、後者の情報収集なわけだけど。日付が変わっても寝つけないから暇つぶしにでもと思って開いてみたのはいいものの――
目をしばたいて腕で瞼を軽くこすってみる。そしてもう一度スクリーンへ視線を戻したけれど、やっぱり夢を見ているわけではないらしい。だとするとこれは現実みたいだけど、それでもやはり信じることはできなかった。
国内で最も多くのシェアを誇るマイクロブログ。そのタイムラインにあり得るはずのないつぶやきが掲載されている。テキスト自体に問題があるわけではないが、そのつぶやきを載せた投稿者に大きな“齟齬”があった。
黄色い傘のアイコン。絶対に忘れることのできないアイデンティティ。雨を遮るのが傘なのに、そのイラストではなぜか傘の中から薄青の水滴が零れ落ちていた。その傘の黄色が網膜を灼ききってしまうようで、どこか重力さえも覚えさせる。存在を主張する傘のアイコンから少しだけ目を動かして、その隣の文章を読み下す。簡素な文章ながら郷愁じみた感情が芽生えた。慣れ親しんだ文体。このあどけない書き口のみで判断するのはもちろん危険だけれど、しかし心の内にはすでに揺るぎない確信が生まれていた。彼女だ。あの子がこの文章を書いたんだ――そんな荒唐無稽な妄想が脳裡を闊歩するけれど、論理的に考えてみれば当然ありえない現象である。死人に口なしという言葉があるように、屍者がものを口にすることなどフィクションの世界だ。それも対面で直接というわけでもなく、オンライン上のテキストしか個人を識別できる要素は存在しない。あまりに似ているからといって安易に断定してしまうのは明らかに早計がすぎた。そんな当然のことは百も承知なつもりではあるが、しかし“彼女“が生き返ったと誤認してしまうのも自分の立場にしてみればある意味で仕方ないと言えるだろう。
アイコンとつぶやきを食い入るように眺めて、そして決定的な事実を確認しようと視線をアイコンの真横、つぶやきの真上へ向ける。そこにあるのはマイクロブログ上での名前。基本的には仮名なのでニックネームと表現した方が適切か。もし名前があの時のままだったら――額から生ぬるい汗が零れ落ちる感覚が肌を撫でる。心臓の鼓動が大きい。SNSのアカウント名を確認するだけなのに、ここまでの勇気がいるなんて。そこにある不動の事実から目を逸らしたいという気持ちもあったけれど、それよりも真実を確かめたいという感情の方が強かった。二つの心情の板挟みを破って、ようやく目的の名前が視界に収まる。そしてその瞬間、世界の歯車が数年越しに動き始めたことを悟った。
“Rain”
特徴的なアイコンの横には、そのような四文字のアルファベットが整然と並んでいた。あの頃と同じで、まったく変わっていない。三年前に交通事故で亡くなったはずのRain――宇佐見玲が、どうしてかSNS上でつぶやきを投稿していた。
英語で雨と書かれた文字列をしばらく眺めていたが、我に返ってもう一度つぶやきの投稿日時を確認する。――十二月二日、午前零時二十二分。今からおよそ一時間前だ。数年前のつぶやきだとか、そういう笑えないオチもない。そもそもタイムラインを眺めていたのだから当たり前だが、それでも唖然と呆ける他なかった。だって一見すれば数年前に事故死したはずの彼女が、なぜかネット上に足跡を残しているのだ。いまだに精神的なダメージが抜けきっておらず時が止まったまま生きてきた自分からすれば、現実を真っ直ぐに受け止めることなどできない。だけれど目に見えたリアルを無条件に虚構だと断ずるほど、愚かにもなりきれなった。
つぶやきから個人のアカウントに飛んで、まずはプロフィール欄を慎重に精査していく。そもそも僕たちはこのSNSで相互フォローの関係だったから、赤の他人がなりすまして投稿を行っている可能性はもちろん低い。思った通りRainのアカウントは玲のアカウントと恐らく同一のものであった。プロフィール欄が三年前から一切変わっていないこと、個人を識別するユーザー名も同じであることから一定程度の信頼性はあるだろう。そうなるとこのRainは玲が生前使用していたアカウントということになるが――そうなれば別の問題が生起する。それはなぜ、屍者のSNSが唐突に更新されたのかということだ。
玲が事故死して三年という月日が経過しているが、その間に彼女のアカウント、つまりRainが何らかの動きを見せたことは一切ない。ユーザーである玲が亡くなっているのだから当たり前ではあるが、いま持ちうる情報から導き出される仮説として一番有力なのは、Rainのアカウントが他人に乗っ取られたという可能性だろう。玲はアカウントのパスコードをpasswordとか、そういう幼稚なトートロジーで設定するような性格ではない。彼女に限れば個人情報の保護などは確実に行う手合いだから、パスワードの流出でアカウントが盗まれる等々の不手際は犯さないはず。そしてそれ以上に要素として大きいのは、つぶやきの内容だろう。三年という短くない時間が過ぎ去ったものの、SNS上で残す玲の文章にクセがあることをいまだによく覚えている。なんとなく簡素だけど、あどけなくて透き通るような文章。断定するに足る証拠かは不確定だけれど、このつぶやきを読み下すたびに彼女の声色が聞こえてくるようだった。長い時間が経過しているけれど、耳には玲の透明な声が染みついているから。視覚情報が聴覚情報にすげ変わってはいるけれど、本能は手触りとして彼女の輪郭を呼び起こしていた。
幾度となくRainのつぶやきを読み返しているうちに脳裡に過去の思い出がフラッシュバックしてくる。初めて話したときの緊張した表情。デートの後、名残惜しそうに小首を傾げる逆光のシルエット。思いを伝えた際に流した優しい涙。月明りに照らされて、どこか静謐さを覚えさせる整った寝顔。そして――不安定なミステリアスさを伴った、儚なげな遺影。玲がくれた多くの記憶が、じんわりと胸に染みていく。その温かさが心を刺激して、不意に目元が熱を持つ。彼女と分け合った大切な思い出が喪いかけていた感情を目覚めさせてくれた。
内に封じた記憶が胸に溢れて、だけど留めた悲しみだけは零してしまわないように唇を噛み締める。そうして脳裡で反芻される思い出から離れて目の前の現実に意識を戻す。マイクロブログに投稿されたRainの文章はやっぱり玲本人の投稿に思えてしまう。その仮定に確証を与える事実はないけれど、文節に含まれる自己同一性が個人の識別に寄与している気がした。
しかしこのままではRainのユーザーが玲であるとの断定はできない。そもそも本人は三年前に事故で亡くなっているし、通常の思考であれば別人だと判断するだろう。現実的にはあり得ないけれど、でも期待してしまう。実は生きていて何らかの拍子で現れるんじゃないかと。希望的観測もいいところだが、深い時間を共に過ごした身としてはどうしようもなく考えてしまうだろう。
そんなとき。マイクロブログのタイムラインに更新が入る。この時間帯に新しい投稿が入ることは珍しいから、思わず心臓が飛び上がってしまう。指先で最新の投稿まで画面をスライドさせると、そこには一枚の写真が表示されていた。だけれどその写真を視界に入れた途端、雷に打たれたような衝撃が走る。それと同時に運命が大きく変わりつつあることも予感するのだった。
投稿された写真は大きな水槽を写したものである。蒼い水槽の中には海洋生物が多く泳いでいて、撮影地が水族館であることを示していた。だけれど重要なのはそこではない。マイクロブログを離れて写真のアプリケーションを開く。そして該当のアルバムを表示させて懸命にスワイプしていく。思い出の写真が視界を流れていき、しばらくしてとある写真が目に留まった。その写真をタッチして拡大表示させる。そうして写真を食い入るように凝視し、蔓延っていた疑惑が明快な確信に変わった。
マイクロブログに投稿された写真とアルバムのフォルダに存在する写真。それは肉眼で確認する限りは同一のものに見受けられる。アルバムに保存してあった写真は臨海公園へ遊びに行った折に撮ったものだ。そう、玲と初めて遊びに行ったときの写真。それと同じものがどうして投稿されているのか。――当時、僕は臨海公園から帰ったあと、撮った写真をチャットアプリのアルバム機能に保存していた。もちろん玲との個人チャットアルバムにだ。つまりこの写真を所持しているのは、僕以外であれば玲しかないはず。別の人間に写真を渡していなければという前提はあったものの、そんな些細な条件は既に思考から霧散していて、胸の内に光るような希望が芽生えるのを感じていた。そして写真と共に投稿されていた呟きを一読して、その希望を更に強固なものへ昇華させるのだ。
『ちょっと前だけど、彼と臨海公園に行ったときの写真。水族館は初めてだったけど、静かでとっても綺麗だった。あんまり話さなくてもいい環境だったから過ごしやすかったな。でも隣に彼がいるって思うと緊張して、だけどやっぱり傍にいてくれるのが嬉しくて。ありきたりだろうけど、すごく幸せだったよ』
表示された文字が胸に流れ込んでくる。その言葉は心の奥底に封じていた思いを呼び覚ますようで、自然と唇を震わせた。生きているかもしれない。物理的な証拠はなかったけれど、その可能性が多少なりとも存在するだけで前を向ける気がするんだ。そしてもし彼女が生きていたのなら――もう一度、会うことはできないのだろうか。