流行りの婚約破棄を阻止するためには
急に思いついて書いた作品です。
気楽にお読みいただければ幸いです。
「タチアナ・トンプソン嬢!君との婚約は破棄させてもらおう!」
そう叫ぶと同時に、真剣な表情の若い男性があらぬ方をピシッと指差す。レイチェルは思わず小さなため息をついた。
「どう?ねえ、レイチェル、今の僕ってカッコよかった?それとも指は差さないで冷たく相手を睨んだ方が効果的だと思う?」
そわそわと髪をなでつけながら、しょうもない質問を投げかけてくるのはヘクター・マクスウェルという子爵家の令息だ。呼びかけられたレイチェルはそれまでの笑顔を瞬時に消して冷静に答える。
「ヘクター様、まずどうして婚約を破棄したいのか聞いてもいいですか?」
ヘクターはなぜそんな質問をされるのかすら理解できないといった様子だ。
「それは僕が真実の愛に目覚めたからに決まっているじゃないか!」
「真実の」
「そう、真実の」
「愛」
「そうだよ、愛だよ!」
「どなたと?」
「えっ…それは君と」
レイチェルは今度こそはっきりわかるように大きくため息をつく。
「はあ…ヘクター様、それこそあり得ません。ヘクター様は貴族ですし、私は定食屋で働くただの平民です」
そしてここは彼女が働く定食屋で、昼食時の忙しい時間帯が終わり休み時間に入ったガランとした食堂だ。
そっけないレイチェルの言葉に、ヘクターはたちまち打ちのめされて情けない顔になる。
「そ、そんな…レイチェル!君が平民だからって僕の気持ちは変わらない。それに君も僕のこと好きだと言ってくれたじゃないか!あれは嘘だったのか?」
「ヘクター様、私が申し上げたのは“お友達”としては好意をもっていますということであって、決して恋愛の対象としてではありません」
「そ、そんな…」
ヘクターはもうすっかり涙目だ。よろよろと近くにある椅子にすがるように腰をおろす。
『床にへたり込まないで椅子を選ぶ余裕があるなら、大したことはないわね』
レイチェルは胸の内でそうつぶやくと、ゆっくりと近づき、うなだれる彼の前に跪いた。そっと彼の手をとる。
「レイチェル…ああ、君の手は柔らかい。水仕事でつらいだろうに」
「優しいのね、ヘクター様。いつも優しいヘクター様には心から感謝していますし、幸せになってほしいのです」
「僕が欲しているのは感謝ではなくて、愛情なんだ…」
「いいえ、ヘクター様。一時の感情に押し流されて一生を棒に振ってしまってはあなたも私も大変な後悔をすることになります」
「一時の感情だって?この僕の気持ちが?」
「ええ、そうです。よく考えてみてください。ヘクター様がたまたまお友達と訪れたこの定食屋で、たまたま私と出会った。今まで身近にはいなかった元気が取り柄の下町娘に、ほんのちょっと興味をひかれた…そうですよね?物珍しくて面白そうだな、そんな軽いお気持ちで声をかけられたのでしょう?」
「そんなことはない。僕は…本当に君のことが好きになったから…」
「ええ、わかってます。そのお気持ちは嘘ではないということは。でもそれは泡のような、ふわふわと舞い上がってすぐ消えてしまうもの。ヘクター様には既に真実の愛のお相手がいらっしゃいます」
「僕にそんな女性はいない」
「タチアナ様ですわ、ヘクター様」
「…」
ヘクターはぎゅっと眉を寄せて苦しそうな顔になった。
「タチアナ様とのご婚約はヘクター様ご自身とヘクター様のご両親が望まれてのことだと伺いました。私は身分が違いますからお目にかかったことなどありませんが、大変お美しくて優しい方だそうですね。私のような平民にもその評判は届いてます。ヘクター様、タチアナ様に何のご不満もないのでしょう?」
「誰がそんな話を君の耳に入れたんだ。ワルターか、それともバーナビーか?」
ヘクターはよく一緒に来る級友たちの名をあげる。
「誰でもいいでしょう。ヘクター様、しっかりご自分の気持ちをもう一度見直してください。初めてタチアナ様をエスコートした時、お誕生日に贈物を差し上げた時、タチアナ様がどれほど嬉しそうなお顔だったか、思い出してください。ヘクター様も幸せだったでしょう?」
ヘクターは目をつぶって頭をがっくりと落とし、しばらく黙って考えているようだった。その間レイチェルは何も言わず、じっとそばにいる。
随分長い時間そうしていたヘクターだったが、ようやく顔をあげてレイチェルの顔をじっと見つめた。罪悪感に苛まれるような顔つきで、謝罪の言葉を絞り出す。
「レイチェル…すまない。僕はようやくわかったよ。明るくて遠慮なく何でも言い返す、元気な君を好きになった気持ちに嘘はないけれど…。大人しくていつも穏やかなタチアナにほんの少し物足りなさを感じていたから、君の奔放さに惹かれたのだとわかった。そしてそれは君が言ったとおり、長続きはしないのだろう。人生を共に歩み寄り添うのは、タチアナのような女性しかいない。彼女を愛しているし、一生大事にしたいと心から思えるよ」
「ああ、よかった、ヘクター様。それでこそ私の大切なお友達のヘクター様です」
ヘクターはレイチェルの手を取り、一緒にゆっくりと立ち上がった。
「レイチェル、本当に君にはすまないことをした。一時の感情にまかせて君の心をもてあそぶようなことまでして…それなのに君は僕を励ましてくれさえした。どんなに感謝しても足りないよ。年下なのに、まるで姉のように優しく叱ってくれて。僕なんかには君はもったいないくらいの人だ」
レイチェルはクスクスと笑い出す。
「まあ、ヘクター様、買い被りすぎだわ。さあ、角のお花屋さんでタチアナ様の好きなバラの花を買ってすぐに会いに行って。久しぶりなのでしょう?きっと喜んでもらえますよ」
「タチアナが好きな花のことまでなんでわかるんだ?」
「女の子はたいていバラが好きなんです」
「そ、そうか。レイチェル、本当に、本当にありがとう!君のおかげで僕は真実の愛に気づくことができた。一生恩に着るよ」
「そう思うなら、またお昼を食べに来てください。お友達もたくさん連れてきていっぱい注文してくださいね!」
「ハハハッ!そうさせてもらうよ。じゃあ、またね」
ヘクターはすっかり明るくなって、レイチェルに手を振ると花屋を目指して走っていった。
大きく手を振って彼を見送ったレイチェルは、定食屋の中に戻るともう一度大きなため息をついた。
「はああ…やれやれ、やっと終わったあ!」
その声を聞いて奥の厨房から顔を出したのは、この定食屋の主人であるボッシュだった。
「無事に終わったのかい?」
「ええ、ボッシュさん、おかげ様で任務終了よ。ご協力に感謝するわ」
「いやいや、謝礼に加えてあんたが働いてくれたこのひと月というもの売り上げが倍増だったから、こちらこそありがたかったよ。できればもっと働いてほしいくらいだ。今の仕事がうまくいかなくなったら、いつでも来てくれ」
「ふふ、もし彼がまた来たら私は祖母の介護のために田舎に帰ったって言っておいてね」
「ああ任せとけ。気をつけてな」
レイチェルはほんの少しの荷物を持って定食屋の裏口から出て行った。
少し離れた場所で辻馬車に乗り込んだ彼女が降り立ったのは、最近めきめきとその名を売り出したロレンス劇場の裏手だった。彼女はその劇場の関係者出入口からさっさと入って行く。狭い廊下には大道具が雑然と置かれ歩きにくくなっているが、その中を彼女はまるで水を得た魚のように胸を張って堂々と進んでいった。すれ違う劇団員や裏方連中は心からの笑顔で彼女に挨拶してくる。にこやかに皆に応えながら奥に進むと、彼女は目指していた扉を軽く叩いて返事を聞いてからその部屋に入っていった。
部屋の奥で煌びやかな衣装を見分していた部屋の主が振り返って嬉しそうな声をあげる。
「アメリア!お帰り!そしてご苦労様」
レイチェルを別の名で呼んだその人物は、この劇団の団長であり女優も兼ねるフローレンスだ。彼女は若いころ男装の麗人として有名で特に女性からの人気はすさまじいものであったという。40歳を超えた今でもその麗しい姿は衰えず、たまに舞台に立つ時には長年の贔屓筋が席を貸し切るほどであった。実は彼女は大変細やかな気遣いのできる人で、大恋愛の末結ばれた旦那様はこの劇場の裏方衆をまとめ上げて彼女を支えている。そんな彼女が次代の看板女優として推しているのが、レイチェルことアメリア・ガーデルマンである。
ロレンス劇場の期待の星アメリアが、何故偽名を使ってしがない定食屋で働いていたのか?その原因は3年前にさかのぼる。
3年前、この国の王家の次男であるナサニエル王子がある伯爵令嬢との婚約を解消し、隣国の王女との結婚に踏み切った。王子夫妻は大変仲睦まじく、既に小さな王女も誕生し国民からの人気も上々だ。だが、それが若い貴族の間に妙な流行を生んでしまった。それは貴族としての義務で結ばれた婚約を破棄して、真実の愛を選んだ方が幸せになれるという風潮だった。
王子の結婚後、貴族の子息たちがいきなり婚約者に婚約破棄を突きつけて別の女性と結ばれるという事態が2、3回続いた。相手のご令嬢にも別の想い人がいたりして、たまたま彼らはうまくいってしまったので誰も止める者がいなくなってしまった。そのうち人前で派手に婚約破棄を叫ぶ方が良いなどという不埒な噂まで流れるほどだ。
子息たちはしてやったりと満足かもしれないが、やはり婚約を破棄された令嬢には不利なことが多い。傷物扱いされて次のお相手を見つけるのも困難だ。
年頃の令嬢をもつ親たちは、安易な婚約破棄を防ぐために一方的な婚約破棄には莫大な違約金をもらい受けるという契約を結ぶようになった。しかしこれも火に油を注ぐ結果になる。「真実の愛」という病に侵されたとしか言いようのない、苦労知らずの坊やたちは、この契約を自分たちの愛を妨げる障害物としか認識しなかったのだ。
婚約破棄は繰り返され、親たちは莫大な違約金を支払って財産や貴族社会での立場を失うことになる。貴族たちの力関係が乱れると彼らに支えられる王国の力すら弱まってしまう。最近では、一度は婚約破棄されることを念頭に縁談を考えるなど、年頃の子を持つ貴族の親たちは無駄な労力を割かなければならない。
この事態に胸を痛めたのは、そもそものきっかけを作ったナサニエル王子だった。自分に責任のないこととはいえ、彼は王子としてこの状態をなんとかしなければならないと考えた。そこで彼は秘密裏にアメリアに依頼することになる。申し分のない婚約者がいるにもかかわらず、真実の愛に憧れて婚約破棄の機会を待ち望むおめでたい子息達の目を覚まし、現実に引き戻してほしいと。そのために彼は資金と人脈の援助を惜しまなかった。アメリアが働いていた定食屋もそのうちの一つだ。
ではなぜアメリアなのか。実はアメリアはれっきとしたガーデルマン伯爵家の令嬢であり、3年前までナサニエル王子の婚約者とみなされていた女性だったのだ。
アメリアとナサニエル王子は母親同士が従姉妹で大変仲が良かったので、ほんの赤ん坊のころからの遊び相手だった。何も遠慮もなく仲良く振舞う二人の姿を見て、周りはいつの間にか彼らが将来結婚するものと考えていた。しかし本人たちはどう考えてもお互い恋愛感情のかけらもないことに早くから気づいていた。性別は違うが親友とも言える関係でそれ以上のものは何もなかったのだ。だが決まった相手がいると思われていた方が、気にくわない縁談を避けることができるという利点があったのと、単に面倒だったのであえて否定しなかっただけだ。
そうこうしているうちに、年頃になったナサニエルは隣国から訪れた王女と恋に落ちた。王女は大変可愛らしくてアメリアともすぐに仲良くなり、アメリアは心から二人の結婚を祝福したのだ。だが世間で、特に貴族社会でアメリアはナサニエルの婚約者と認識されていたため、この結婚は婚約破棄の末のものとされてしまった。ひそひそと優越感と憐みの混じった噂話が自分の耳に入るのにうんざりしたアメリアは、以前から望んでいた女優の道へ進むため伯爵令嬢の地位を捨てた。親を説得して家を出ると、贔屓にしていたロレンス劇団に飛び込んだのだった。
「もうこれで3人目よ、わたしがちゃんと婚約者の元に送り返したご子息は」
アメリアは毎回相手の好みに合わせて、知識豊富な書店員、片田舎から出てきたばかりのつつましい男爵令嬢、そして元気な下町娘と役柄を替えてきた。そもそも本当に愛する人と結ばれたいのなら、親に強いられたからと言って婚約などせずに、最初からふさわしいと思える人を探すべきだ、とアメリアは内心腹立たしかった。あいつらは女性を何だと思っているのだと常々考えていたアメリアは、ナサニエルの依頼を引き受けた。本心では痛い目に遭わせてやりたいとは思っていたが、ナサニエルの意を汲んで坊やたちが夢見る乙女との真実の愛をほんの少し経験させ、あなたに私はふさわしくないと身を引くという健気な女性を演じてきたのだ。
「婚約破棄してまで無理やり結ばれた相手と幸せに暮らしているのはほんの一部の人だけよ。失敗したと思っている人は見栄を張ってうまくいっているようなふりをしているだけ。ナサニエルの考えはちょっと甘いかなとは思うけどね。元の鞘におさまった彼らはとても幸せそうだし、それを見れば他のご子息たちも熱がさめると思うのよ。周りからきちんと祝福されるに越したことはないわ。ナサニエルもそろそろ安心するのではないかしら」
フローレンスの部屋の奥にある風呂に入らせてもらい、髪染めと自然に見える化粧を落としたアメリアは、下町娘から劇団を背負う看板女優に戻っていた。きっちりと三つ編みにされていた赤毛は輝く金髪に、そばかすの散っていた頬は真珠のようなきめ細やかな肌に変わり、何よりその瞳は光の加減で濃い紫にも見える不思議な魅力のある色をもっていた。
「そうよ、次の舞台の稽古が始まるからね。こちらに戻ってもらわないと。しばらくは舞台に専念してもらうわよ」
「ええ、そのつもりよ。ナサニエルには仕事に差し支えのない範囲でと伝えてあるし。町中で別の人物になり切るのも楽しいけれど、お客様のいる舞台の魅力には勝てないわ。次の舞台の台本も本当におもしろいし、稽古に入るのが待ち遠しいわ」
「あなたは天性の役者よ。私以上の、いいえ歴史に残る大女優になれるわ。次の舞台はそのための第一歩になると確信しているわ」
そんなフローレンスの言葉にアメリアは私を買い被る人が多いなあと思いながらも夢を見るように答える。
「そうね、私はお芝居が大好き。舞台が大好きよ。ここでこそ私は生きていけると思うの」
そして少し悪いことを考える顔でこうつけ加えた。
「ナサニエルに奥様と二人で観劇に来てもらいましょう。それくらいしてもらってもいいわよね」
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告ありがとうございます。自分では気づかないものですね。感謝しております。