おかあさん
我が家には「おかあさん」が二人いる。なんのことはない、わたしの「おかあさん」と、息子の「おかあさん」、つまりわたしがいる。いわゆる拡大家族だ。
複雑なご家庭、かと思いきやふつうのご家庭、かと思いきや、やっぱり我が家は複雑なご家庭である。
でもすごく幸せだった。さいごだから、ちょっとした自慢話を聞いてほしい。
話は三十五年前にさかのぼる。
中学を卒業してすぐ家を追い出された。わたしには兄と弟と妹がいた。兄は長男であるし跡継ぎとして愛され、幼いころから賢かった弟は気に入られ、妹は末っ子で蝶よ花よとかわいがられた。彼らと両親は五人家族で、血を分けた兄弟でありながら、わたしは一人、拾われっ子のような扱いだった。
だから、高校にはやれないと言われたときも驚かなかったし、中学を出たら草田の家へ行けと言われたときも、行く先があるのだとかえって安心したくらいだった。
草田の家というのは、農業を営む親戚のことだ。大きい畑と大きい家を持っている。跡継ぎの長男が四十を超えてようやく結婚したが、家族総出で嫁いびりをして、あっというまに嫁に逃げられた。その後始末も終わらないうちに、なんにも知らないわたしが放りこまれたのだった。
それはもう、ひどかった。朝は早くに起きて畑へ連れられ、すこし片付いたと思えば飯炊きに回され、さあ食べようと思えば掃除しろ洗濯しろ、ちょっとでも腰を下ろそうものならげんこつが飛んできた。
食べるひまも休むひまもなかった。こりゃあお嫁さんも逃げるわな、と納得の日々だった。
もうわかるだろうが、草田の家は、晴れてバツがついた長男に、わたしをあてがおうと画策していた。両親も一枚かんでいた。草田の家に恩を売りたかったのだ。かわいくない娘でも、よそから見れば世間も男も知らないうぶな女の子、りっぱに価値があった。その価値をわたしは理解していたし、どうせ行くところもない、抗うつもりはなかった。
わたしの十六の誕生日を、みんなが心待ちにしていた。ところがいざ十六になって、籍を入れたとたん、わたしは倒れてしまった。八月の頭だった。
最初は、過労だとか、熱射病だとか、そういう一時的な不調だとみんな思っていた。しかし検査をしてみたらそうではなくて、どうも卵巣がおかしいとなった。そうとう痛かったはずだ、どうしてがまんしたの、と医者からさんざん叱られた。
体のどこかしらが痛いのはいつものことだった。まさか病気になっているとは思わなかった。
手術になった。当然日帰りはできず入院。退院直前に母が訪ねてきて、わたしの荷物を詰めこんだかばんを、投げるようにしておいていった。
「あんた、離婚されたよ」
母はそう言い捨てた。
わたしはそれきり生家の五人の顔を見ていないし、草田の家にも帰っていない。
退院してからが困った。行くあてがない。荷物には十万円が入っていたけれど、入院費を支払ったら半分になってしまった。病み上がりですこし歩くのもつらいのに、どうしたらいいのか、途方に暮れた。
思い返せば、帰ってくるなと言われたわけではない。十万円も、てっきり手切れ金だと思ったのだが、単に病院への支払い分だったかもしれない。しかし当時のわたしにはそんな考えがちらりとも浮かばなくて、病院の出入り口で、これから先のことを、うんうんと思い悩んでいた。曇り空の、すこし涼しい日だったのは幸いだった。
昼が近くなったころ、あれ、と覚えのある声がした。
「木島さんじゃない、どうしたの」
「あ、千恵子先生。お久しぶりです」
中学の英語の先生だった。若い女の先生で人気があったが、結婚し、わたしが三年生になるときに退職してしまった。二年生の一年間しか受け持ってもらえず、わたしは悔しく思っていた。
まさかここでお会いするとは思っていなかったし、一年以上ぶりなのに覚えていてくださったことも驚いた。とてもうれしかった。
「ずいぶん痩せちゃったわね、今日退院? お迎えを待っているの?」
「いいえ、どこへ行くか悩んでいるんです。先生、どうしたらいいと思いますか?」
「えっ、それってどういうこと?」
親しげにほほ笑みながら話しかけてくださったのに、わたしが相談を持ちかけると、先生の表情は一変した。いきさつを話し終えると、先生は顔を真っ赤にして、目には涙をためて、わたしのために怒ってくださった。そんなつもりじゃなかったのに、すこしアドバイスを頂けたらよかったのにと、申し訳ない気持ちになった。
「それは、ひどい。わかりました。とりあえず、今日はうちにいらっしゃい。わたしはこれから健診があるから、すこし待っていてね」
そこで初めて気がついたけれど、千恵子先生のおなかは大きかった。八ヶ月だという。そんなお宅に転がりこむなんて、ずいぶん失礼なことだったと反省しきりだが、そのときのわたしには、ほかになすすべはなかった。
千恵子先生の旦那さまもまた先生で、事情を知るとあちこち奔走してくださり、わたしは千恵子先生のお宅に居候しながら、すこしのあいだ、小さな町工場で働くことになった。
「高校は出ておいたほうがいい。わたしの実家が千葉にある。来年からはそこに住んで、定時制に通いなさい」
千恵子先生の旦那さまがそうおっしゃったので、わたしは受験することにした。勉強はお二人が見てくださった。町工場の社長さんもご協力くださった、ろくに仕事をこなせないばかりか、すぐにいなくなることがわかっているわたしに、マナーだとか常識だとか知恵だとかを、厳しくも優しく指導してくださった。
なんとかお礼がしたい、せめて自分の生活費は出させてほしいと願ったが、最後まで受け入れてもらえなかった。賃金だってそう多くはもらえていないだろう、それより早くお金を貯めて独り立ちしなさい、そして高校を卒業したらできるだけ遠くに行きなさい、と。
それというのは、わたしの病気のことで、生家と草田の家がいさかいになっていたらしかった。詳しくは聞かせてもらえなかったが、想像はつく。草田の家とすれば「欠陥品をよこしやがって」、生家からすれば「娘をこきつかって病気にさせたのはそっちだろう」、というところだろう。なるほど、そこにうっかりわたしが現れては、両者の矛先はわたしに向けられるに違いない。
千葉のご実家へ行かせてくれたのもそのためだった。遠くはないが、県が違えば目くらましにはなる。わたしが一度結婚をしたのもかえってよかった、養子縁組をしようとなったのだけど、法律上わたしは成人だから、手続きが容易だった。
わたしは松田になった。つまり、千恵子先生の旦那さまの、ご両親の養子になった。千恵子先生から見れば義理の妹に当たる。
こうしてわたしは、同級生らが歩んだ道を、一年遅れで、やや違う形ながらも歩むことができた。
高校を無事に卒業したあとは、先生のおっしゃったとおり、遠くへ越した。ただ養親たちがあんまり心配するものだから、養親の親戚の近くを選んだ。それがここ、北海道だった。
初めての一人暮らしでまず思ったことは、静かで楽ちんだなあ、だった。幼いころから家にはだれかしらいたし、親はひまと見るや用事を言いつけた。草田の家でのことはすでに書いたとおり、千恵子先生に拾われてからは仕事と勉強でいっぱいいっぱいだった。
楽ちんだった。でも、ちょっと寂しかった。これが、草田の家を出てすぐの一人暮らしだったら違ったろう。開放感でいっぱいだったに違いない。しかしわたしは、千恵子先生に救われ、松田家で親切にされてしまった。生まれたての赤ん坊のかわいさ、甘いような乳臭いようなあの匂いを知ってしまった。帰宅すれば炊きたてのごはんと温かいみそ汁の味、鍋の湯気に出迎えられる生活に触れてしまった。それらがない一人暮らしは、寂しかった。
わたしはもう子どもを産めない。ここにきてようやく、その事実の重さを量り始めた。子どもを望めない女に、まともな結婚ができるだろうか?
草田の家は跡継ぎが欲しかった。だからわたしは離婚された。正直、あのときはラッキーだと思った。あんなおじさんとの子どもを産むなんていやだったし、あれがきっかけで草田の家から逃げることができた。奴隷のような生活から脱出できたのだ。
だけどこれはもろ刃の剣、相打ち、肉を切らせて骨を断っただけのこと。
千恵子先生の家庭を思う。優しい旦那さま、かわいい赤ちゃん、そして二人目がおなかにいた。羨ましかった。先生のおかげでわたしはここまで来られたのに、妬ましい、恨めしい気持ちが膨らんでいった。いけないと、頭ではわかっていても心が追いつかない。酒に逃げるようになった。
当時は今のように厳しくなくって、子どもでも酒など簡単に買えた。しかし二十歳になるかならないかの女が、ほとんど毎日のように酒を買っていく。ときには前夜の酒が抜けきれず、酒臭いこともあったろう。どうにも気になったようだ。あるとき酒屋の男が、レジを打ちながら苦言を呈してきた。
「売っておいてナンですけど、飲み過ぎはよくないですよ」
素っ気ない口ぶりだった。視線も合わせず、手は淡々とレジを打つ。その日も酒が残っていたのかもしれない、不安が貯まってあふれてしまったのかもしれない、わたしは思わず泣いてしまった。
いくらいくらです、と顔を上げた男にギョッとされて、わたしは恥ずかしくなった。だけど涙は止まらない。男は先の発言を悔いてか、謝ってきたけど、うまく答えることができなかった。
一ヶ月くらいでその男とつきあうようになり、一年後には結婚した。
男の母、つまり姑には反対された。親に捨てられた女、十六にしてバツのついた女、子を産めない女、ぜったい後悔するぞ、と。でも男、もとい夫は、こう言い切った。
「子どもなんかいらない、こいつがいればおれは幸せだ」
それきり、姑は黙った。
夫はもともと実家暮らしで、結婚に当たってはわたしがそちらへ転がりこんだ。姑にはいろいろ習った。料理から、洗濯から、掃除の仕方まで。古い家だから手入れがなかなか面倒で、覚えるのが大変だった。ほかにもこの土地の習慣やらしきたりやら、こまごまとしたことをなにからなにまで。
姑は厳しかった。にこりともしない。最初に反対されたこともあって、わたしはきっと嫌われているんだろうと、ずっと思っていた。だけど生家での暮らしを思えば、今のほうがずっとまともだとわかっていた。
「あんたは子どもを産めないんだから、外で働いて、人の役に立ってきなさい」
姑は、よくそう言った。しかし夫が反対した。
「働きになんて出なくていい、おまえはおれがキチッと養ってやる」
そう言っていたのに夫は、浮気して、よその女をはらませた。
二十五年前。突然夫が、おなかの膨らんだ厚化粧の女を連れて帰ってきた。そうして、わたしを見るなり土下座する。離婚してくれ、と。
ショックだった。女は頭を下げつつも、ニヤニヤといやな笑みを浮かべ、わたしを上目遣いで見ていた。気味の悪い目つきだった。
ただただ謝るばかりの夫に、はい、とも、いいえ、とも、答えられなかった。
「どういうことだ」
姑が低い声で言った。
「こいつが妊娠した。おれの子だ」
「だから、なんだ」
「離婚して、こいつと再婚する」
「そうか。じゃあ、出て行け」
えっ、と姑を見やった瞬間、姑は手にしていた湯飲みの中身を、夫にぶちまけた。
まさか実母からそんな仕打ちを受けると思わなかったのだろう、夫は目を白黒させ、あわあわとうろたえた。まぬけだった。
「二度と顔を見せるな!」
「待ってくれよ、おれ、父親になるんだよ。母ちゃん、孫が欲しかったろ」
「おまえはばかか」
あのときの言葉を、わたしは忘れない。
「親ってものはねえ、子どもが幸せならそれでいいんだ。あのときは、子どもを持つことが幸せだと思っていたから、ああ言ったんだ。でもおまえ、こいつがいれば幸せだと言ったじゃないか。
この子はもうわたしの娘だ。幸せにしなくちゃならん。だから、大うそつきのおまえは、いらん」
言いながら、わたしの頭を乱暴になでた。しわくちゃで骨張った手の平のぬくもりに安心して、わたしは情けなくも、姑に抱きついて泣いた。夫は愕然として、浮気相手の手を引いてとぼとぼと出て行った。
三ヶ月経って離婚が成立したが、夫は再婚はしなかった。できなかった。浮気相手に逃げられたのだ。
姑に言われて慰謝料を請求したのがよかったのか、よくなかったのか。浮気相手は生まれた子を置いて出て行ってしまったという。夫はその子を連れて、家に戻れないかと何度か訪ねてきたが、姑に門前払いされていた。
かわいそうなのは赤ん坊だ。母親に捨てられ、父親はろくに世話もできない。両親の過ちによって助けも得られず、みるみる弱っていった。憎い相手の子だが、子どもに罪はない、このまま死なれては夢見が悪い。
「おかあさん、わたし、あの子を、育てようと思うのですが」
「おまえがそうしたいのなら、そうし。でもあいつは入れてくれるな」
「はい」
こうして赤ん坊は、わたしの子になった。
ふしぎなものです。血の繋がった家族が、今どこでなにをしているか、わたしは知りません。なのに今の家族とは、今もおつきあいのある方々とは、だれとも血縁がないのです。
ご縁に恵まれた人生でした。少々複雑ではありますが、優しいおかあさんがいて、息子がいます。夫とも、いいえ、元夫とも、ときどき会います。
夢にまで見た、幸せな家庭を得ることができました。自慢して回りたいくらい幸せな人生でした。
千恵子先生。松田先生。町工場の社長さんと従業員のみなさん。松田のお父さん、お母さん。北海道の松田さん。秀平さん。おかあさん。
それから、恭平。あなたのおかげです。
あなたのこと、ずっと見守っています。どうか理世さんと、末永くお幸せに。