妙な感触
空間を繋ぐ廊下に戻ってきたナオキは自分の手が血だらけになっていることに驚いた。
「大丈夫。怪我はしてないみたいだから」
肘まで付いてしまっている血をウェットティッシュで拭き始めたナオキが、またしても手を真っ赤にして帰ってきたナオキを出迎えたユミコに言った。
「ドアの向こうにお前と同じようにここから入った奴はいたか?」
いつの間にか老人が部屋の入口に来ていた。相変わらずもう一人いると思われる挑戦者のことを気にしていた。
そういえば……
「いえ、見かけませんでした」
その人物について注意して探してはいなかったが、先ほどまで居た公園に迷彩柄のチョッキを着ている人はいなかった。あれだけの人数がいたので可能性はゼロではないだろうがナオキはかなり動き回っていたし目立った行動もしたので、もしいたら向こうから接触してきただろうと思った。
「まあ、そうだろうな……」
老人はそう言い残して廊下のほうへ戻っていく。その言葉の意味について問いたくなるギリギリのラインの言葉だ。
「見た限り、俺が入っている間に別の人は出てこなかったんだよね?」
今度はナオキがユミコに聞いた。
「はい」
「俺、今回はどのくらいの時間で出てきたの?」
「半日はは経ったと思います……私、やっぱり……ここでじっとしてるのはもう」
毎度のことながら、ユミコはナオキの帰還を喜んでくれて、そのことがナオキも嬉しかった。
「ありがとう。でも、部屋の中に入ってくるのはやめたほうがいいよ。今回の部屋に入って来てたらまずいことになってたかも」
「……でも」
ナオキは手を拭き終えると、血が付いたティッシュ達をゴミ箱として使っているダンボールに放り込んで、イスに座った。
「あの、お腹は空いてないですか?」
「ああ。大丈夫」
トイレの中でおにぎりを食べていたところは覚えている。確かに食料は補給した。けど、ナオキには四番目の部屋を脱出するところからその少し前までの記憶が無かった。
ゾンビに襲われて――管理棟に逃げ込んでから――その後は……
ナオキは今までお酒をどれだけ飲んでも記憶を失ったことは無かった。ゾンビの吐き気がする容姿は覚えているが、あいつらからどんな風に逃げて脱出したか分からない。きっとよっぽど必死だったのだろう。人間の脳にはあまりにも恐ろしい出来事はすぐに忘れる機能があるのかもしれない。
手には妙な感触が残っていた。まるで子供の頃スライムや泥で遊んだ後のような心地良い物を触った後みたいで。もう一度触れたいような、もう手を汚したくないような――。
ゾンビについて考えた時、手についていた血がもしゾンビのものだったらまずいと血の気が引いた。同時に、あの世界はパラレルワールドでゾンビになってしまうウイルスへの耐性を持っていなかった世界線で自分は大丈夫なんじゃないかという四の部屋の中での思い付きを信じることにして、ズボンのポケットをパンパンと叩いた。
ん?……
硬い感触がしたズボンのポケットから中の物を半分覗かせると、拳銃があった。何の間違いか分からないがとりあえず取り出さずに入れっぱなしにする。
「気分はどうですか?飲み物もいらないですか?」
「水だけもらおうかな」
立ったままナオキを気遣うユミコに特に欲していなかったが水を取ってもらった。
「何かしてほしいことがあったら言ってくださいね。何でも力になりたいです」
「ありがとう。……ここで待ってくれてるだけでいいよ」
何でもというのであればしてほしいことがないことはないが、まあこんなところで面と向かってお願いはできない。本当にこの子からは力がもらえる。かわいいは正義だと改めてナオキは思った。
四の部屋は今のところの部屋では一番簡単だった気がする。終盤を覚えていないからというだけかもしれないが四番目でこれなら、八番目も終わっているし……
ナオキは半分の部屋をクリアしてゴールというものが近づいてきている感じがした。少しだけ眠気があるが、体の調子は入ってきたときと変わらないし、もう少し苦しみを歯を食いしばってこらえれば、100億円と楽しく笑って過ごせる。
「もう次に行くんですか?」
「うん。辛いかもしれないけどユミコちゃんはここで待っててね」
「……はい」
ポジティブなメンタルを作ってからナオキは、5番目の部屋へ向かった。中間になると随分暗い廊下でドアの前に立つとズボンのポケットの中をもう一度確認した。
おもちゃじゃないよな……撃てるのか……?
「私……信じて待ってますから」
ユミコが廊下へ走って出てきて見送りに来た。自分を抱いて、少し震えている。下唇を上唇で覆って、目は暗くても分かるくらい潤っていた。
ナオキはすぐに拳銃を閉まい、目と目を数秒合わせてから頷く。
そして次のドアを開いた――――
視界に広がったのはまたもや明るい空間。しかしそれは太陽の光ではなく、人口の光。ナオキは蛍光灯の光を反射する明るい通路に歩き出す。そっと歩く小さな足音が高い天井、通路の奥まで響いた。
モノクロカラーの服が並ぶ店、蛍光色のピンクや黄色で目がチカチカする服屋、おもちゃ屋に本屋。建物内に様々な店が並ぶその場所は、紛れもなくショッピングモールだった。
他に生物の気配はなくて、ナオキはエスカレーターの近くの二階部分に居た。上を見ると上にもフードコートらしき場所が見える三階フロアがある。
景色とは裏腹にあまりにも静まりきっていて、寒くもないのに鳥肌が立つ。これまた変な場所に繋がっていたとナオキは眉間に皺を寄せた。
とりあえず、脅威となる者の姿は見えないが――
透明なフェンスに近づいてみると、一階には電気が点いていないことに気が付いた。上の階からの光で通路は見えるが店の中は真っ暗で見えない。
その場で見える全体におかしなところはないか眺めてから、適当に右へ向かってナオキが歩き出すと、後ろで小さなものが落ちたような音がした。
「ナオキさん……?」
そこには、ユミコが立っていた。




