狐の嫁入り_6
長屋門の下に佇んでいたのは、ほんの数分だった。でもぽつりと頰に冷たいものが当たって、皐月は天を見上げた。なにか予感を秘めたような青い空にはうっすらと掃いたような雲があり、ゆっくり流れている。
またぽつりと、顔や腕に落ちた。
雨だ。
晴れ渡る空のどこから雨が落ちてくるのか、不思議に思ううちに静かに雨が降り始めた。
めったにあわない天気雨が珍しくて、濡れないように長屋門の内側に身を寄せた。
絹糸のように降る雨は、まるで祖母の死を悼んでいるかのように淡く優しい。目の前の世界が雨の色に染まり、濡れて命を輝かせている。それはこれまで知らなかった世界との狭間に沈んでいくかのようだった。
でもその淵に沈む前に、細く高い音がきこえてきた。
ひどく懐かしく、哀しいそれは、祭の囃子で聞く篠笛の音だ。目の前の光景とその音が胸の奥にひたひたと迫り、名づけられない感情が湧き上がる。思わず両腕で皐月は自分の体を抱きしめた。
自分は、この光景を前にも見ている。この音を前にも聴いている。
「皐月ちゃん」
後ろから低く柔らかな男性の声で呼ばれて、振り返った。
誰もいない。
でも優しく皐月のことを呼んだ、誰かがいた。
そこに、いてほしかった誰か。
「皐月ちゃん」今度は近くで呼ばれた気がして振り返ると、八重野が早足で皐月に近づいてくるところだった。でも彼が、皐月をそんなふうに親しげに呼ぶとも思えず、まして離れたところから大声で呼ぶような感じでもなかった。
戸惑う皐月に気づかず、八重野は皐月の前に立つと髪やジャケットの肩に落ちた水滴よりもまず心配そうに「大丈夫ですか?」と尋ねた。
皐月の内面をのぞくように静かな深い瞳をしている。
「はい。なんだか雨が優しくて」頷きながら、軽く八重野の肩の雨粒を払った。
「ありがとうございます」
八重野は少し驚いてからやんわりと微笑んだ。そして視線を皐月から長屋門の外に移した。皐月も再びその雨が降る光景に目を移した。
「お天気雨、ですか」
「そうみたいですね」
「……確かに、優しい」
隣を見上げた。その横顔は、どこか張りつめていて美しく、また目眩のように既視感を覚えた。そんな自分に、小さな不安が胸の奥で生まれた。
「狐の嫁入り」雨を見つめたまま、八重野が呟いた。
その瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。狐の嫁入りという単語が、耳の奥で谺している。
「お天気雨のこと、そう言います」
八重野は、どこかもの問いたげに皐月を見た。
「狐の、嫁入り」鸚鵡のように無意識に返して、その気配を探すように皐月は雨の中に目を向けた。
あの田を縫うようなあぜ道を葬列のように、古宇里山へ、彼らはいく。この世とあの世を行きつ戻りつしながら、人の世とは離れた存在の、狐の姿をした彼らは。
そうぼんやりと思って、どきりとした。
彼らとは、誰のことだろう。
考えるほどに雨の匂いに閉じこめられて、次第に現実が薄い紗に包まれて曖昧になっていくようだった。
「変な話を、していいですか?」
皐月の沈黙を破るようにして八重野が問いかけた。皐月が頷くのを待たず、八重野は雨を受けとるように長屋門の外に向かって手を差し伸べた、その動きを皐月は目で追った。
「僕の中には、この僕以外に、もうひとつ、別の、僕のだとは思えない……分からない記憶があるんです」
雨はずっと繰り返し、八重野の手のひらをしとどに濡らし、水滴をしたたらせる。
「その僕は、……」八重野が言い淀んで、濡れ続ける手のひらを開いては閉じた。言おうかどうか激しく迷っているのが分かった。その沈黙は重く、皐月まで息苦しくなる。
雨の音はやまない。
「……その僕は、人ではなくて」
八重野の声が掠れている。そこで、八重野は自分の濡れている手のひらを見た。雨が彼の手のひらを打ち、涙のように地面へと流れ落ちている。八重野がひゅっと、息を吸い込んだ。
「狐、なんです。しかも普通のではない、その、なんていうか、特別な力をもった妖怪みたいな」
そこまで言って、八重野は皐月に向き直った。皐月は、冗談かと笑おうとして、笑えない自分に気づいた。
八重野の目が、嘘をついている目ではないことくらい、分かる。でもその先を聞きたいような、聞きたくないような、自分でもよく分からない感情が奔流となって出口を求めている。
「人ではないその僕は、あなたを、皐月ちゃん、と呼んで、」
八重野は口がからからに乾いているように、軽く唇を舌先で湿らせた。
「あなたは、僕を、」
ーーきよくん。
降って湧いた誰かを呼ぶ言葉は、耳の奥で激しく反響して、皐月は動揺のあまり目眩を覚えた。
「きよくん、と呼んで。それで」
どこか苦しそうに切なそうに、うわずった声で、八重野は続けた。
「それで、僕は、皐月ちゃんと呼ぶあなたを、とても……」
八重野を見上げた。皐月の視線を受け止めるように、八重野は深く黒々とした瞳で皐月を見つめ返した。
「愛していました」
愛してる。
囁く声がよみがえった。
「……どうして……どうして、」身が強張り、一歩後ずさった。
「きよくん」そう口をついて滑らかにこぼれ出た呼び名は、とても愛しくて、口の中で甘く、淡雪のように溶けた。
「……知ってる。あなたのいう……、その彼を」
声が震え、さらに指先の震えをとめるようにして皐月は自分の両手をにぎりあわせた、自分の人生に重なるようにして、初めて意識した、自分ではないもう一人の想いが流れ込んでくる。
そのあまりにも強い想いに、ショックを起こしてパニックに陥りかけた。足元が覚束なくて、慌てて八重野が腕をのばして、皐月を支えた。
「皐月さん、大丈夫ですか?」
思わずその腕にすがり、八重野を見た。
いったい自分の中にいる、このもう一つの記憶は、誰のものなのか。
「混乱するの、分かります。僕もそうでした。僕は人間の八重野白彦として生きてきたのに、いつからか、もう一人の記憶も想いも知らないうちに重なっていて。僕は誰だ、この記憶はなんだ、と、繰り返し問いかけて問いかけて……」
葛藤で苦しむこともあったはずなのに、それを見せない穏やかな声音と手から伝わるぬくもりに、逆に彼がどれだけの長い時間、そのことと向き合ってきたのかが垣間見えた。そう思うと激しく動揺する気持ちが少しずつ和らいでいく。八重野は、皐月が鎮まるのを待って、そっと囁くように言った。
「……僕がいます」
八重野の手にかすかに力が入って、顔をあげると、八重野は何かを抑えるように張りつめた顔で皐月をまっすぐ見ていた。
「僕なら、きっと、分かってあげられると……」
知らず息をつめた。
「正直、今は本当の僕がどちらなのかとか、どちらがどうとか、もう分からない……。分けられるものじゃないと、ようやくそう受け入れられるようになったのは最近です。でも」
八重野は腕をつかむ皐月の手の上に、一瞬ためらってから自分の手を重ねた。
「いつだって、あなたに会いたかった。小さな頃からずっと。光子さんに皐月さんの話を聞くたびに、本当は会いたくて仕方なかったんです……」
八重野は堰き止めていた気持ちを言葉にすると、視線を重ねた手に落とした。
ずっとこの人は、独りで、待ち続けていた。抱えた想いの出口を見つけられないまま。
自分の中にあるもう一つの記憶や想いがあふれ出して、涙になって頰を伝い落ちた。
「きよくん」呼ぶと、八重野がハッと皐月を見た。
「そう、呼んでいたんですね、私」
八重野が待ち続けてきた時間の、その孤独を、皐月の中の皐月は、知っていた。皐月の中のもう一人なら八重野の痛みを感じとれた。
その孤独を、その痛みを、その哀しみを、皐月だけが受け止められる。
それが愛と呼べるものなのか、今はまだ知らない。
でも皐月の中のもう一人が、どうしようもなく会いたかったと泣いている。
そのことが、ただ苦しく切ない。
重ねられた八重野の手をとった。
このしなやかな指先がひんやりと、皐月の頰に愛しげにふれていたことを思い出す。語る言葉の裏に、孤独な戦いを知る人の、いつも相手を穏やかに優しく包みこむ眼差しがあった。自分で選んだ道の険しさを、独りで背負おうとしていた弱さも思い出した。
仲間を失い、古巣を失い、それでもいつか会いたい人に会えると信じて一人生きてきたその強さが、その淋しさが眩しかった。
そっと八重野の手を握り返した。八重野の瞳が揺れて、さっと顔を俯けた。
今はもう、その瞳は金色には輝かない。
これからどうなるのか、そんなことは分からない。白彦に皐月ちゃんと呼ばれた皐月は、今の皐月でもあり、違う皐月でもある。白彦もまたそうだろう。だから同じ道を通らないかもしれない。でも通るかもしれない。
どんな未来が待っていても、今はこの人のそばで、この人が見つめるものに寄り添いたいと、皐月は一抹の喪失感とともに思った。
何かを堪えるようにして顔をあげた八重野が、すべての力をぬいたようにして、皐月に柔らかな笑みを向けた。よく見知ったその静かで優しい表情に、皐月の胸の奥がつまる。
「……触れても?」
ささやいて、八重野が一歩近づいた。
「もう、触れてます」
思わず小さく笑って、重ねられた手をわずかにあげて見せた。
八重野も「確かに」と小さく笑い、そして皐月の手を引き寄せ、それから体を抱きよせた。
懐かしく、切なく、哀しい。胸の奥を揺らす、遠い想いが満ちてくる。
八重野の腕の中で目を閉じた。
遠くで、キツネが鳴いた。まるで呼ぶように長くこだまする、哀愁のある鳴き声。
八重野は淋しげに、古宇里山の方を見つめていた。視線を追うと、その裾野の辺りで白く雨煙の中に揺らめく、横に並んだ黒い点々が見えた。
一列に並ぶ、複数の人影。
ゆっくりとそれは増えて、長く、とても長く横一列に並んだ。そしてゆっくり動き出して、古宇里山をぐるりとまわる農道を歩き始めた。
まるで葬列のように、しずしずと、しずしずと。
すぐにその列は、濃く立ちこめた靄が隠されていく。
あれがなんなのか、今の皐月なら分かる。
狐の嫁入り。
もしかしたら人よりも人らしいかもしれない、人が見なくなった闇のそばで呼吸する、異界のものたち。いつも傍らに控えて、ふとした瞬間に交差するかもしれないものたち。
「いつか……会いにいきましょう」
八重野を見上げて、言い聞かせるようにはっきりと言った。八重野は少し驚いたように皐月を見つめ、それからおもむろに「……そうですね」と目を細めて微笑んだ。
古宇里山から続く田んぼの景色にもう一度目を転じた。そこにはもう靄も、もちろん狐の嫁入りもなかった。ただ茫漠と広がる青い波が、雨に濡れて、きらきらと光っている。
いつのまにか雨がやんでいた。
「雨、」
「やみましたね」
あぜ道や舗装された農道のところどころに空を映した水たまりが光っている。その光景をつくってきた人も獣も、虫も草木も、そして人でないものも、すべてが身近に感じられる。聞こえないはずの命の呼吸さえ肌で感じられるほどに、いつも本家に来れば見慣れてきたはずの光景が、今はとても鮮やかだった。
「……とても、きれいだ」
八重野が小さく呟き、人と自然とが何百年何千年と受け継いできた景色に感動する皐月をさらに抱きよせた。その腕の力強さに、皐月は心の底からホッとしたように体から力を抜いて、身を預けた。それがすでに自分になじんでいることを、皐月はもう不思議とも思わなかった。
話すべきことも、語るべきこともたくさんある。
でも二人には時間もまた、たくさんあった。どんな形でも、二人はまた出会い、また手を繋ぐことができた。その奇跡が、これからの道を指し示しているようだった。
「……本当に、きれい……」
この地の、そして日本のどこにでもあるあたりまえの田園風景。はるか昔から、たくさんの命が築いてきた、そしてそれを受けとった今を生きるものたちが繋いでいく営み。
その尊さを胸に抱いて、皐月は寄り添う白彦とともに生きていく。
「八重野さん」と呼ぶ皐月と、「きよくん」と呼んだ皐月と。
いつかまた狐の嫁入りが二人を呼ぶ時まで。




