狐の嫁入り_3
薄暗さをわずかに残しながらも、最近コンクリートの床を板間に改装したばかりの土間では、風子伯母が忙しなく立ち働いていた。その背中に声をかけようとした時、ごく近いところから誰かに呼ばれて「はい?」と、横を向いた。
土間と座敷を行き来する他の伯母や従姉妹たちの中に立ち止まる人はなかった。皐月に気を配る余裕さえないほど、バタバタしている。
「お姉ちゃん?」
「……うん。なんか呼ばれた気がしたんだけど、気のせいだったみたい」
土間を仕切る風子伯母に改めて声をかけると、風子伯母は手を休めずに振り返った。
「依舞ちゃんは料理を座敷に運んでくれる? 皐月ちゃん、悪いけどちょうどお酒切らしたから、土蔵からとってきてもらえる?」
「土蔵?」
「やだもう、忘れたの? 裏のよ。小さい頃、よく1人で潜り込んで遊んでた」
風子伯母がおかしそうに笑って、なんとなく古びた蔵を思い出した。
「ああ、あそこの。で、なんか指定の銘柄ある?」
「どれでもいいわよ。あけてない日本酒の一升瓶があるから、それ適当にこっちと座敷の両方に一本ずつもってってくれる?」
了解して、土間の勝手口から外に出た。
空は雲ひとつない。母屋の小高いところからは、長屋門の向こうで伸び盛りの青い波が、風に揺れているのが見えた。のどかで、祖母を送り出すにはふさわしい光景に見えたけれど、その清々しさが逆に淋しく感じられた。
その空に呼応するように、山の方から動物が甲高く鳴く声が聞こえた。土蔵に向かいかけた足を止めるほどもの哀しい響きだ。この辺りにはキツネが多いというから、きっと山に棲む野生のキツネだろう。
視線が古宇里山の猛々しい山容にいったのも束の間、身を翻しかけて、黒いスーツ姿の男性が長屋門を潜るのが目に留まった。
そのまま目が釘づけになったのは、自分と同年代の若い男性だったからでもなく、頭が真っ白、いや銀髪だったからだ。近づいてくるにつれ、明らかに身内ではない美貌の持ち主だということも分かった。あれだけ目立つ容姿なら印象に残っているはずだけれど、葬式で見かけた覚えはなかった。
男性が皐月に気づいて、軽く会釈した。
皐月も頭を下げると、男性は一瞬ためらってから、皐月の方に歩いてきた。
「すみません、八重野光子さんがお亡くなりになったと聞きまして、お線香をあげさせていただきたくてきたんですが……」
「ああ……。ちょうど初七日の法要は終えたところですけど、ご焼香くらいなら……」
そう言って玄関の方に案内に立った。一歩後ろをついてくる男性にちらりと見て、首を傾げた。なぜか見覚えがあった。記憶を探っていると、男性がかすかに笑った気がして、振り返った。
「気になりますか? 僕の髪」
「えっ、あ、いえ」髪も気にはなっていたけれど、そうではないことをうまく伝えることもできず、皐月は言葉につまった。
「いいんです、慣れてますから」
「いえ、その……、気にさわったらごめんなさい」
「謝る必要なんてないですよ。自分でも変だとは思うけど、生まれつきなんです、これ」
苦笑しながらやんわりと言われて、皐月は少し困ったように口をつぐんだ。かといって、前に会った気がするというぼんやりしたことを伝えるほどの距離感でもなく、沈黙が落ちた。
「……あの、僕はお邪魔ではないでしょうか?」
「たぶん大丈夫だと思いますよ。でも祖母とはどういった……?」
「仕事のことでご指導いただくことが多くて。本当にお世話になったんです」
「そうですか……」
祖母の仕事というなら、それは農業しかない。モデル並みのスタイルと美貌をもつ男性が農業というギャップに驚きながらも皐月は微笑んだ。彼と同世代の従兄弟の中に、農業に興味をもっている人はいない。そのことを終始嘆いていた祖母には、きっといい刺激になっていただろう。
「あの間違いでしたらすみません、皐月、さんでしょうか?」
「え、あ、はい。そうですけど……?」
驚いて立ち止まると、男性は少し嬉しそうに笑った。深い森の木々の間に漂う光のようにやわらかく笑う人だと思った。
「光子さんがよく話してくれました。僕と同い年の孫がいて、とてもおてんばだって」
「ええっ! 何、……もう勝手なこと……」
思わず空に向かって、歯噛みした。祖母が空の上でにんまり笑っているような気がした。
「他になんか……言ってました?」
「いろいろ……ですね」
「いろいろって、そんなに?」
「蔵に閉じ込められて泣き喚いて、とか、座敷中、かくれんぼのつもりで走り回るのはいいけど、疲れてどっかの座敷で眠りこけて、家人が探し回るハメになる、とか」
聞いてるうちに顔から火が出るような恥ずかしさに襲われ、皐月は視線をさまよわせた。
「もう……」
初対面の相手に、自分さえもうろ覚えの子供の頃を話されるといたたまれない。
「でも、なんか光子さん、それを話してる時とても楽しそうだったから、だからずっと、いつか会えたらいいなと思っていたんです」
美貌の持ち主に微笑まれて、さらに頬の温度があがった。
「それは、その……ありがとうございます……」どう返したらいいのか分からずにいるうち、天の助けのように玄関に着いた。土間をのぞいて、風子伯母の姿を見つける。
「おばさん、なんか外からおばあちゃんに線香あげたいって方が」
勝手口から声をかけると、手を拭きながら伯母が出てきた。
「あら、誰……って、もしかして、白彦くん?」
「ご無沙汰しています。八重野です」
「あらあらあら、ずっと海外いってたんじゃなかったの?」
「光子さんの訃報を聞いて急遽、帰国したんです」
「まあまあ、それはそれは。おばあちゃんも喜ぶわ」
知り合いだったことにホッとしつつ、後は任せようと立ち去ろうとした時、白彦と呼ばれた男性が「皐月さん」と呼びとめた。
「僕、八重野です、八重野白彦といいます」
「水澤皐月です」
改めて自己紹介されて、頭を下げた。
「あら皐月ちゃん、白彦くんと初対面なの?」
「うん、でも八重野さんは私のことおばあちゃんから聞いていたみたい」
「でしょうねえ」
「でしょうね、って」
「だって、おばあちゃん、皐月ちゃんを目の中に入れてもおかしくないくらい可愛がってたから」
「でもだからって、知らない相手にあることないこと……」
少し拗ねたように言うと、風子伯母は「いいじゃないの。さあさあ白彦くん、あがってちょうだい。おばあちゃん喜ぶわ」と言いながら、彼を屋敷に、皐月を土蔵へと追い立てた。




