狐の嫁入り_1
悲鳴が聞こえた気がして、目をうっすら開けた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん……!!」
「皐月!!」
かつてないほどに切迫した母と依舞の顔が自分を見ていた。
「依舞……お母さん……?」
「よかった……!」
堪えきれなかったように母が皐月の体の上に泣き伏せた。離婚してこのかた、決して涙なんて見せなかった母の嗚咽をこらえても漏れてしまう泣き声に戸惑って、同時に胸の奥に熱いものがこみあげた。
「もう……、なんなのよ……そんな泣いて……」
半身を起こしながら、辺りを見回した。薄暗いけれど、和室にいるらしいことは分かる。前方から光が射し込んでいて、薄茶けた緋毛氈が光の道をつくっていた。
「ここ、」
「古宇里山の神社よ。散歩って出てったきり戻ってこないから」
母が鼻を少し鳴らしながら体を起こして、皐月の顔を覗きこんだ。
「私、」
「まさか拝殿の中で倒れてるなんて。心臓が止まるかと思って……」
思い出したのか、ぶるりと体を震わせた母の肩に安心させるように触れた。
「お姉ちゃん、体は?」
「大丈夫、なんともない……」
見回すと、隅の方には、何か祭りにでも使うらしい道具や神輿が雑然と置かれていた。
「……なんで、こんなとこ……」
言いながら振り返った。
奥にお供え物を前に並べた扉が固く閉ざされてあった。
「お姉ちゃん?」
立ち上がり、扉のそばに近づいた。素朴でも見事な金で装飾された本殿へと通じる観音開きの重たげな扉だ。その上で紙垂が人の動きが巻き起こした空気の流れに揺れた。
その扉の向こうにあるものがひどく気になって、おもむろに押した。
びくともしない。
自分は、もう、向こうには行けない。
突然そう悟って、その意味がわからずに開けようと必死だった自分の手を見つめた。
「お姉ちゃん?」
「この先がどうしたの? 禁足の地だから入れないわよ?」
依舞と母が隣にきて、本殿への扉と皐月とを交互に見た。
「なんだか、この向こうで、とても幸せで、……哀しい夢を見ていた気がするの……」
どちらに言うわけでもなく呟いた。
目覚めて、夢だと知った時のぽっかりとした喪失感が、けだるく皐月を覆っている。
「葬儀の手伝いで働きすぎたのよ。仕事も残業続きだったんでしょ? ……皐月?」
「お姉ちゃん」
依舞がハンカチを差し出した。それを怪訝な顔で見返した皐月に、依舞も母も不安そうに皐月を見つめた。
「涙」
「え、」
慌てて頬に手をやって初めて気づいた。熱さも冷たさもなく、静かに皐月は泣いていた。
「なんで」
自分に混乱して、ハンカチで?の涙を拭った。
「どっか、痛む?」
「全然痛みなんてないんだけど……」
本殿の扉をもう一度見た。
さっき何かを思った気がしたけれど、何を思ったのか、すでにぼんやりとして、もう泡沫のように消えかけている。たいしたことではなかったのだろう。
「よく分からない」
「自分のことなのにぃ……」
少しからかうような口調になった依舞を軽く諌めて、母が言った。
「そういうことだってあるわよ。きっと、山の神様が皐月を呼んだのかもしれないわね」
「山の神様?」
「そう、ここで祀られている女の神様よ。この辺一帯をお守りくださるの」
「へえ……知らなかった」
「真っ白なお狐さんをしたがえた、慈悲深い神様よ。興味があるなら、小里のおばさんが、縁起絵巻を保管してたから見せてもらえると思うわ」
母にはなじみがあるのだろう。どこか敬虔な面持ちで本殿を見つめた。
「どんなご利益があるの?」
パワースポットには俄然興味をもつ依舞が期待をこめて母を見た。
「基本的には農耕の神様だから、五穀豊穣とか商売繁盛、それから家内安全とかだったと思うわ」
「なあんだ、もっと恋愛とかさ、こうイマドキの……」
「罰当たりなこと言わないでちょうだい」
明らかに興味を失った依舞を軽く叱り、母は手を合わせて「皐月を無事にお返しいただき、ありがとうございます」と目を閉じた。つられて、依舞も皐月も手を合わせた。そうしながら、皐月はもう一度本殿への扉を見つめた。この拝殿で倒れていた理由は自分でも分からない。
でもたったひとつだけ、ずっと皐月の胸の奥を占めている。
大切な何かをどこかに置き去りにしてしまった喪失の強い痛みだった。




