山の神、そして_2
「……まったく。騒がしゅうて寝てもおられなんだ」
涼やかな女性の声だった。どこかで聞いた覚えのある。
周りの気温がぐっと下がって、ひどく寒く感じた。
「手を出すのも野暮かと思ったのじゃが……、妾の庭先での振る舞いにしては、あまりに悪趣味すぎてなあ、のう、天白?」
天白が小さく舌打ちしたのが聴こえた。
「これはこれはひさしうございます。内輪もめが少々過ぎました。すぐにさがりますゆえ……」
仰々しいもの言いが終わらないうちに、高らかな笑い声が響いた。まるで鈴を転がすような軽やかさでも、その陰に毒が垣間見える笑い方だった。
「本当に、内輪もめでおさまっておれば、わざわざ妾が出張るはずはあるまい?」
「内輪もめですよ。それ以上も以下もありませぬ」
「ふん、食わせものめ。そこにおる娘が人であるのを分かっての物言い、ほんに無礼だわ」
「人の娘? 私にはとんと見えませぬ。ここには、そこの死にかけの哀れな狐と我が同胞のみ」
「ほほ、つまらぬ冗談しか言えぬのかえ? 天白」再び涼やかな笑いが広がり、ぴたりとやんだ。空気がぴしりと鳴ったような気がするほど、怒気を孕んだ。
「眠りを妨げられて、妾は機嫌が悪い」一変して、低い声が響いた。
「……失礼しました。では、ここにいると言われる人の娘も我らとともにひきあげましょう」
「ならぬ」
「……ならぬ、とは?」
「その娘は、人の世にかえすべき存在よ。天白、おぬしが理、理とうるさいほど申すものに従うならば、それが道理であろう?」
「……では、その死にかけの狐のみを道連れに」
白彦を連れて、今度こそ彼らは皐月の手の届かない場所へ行ってしまう。
天白の言葉に、皐月は思わず顔をあげて目を開けた。周りは真っ白で何も見えない。声が隣から聞こえるにも関わらず天白の姿さえ、見えなかった。
「きよくんを連れていくなら私もそこに行く。きよくんと離れないと、そう誓った!」
切羽詰まって訴えると、ふいに前方の白い空間に色彩がさした。息を飲んで見つめていると、それはゆっくり人の形をとった。
「そんな、……おばあちゃん!」
はっきりした輪郭に、皐月は弾かれたように駆け寄った。
「おばあちゃん!」
「しょうがねえ子だなあ、皐月は」
苦笑とともに漏れた声はあきらかに、生きていた祖母のものだ。
「心配で三途の川も渡れねえべ?」
生気のない棺の中の笑みではなく、懐かしいばかりの笑顔に涙があふれた。
「ごめんなさい……!」
「なして謝んだ。ほらほらそんなに泣くんじゃねえ。ちょっと見ねえうちにこんな大きくなって……。きれいな顔が台なしだべ」
堰き止めていた想いが決壊して、後から後から涙がこぼれて泣きじゃくった。
「ちが、だって、ひどい別れをした、傷つけて、ままで。なのに死んじゃう、なんて思っても」
しゃくりあげながら伝える。白彦のことや、自分の命のことや、普通では考えられない現実ばかりに張りつめていた何がが切れていた。
「ごめんなさい……! もっと、ちゃんと、生きてる間に、謝りたかった。会いに、行けば、よかったて。狐火、の列に連れてかれ、て」
「ほらほら落ち着け、皐月。泣くのもおよし。ばあちゃんは大丈夫だがら。我慢強い皐月のこと、分かってやれなかったのはばあちゃんの方だ。ごめんなあ」
節くれて乾いた指が皐月の涙をぬぐった。
「おばあちゃん、ごめんね……」
「いいんだよ。ばあちゃんは、皐月が元気で、幸せに暮らしていてくれさえすれば満足だがら」
鼻をすすりあげた。
「おばあちゃん、は、どうしてここに? だって狐火の列に連れてかれて、それに、今日初七日の法要で」
「説明してやっから落ち着け、な?」
なだめるように背中をゆっくり叩かれ、頷いた。
「一か八か、ちょっとだけ、山ん神さんのお力さ借りたんだっぺ」
ハッとした皐月の表情に、祖母はにっこりと頷いた。
「山ん神さんがここにつれてきてくだすった。ただ山ん神さんとこにたどり着くまでがな、ちょっとあぶねえ橋だったもんで、途中で、な。皐月が言う狐火の列がそれだべ。でもありがてえことに、山ん神さんが助けてくれたんだ」
「山の神様……」
「皐月、さあ帰るべ。ここにいちゃなんねえ」
祖母の言葉に、身が強張った。
「……おばあちゃん、私、帰れない。きよくんが危ないの」
「皐月」
「おばあちゃん、前言ってたよね。周りの命あるすべてのものに生かされて、人は生きてる。だから命をその人の勝手にはしちゃいけないって。でも何度となく私のために命を張ってきてくれた、私の一番大切な人が命を失いかけてる。そんなの耐えられない。だって人よりも人の感情や暮らしや、いろんなことを愛してくれて、そんな人が死ぬなんて、そんなのだめよ」
「……皐月、死んでいいもんなんて誰一人この世界にゃあいねえべ? でもいつだって、なんらかの巡り合わせで、死に向かうもんだ。それは動かせることじゃない」
「それじゃ、やっぱり私と会ったからきよくんは死ななくちゃいけなくなったってこと……?」
「それは誰にも分からん。どんな存在だろうと、死は等しく降りかかるもんだ。死に向かうまでの猶予が、どれだけあるかの違いがあるだけだっぺ。白彦は自ら分かってて死期をはやめた。その事実があるだけだべ。それでもな、白彦は、本当に皐月、あんたが好きだから、覚悟の上で選んだんだ」
覚悟を求められたことを思い出す。
「皐月、よく考えんだよ。白彦が、あんたの命と引き換えに生きていきたいのか」
「だからって、きよくんが死んでいい理由になんてならないよ……!」
どうしたらいいのか分からなくなって、その場にくずおれた。
後から後から涙がこぼれて、自分の体内にある水分をすべて流し尽くすように泣いた。泣くことで今の状況を受け入れたかった。受け入れなくてはいけないのだ。
「皐月ちゃん……」
白彦の声が届いた。人の方か、狐の方か、区別はつかない。
辺りを見回して、その姿を探した。そばに行きいけれど、真っ白な世界は映してほしいものを映しはせず、すべてを吸収してしまっている。
「おばあちゃんと帰るんだ。帰る道を知っているから」
「僕は、皐月ちゃんのその想いだけで充分だから。……だから、お帰り」
同じ白彦の声が聞こえて、皐月はたまらずに嫌々するように頭を振って涙を流し続けた。
「皐月」
肩に触れられ、祖母を見あげた。悲痛な表情でも、決然とした目で、祖母が手を差し出した。
「皐月、帰っぺ。私らには私らの世界がある。あんたのことを待ってる人間がたくさんいるはずだ。あんた一人欠けただけで、それまでの暮らしががらりと変わってしまうことだってある。あんたは、人の世で、与えられた命をよりよい形で全うしなきゃなんねえ。それがこの世に生まれた人すべからく負っている人生だかんな」
祖母にとっては、白彦よりも皐月を元の世界に戻すことの方が大事なのだ。祖母の気持ちも痛いほど分かって、皐月は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で頭を振った。
「白彦の命は、私らの手でどうにかできるもんじゃねえ。彼らの領域だ」
祖母の言うことを理解できても、その手を、どうしてもとれない。自分にこれ以上できることがなくても、白彦が元いた世界に皐月が戻ることを望んでいても、自分は。
「……まったく、強情な娘だねえ」
あきれ果てたような声が突然近くで響いた。その近さに、体が雷に打たれたようにこわばった。同時に感じたのは、一分の隙もない畏れだった。恐怖ではなく、あまりに自分の理解の及ばない圧倒的な存在感と、広大な意思。その前では、皐月という存在が急に覚束なくなって、輪郭が曖昧になっていくような感覚に囚われた。
固まったままの皐月におかしかったのか、鈴を転がすように楽しげな笑い声が響いた。
「血じゃなぁ。のぅ、光子?」
少し自嘲気味に聞こえた山の神の言葉に、光子と呼ばれた祖母はかすかに笑った。
「そなたは、昔を思い出させる……。目の前しか見えず、周りの想いを受けとる心さえ持てなくなって我知らず傷つけてゆくことも気づかない……深すぎる業に胸が痛いわ、のう? 天白」
「……」
「娘、古くからの理はかえられぬ。人の世でそなたとそながらがお狐さんと呼ぶ存在がこの先手を携えることはできないのじゃ。だが、すべては今この瞬間での話。そなたの選択次第では、その存在が命を落とす流れだけは変えられるかもしれぬ」
声がする方を見た。
まばゆい純白の世界に、かすかに色が見えた。目を凝らすと、淡い輪郭の中に着物の女性の姿が見えた。美しくたおやかな雰囲気が伝わってくる。
「ほう、そなた、口にしたのじゃな」
ぽつりと呟いた山の神の言葉の意味はわからない。怪訝な顔をしていた皐月に、山の神は少しおもしろそうに笑いをこぼした。
「ふふ。さあどういたす?」
問われて、白彦の姿を目で探した。でも祖母と、山の神の姿の他に今一番駆け寄りたい相手は見えない。そして、白彦が望みをかけた相手である山の神が提示したのは、白彦の命を死の淵から救うことだけだった。
皐月と白彦が、共に生きる道ではなく。もう他の選択肢は与えられていなかった。
「教えてください」
「何かを得れば、その対価として見合うだけのものを失うぞ。それでも?」
「二人の……きよくんの命と引き換えにはできない」
きっぱりと答えた時、かすかに「ああ……」と聴こえた深く哀しみに彩られた吐息は、たぶん、人と狐と、白彦二人のものだろう。
「潔いのう……」
山の神のその言葉は、どこか皮肉に聴こえた。
「簡単なこと。すべてを白紙に戻すだけじゃ」
「白紙……」
「そなたはその者と出会わず、もちろん天白にも妾にも会わない、ただ普通に定められた年数の人の世を生き、その果てに死を迎える」
一瞬にして、幼い頃と、そして大人になってからの、白彦と過ごした短くも濃い時間が脳裏をよぎった。その満ち足りたぬくもりが、すべて幻となって消え去る。
激しくなった動悸を抑え、ショックが誰にも伝わらないように小さく呼吸を整えた。どのみちその自分は、失ったことなど知りもしないのだから、今この時だけを耐えぬけばよかった。
その時、黙って隣にいた祖母がそっと皐月の手に触れた。
しわだらけで、乾いていて、その手で頬を触られると少し、ざらついて痛い。でも幼い頃からなじんできたぬくもりがしっかり伝わってきた。
「……おばあちゃん」
隣を見ると、祖母はゆっくり頷いた。
自分は、祖母、そして白彦に生かされて、そしてこれからも祖母、そして白彦に生かされていく。例え忘れても、それでもその時間は、皐月の知らない時間の流れの中で事実として、生き続ける。
だから、今、ここにいる皐月自身は忘れない。この選択をした自分が、自分でなくなっても、後悔しない。
「天白、そなたもそれでよかろう? どのみち、そなたの手にはその狐が戻るのじゃからな」
「……神となったあなたに逆らおうなどと思いもよりませぬよ」
「ふん……腹黒狐め」
山の神がおもしろくなさそうに舌打ちし、それから皐月の方に意識を向けたのが分かった。
「娘、選ぶのはそなたじゃ」
沈黙が訪れた。まるでそのまま時が止まってしまったかのように果てしなく長い。
でももう、決めていた。
「山の神様」その場に膝を揃えて座り、三つ指を揃えて深く頭を垂れた。
「すべてを白紙に戻して、きよくんを、白彦を、助けてください」
その瞬間、急に目の前に色彩があふれた。肌を撫でる風も、土や木々、草の匂いも、葉や鳥や、虫の音も一気に戻ってきた。急激な環境の変化に皐月の体も脳も対応しきれず、くらくらと目眩が起きて、体のバランスを失った。
でもすぐに誰かの腕に支えられた。
「……皐月ちゃん」
皐月を支えるしっかりした腕と、耳のすぐそばから届いた声に、目を開けた。
人と狐の白彦がいた。二人のその顔や腕や、いろんなところから流れていたはずの血がゆっくりと消えていく。四つの金の瞳は、深い森の大樹のように穏やかだった。
「皐月ちゃんは、本当にばかだなぁ……」
人の白彦は、泣きそうな顔で皐月の頬を撫でた。ばかだというその言葉とは裏腹に、その手つきがあまりに優しくて、愛しいと思う気持ちが伝わってきて、涙があふれた。
「生きてて、ほしいの」
二人の白彦が頷いた。
「ごめんね、望んだ結果を出せなくて。私が、自分の勝手で、わがままで選んでしまった。でも何を引き換えにしても、生きていてくれれば……」
頬にそえられた手が濡れるのも構わず、泣きじゃくった。
「いいんだ。いいんだよ。だから、もう泣かないで」
「でも、二人はきっと、私を覚えたまま、逝きたかった、でしょう? 共に歩くことが叶わないなら、きっと、いっそのこと……」
白彦の金の瞳の目元の白い毛並みが濡れている。ふさふさした狐の手が皐月のもう片方の頰の涙をすくい、その輪郭が淡くなった。
「それでも、皐月ちゃんが、そう望んだから」
「だから、僕たちは、それを尊重する」
狐の白彦が人の姿に重なるようにして、そうして小さな微笑みを残して消えた。
「ごめんなさい……!」
「謝ることない。皐月ちゃんはいつだって僕の本質を見てくれた。導いてくれていた。それがどれだけ僕にとって、嬉しかったか……。僕の方こそ、ごめんね。結局、辛い思いさせているのは、僕だ……」
「そんなことない」と激しく頭を振った。
「……僕に会えたこと、後悔してない?」
残された白彦が額を皐月の額にそっと押し当てて聞いた。
「どうして? 後悔なんてするわけないじゃない」
「なら、笑って」
「……きよくん」
「皐月ちゃんの笑った顔が、大好きだ」
「……そんなの、ずるい……」
なんとか涙を止めて笑おうとして、中途半端な泣き笑いの顔になった。
「自分だって、笑えてないじゃない……」
白彦の頬を一筋の涙が落ちていた。白彦は小さく笑って、それから息をついた。
「泣いた顔も、大好きだよ」
「きよくん」
「怒った顔も、拗ねた顔も、恥じらう顔も、真剣な顔も、どんな顔も……」
白彦が皐月の頬を両手で確かめるように包んだ。
そのぬくもりが、なによりも愛しかった。
「また、きっと会える。だから、今はありがとうも、さようならも、言わない」
囁かれて頷いた。
少しためらって、白彦は顔を寄せた。甘い吐息がかかり、皐月もゆっくり顔を寄せた。
いつか、また、きっと会える。そう信じる。今の自分が消えても、どこかでその未来への道に繋がる。最後の瞬間まで、その願いを胸の奥に灯していれば、きっと。
「大好き」皐月が唇に乗せた言葉をすくいとるように、白彦の唇がそっと触れた。そして皐月の耳元に口を近づけ、静かに囁いた。
「愛してる」




