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狐の声がきこえる  作者: ゴトウユカコ
第13章
34/41

山の神、そして_1

 この前と変わらず、鳥居は昔からそこにあったような顔で鎮座していた。いつのか分からない落ち葉が端に寄せられて溜まっている、苔むした石段を登った。見上げれば、無言の空を透かした木々の枝葉が清かに広がり、梢の間から時折、鳥が鳴き交わす声だけが降ってくる。

 登りつめても、誰の気配もない。ただ、崩壊したはずの色あせた朱の鳥居が、何事もなかったかのように元どおりの姿で連綿と重なっている光景だけが目に鮮やかだった。

 ここで白彦が体を張って助けてくれたというのに、その記憶は夢だったとでもいうようになんの異変もなく、穏やかな時間の中に漂っている。

 皐月は木々や草の隙間を覗き込んで探しながら、狛狐の間を抜けて、拝殿の前に立った。

 予感はしていた。この社に来たところで、きっと白彦はいない。そして悟伯父に化けていた異形の狐も、その同胞たちも。

 それでも足を向けずにはいられなかった。

 誰かが、……白彦でなくてもいい。皐月をとって喰おうとする他の化け狐でもいい。姿を見せてほしかった。周りには皐月以外、影も形もない。朽ちそうなのに、その威容で立ちはだかる拝殿を呆然と見上げ、ただ時間を見送った。その屋根を覆う枝葉のさらに向こうに太陽が見えて、時間を確認しようとポケットを探る。

 スマホがない。母屋に忘れてきたらしい。疲れがどっと押し寄せて、皐月は拝殿の一番下の階段にのろのろと座りこんだ。

 皐月には、白彦がくれた約束の他に何もない。それだけを残して、白彦の存在そのものがなかったことになるとは思いもしなかった。自分の記憶からも白彦が消える可能性に、今はただ怯えた。

「きよくん……」

 忘れてしまうことが怖くて、繰り返し白彦の名前を呟き続けた。そうしている限り、白彦を忘れることはないはずだと思いつめた。

 初七日の法要は、もう始まる頃合いだろう。本家に戻らなくてはならないのに、体が鉛のように重くて動かすことすらままならなかった。白彦の約束を信じて待つにはショックが大きすぎて、それでも待つことしかできないこの時間が、今は胸を抉るように辛い。この社の他に、今の皐月にどこに行けというのだろう。本家に戻ったところで、白彦が存在しないことを思い知らされるだけだ。

 鳥居の奥を吹き抜けてくる風は爽やかなのに、気持ちは沈んでいく。皐月だけが白彦の存在を覚えている。そのたった一つの事実が、自分さえ知らない感情の深淵から絶望を連れてやってくるようだった。

 ざわざわと木々が揺れ、わずかな音にも反応した。些細でも、白彦が現れる何かが隠れていやしないかと無意識に探した。木々の間に、枝葉の向こうに、鳥居の奥に、拝殿の裏に、あらゆるところに、白彦がいないかと、目がさまよう。

 皐月ちゃん、と笑いながら、今にも鳥居の向こうに現れるかもしれない。助けてくれた時のように、突然、現れるかもしれない。群衆の中に佇んで、呼んでくれるかもしれない。無意味な想像ばかりが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

 会いたい。

 顔を見たい。

 声を聞きたい。

 そのぬくもりに触れたい。

 ただ、生きていると、知らせてくれるだけでいい。

 じっと顔を伏せているうちに、いつのまにか太陽の光には琥珀色がまじり、気づけば境内は薄暗くなり始めていた。すでに時間の感覚を失っていた。

 ふと呼ばれた気がして、振り返り、拝殿の向こうに目が止まった。一般的な神社ならば、拝殿のその奥に本殿があるはずだ。

 祀られているのは、山の神。言い伝えが真実なら、まさに今の皐月と同じ想いをした、かつて人間の女性だった神様。

 そう思った時、急にうなり声をあげた風が吹き、周りの木々が大きくしなった。びくりとした皐月を嘲笑うように、地面の小枝や落ち葉や小石なんかが舞い上がった。ぴしぴしと小さな礫や葉が肌にぶつかり、すぐに身を縮めた。

 風がやんで、ゆっくり目を開けると、拝殿の扉が、まるで中へ誘うように開いていた。かつて悟伯父だった異形の狐が中へ誘ったことを思い出した。

 白彦が向かった、人が自分からは訪れることのできない、異界。

 この世との境界。

 山の神がおわす世界への。

 立ち上がった。階段をのぼり、賽銭箱をまわり、扉の前に立った。

 拝殿の中は横に広く、集落の行事にでも使うような雑多な物が隅に置いてあった。外の鳥居よりも鮮やかな緋毛氈が目に飛び込んできて、皐月は一瞬、今どこにいるのか分からなくなる。

 靴を脱いであがると、中はひんやりとしているのか、肌を撫でる空気は冷たく湿り気を帯びていた。その空気の匂いに、どこかで覚えがあるような気がした。その正体に思い当たり、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。

 あの土蔵の地下の空気と同じだ。

 中に入るべきかどうか、ためらいが生じた。でも入らなくてはならない気がした。

 扉のうちに足を踏み入れた時だった。

 皐月の中に濁流のように激しい感情が突然にわいた。

 それは、狂おしいほどの誰かへの恋しさと、どうしようもないほどの恨み。身を切られるように辛く哀しいばかりで、後から後から涙があふれ、緋毛氈の上に落ちて濃い染みをいくつもつくった。

 この感情は、自分のものじゃない。

 ……彼女だ。

 滂沱と涙を流したまま顔をあげると、真正面に御簾と紙垂が下がった一間があり、檜の膳に盛られた塩や米、野菜などの神饌が並んでいた。そしてその向こうに、しっかりと手入れされてきたらしい金の装飾が施された扉があった。

 不意に全身の毛が逆立った。手足のつま先まで肌が粟立ち、末端の神経の先までぴりぴりと緊張が走っていた。

 あの向こうに、今、山の神が、いる。扉の向こうに、いる。

 何十年、何百年経った今も人ならざる相手に恋をして、それを失うことへの怖れを、辛さ、苦しさを、哀しさを、抱えてきた、その存在が。

 胸を切り裂くような彼女の感情をこらえながら、皐月は御簾をくぐって、神饌が並ぶ前に立って扉に手を伸ばした。本来、身を清めた神職にある者しか立ち入れない禁足の地であろうとなかろうと関係なかった。何かを願うとか、そんなことさえも思いつかずに体が無意識に動いた。

 扉の把手に手をかけた時だった。

 甲高い篠笛の音が、空気を切り裂くように鳴り響いた。ハッと拝殿の中から振り返ると、今まで誰もいなかった境内に、彼らが、人の姿をした異形の狐たちが姿を現している。前と同じ、木々や鳥居の上に下に横に、寄りかかる者もいれば立ち尽くす者も座る者もいた。拝殿の扉の上から逆さに覗きこむ顔もあって、拝殿の入り口に向かいかけた皐月は危うく悲鳴をあげるところだった。彼らは拝殿の中には入ってこようとせず、言葉を発することもなく、ただじっと皐月に視線を注いでいる。皆同じ狐の顔のように見え、皐月に区別がつけられるのは毛と着物の色ぐらいだ。

 そこに白彦の姿はない。例えどんな顔、どんな姿をしていても、自分にはわかる。でも目の前の異形の狐たちの中には気配さえなかった。

 それでも彼らがここに現れたことが、白彦に繋がる希望だった。この糸を手放すわけにはいかない。唯一の、白彦への道だ。

「きよくんは、どこ?」

 境内を埋める誰ひとりとして沈黙を守り、ただ拝殿の際に立つ皐月を見ている。その無数の視線がたまらなく不安を煽った。それを跳ね返すように、彼らの顔を睨むようにして見まわした。

「悟おじさん! いるんでしょう?」

 悟伯父に化けていた異形の狐がどれかは分からない。でも彼は、応えるはずだ。皐月を憎み、皐月の魂を奪うことで、白彦をとりもどそうとした件の彼ならば。

「私の魂が欲しいんでしょう?」

 挑むように拝殿の扉のところで声を張り上げた時、かすかに彼らの空気が動いた気がした。身構えた時、奥の鳥居から誰かがゆっくり歩いてくるのが見えた。鳥居の道を妨げていた異形の狐が順番に道を開けるように動く。

 目を凝らして、息を飲んだ。

 単の着物をさらりと身にまとった白彦だった。周りの異形の狐たちと一線を画すように人の姿で、悠然と歩いてくる。

「きよくん!」

 我を忘れて拝殿の階段を駆け下りた。白彦も笑みを浮かべて軽く走り寄ると、皐月の体をやんわりと抱きしめた。

「心配かけた。でももう大丈夫だよ」

 別れた時と変わらないぬくもりに緊張の糸が解けて、白彦の匂いを吸い込むように深呼吸すると顔をあげた。

「許してもらえたの?」

「何を?」

 きょとんと聞き返した白彦に、小さな違和感が生じた。

「え? ほら……、だって同胞たちはきよくんを許さないって」

「ああ……許すも何も、はなからそんな必要はなかったんだ。僕は、僕に戻ったんだから」

 白彦は、嬉しそうににっこりと笑った。

「どういうこと……?」

 意味が分からず首を傾げた皐月に、白彦は頭を振った。

「白彦だよ。きよくんなんて名前じゃない」

 何かがおかしい。そう思った時には、皐月を抱きしめる白彦の腕の力は、身を引き離せないほどに強くなっていた。むしろ、獲物を捕まえでもしたかのようにさらに力が加わった。

「どうしたの?」

 身をよじった皐月に、白彦は金色の瞳を細めて首を傾げた。

「きよくん、苦しい……」皐月を抱きしめる腕の力は緩まない。

「ダメだよ。だって、離れないと約束したでしょう?」

 そう言いながら、白彦は人間のものではない細い瞳孔で皐月を見つめた。いつのまにか爪も鋭く伸びていて、それが肌に食い込んだ。

「……きよくん、爪、痛いよ……」肌に刺さる痛みにも、目の前の白彦は気づかない。

「ねえ、皐月ちゃん。お願いがあるんだ」

 何も変わったことはないと言いたげな穏やかな声だった。

「僕に、君の魂魄をくれる?」

「……こん、ぱく」一瞬、何を言われているのか分からず、おうむ返しに単語を発音した。皐月を抱きしめる白彦の表情は、どこまでも優しい。

 その意味を一拍遅れて理解した時、絶望が体の芯を貫いた。

「……私、の魂を……?」食べるのかとは、口に出せなかった。

 でも白彦は微笑んだ。その表情がすべてを物語っていた。そうと分かってしまうほどに、皐月は白彦を知ってしまっていた。

「……ずっと、ずっと、おいしそうだと思ってた。皐月ちゃんの魂魄は、まるで夏の終わりの虹みたいにとてもキレイで、いつか食べたかったんだ」

 白彦があまりに普通に、無邪気に言うから、皐月は茫然としたような気が抜けたような、間抜けな顔をさらしてしまった。

「そ、っか……」

 そう呟いて、それから全身から力をぬいた。

「私のこと、食べたかったんだ……」

 白彦の瞳は、まるでおもちゃを与えられた少年のようにキラキラしていて、怒りとか、哀しみとか、どんな感情もわき起こらなかった。

 ただ理解できたのは、一つだけ。

 この人は、違う。

 どんなに白彦と同じ顔で同じ姿をしていても、目の前の白彦は、皐月が知る白彦ではなかった。

「私の……魂魄を食べられたら、きよくんは、幸せ?」

「幸せ、っていうのがどういうものか分からないけど、すごく嬉しいよ。魂魄は僕らの力の源だから。きれいであればあるほど、いい」

「そ、か……。私……おいしいのかな……おいしいと、いいな……」乾いた笑いがこぼれた。

 白彦にとって自分がおいしいなら、もうそれ以上は何かを望むことさえ思いつかなかった。白彦が喜んでくれる。ただそれだけが白彦を取り戻す残されたとても細い道のようで、もう他のどんな気力も湧かなかった。

「絶対おいしい。だって皐月ちゃんを抱いてた時、ずっとくらくらしていたくらいだよ」

 断言する白彦が、まるで遠く、現実感が遠のいた。心臓の脈動が静かになって、今の自分を遠くから客観的に見ているようだった。

「……食べたかったのを、我慢させて、ごめんね」

 皐月の返事に、白彦の顔が期待に輝いた。とても無邪気なその顔は、再会してからほとんど見たことのない幼さを残していた。だからこそ、決定的だった。

 皐月の知る白彦は、いない。守るといったその人は。皐月のことばかり考えて、命さえ投げ出してくれていたあの優しいお狐さんは、どこにいったんだろう。

 喜びに興奮して上気しているような白彦の、その頬に触れた。白彦は獣が甘えるように、私の手に頬を擦り寄せるようにした。

 こんなに同じぬくもりで、同じ顔で同じ姿なのに、違ってしまった。

「きよくんが、好き、だから」

 皐月は小さく深呼吸した。

「……食べて、いいよ」

 その瞬間、白彦の細い瞳孔の金色の瞳が強く輝いて、耳は尖り、鼻やヒゲが伸び、口が横に裂けて、牙が生えた。皐月を抱きしめたまま、人から白銀のお狐さんに変貌した白彦は、空を仰ぐようにしてひと際高く鳴いた。まるで勝利の雄叫びのように強く、高く。

 皐月の腕を掴む白彦の鋭い爪が、いっそう肌に食い込んで血が滲んだ。痛みが増して、顔を歪めたことに、白彦が「大丈夫、痛くない」と表情の分かりにくい獣の顔で言って、大きな口を開けた。鋭い牙がずらりと並んでいて、濡れた赤い舌がちろちろと火のように見えた。

 恐怖も何もない。ただ、諦めと絶望だけしか、なかった。

 生温かい息が顔を覆うようにかかり、視界が暗くなり、周りの音が一切遠ざかった。無音が、皐月を取り囲んだ。その時。

「だめ」

 不意に響いた幼い子どもの声に、白彦が皐月を抱きしめる腕が震え、緩んだ。

「その子を食べちゃだめ」

 木々や風の音や、周りの気配が急に戻ってきて、目を開けると、白彦が一点をじっと見つめていた。その視線を追って振り返った拝殿の階段に、狐面の男の子が立っていた。

 高みからただ様子を見ていた周りの異形の狐たちが、次々に地面に降りた。

「食べたら戻れなくなるよ」

 狐面をつけた幼い白彦は物怖じする様子もなく、狐姿の白彦をまっすぐ見ている。

 ふっとその子どもの姿が揺らいだ。目を瞬かせている間に、幼い白彦は狐面をつけたまま、背丈が伸びて、体つきがしっかりして、大人の人間の白彦へと成長した。

 この境内に、白彦が二人、向き合っていた。

 あまりの状況に呆然としている皐月の前で、狐面の白彦は、静かに面を外した。その顔は、見慣れた優しい表情の中に、どこか哀しそうな色を纏っていた。

「その人は大事な人。食べてはいけない」

 お狐さんである白彦が、皐月を抱き寄せたまま、一歩後ずさった。

「君は僕だ。僕なら分かるだろう?」

 人の白彦は、腕の力を緩めても皐月を離そうとはしないお狐さんの白彦に諭すように言った。その言葉に、お狐さんの白彦は頭を振った。

「皐月ちゃんは、僕のものだ。誰にもやらない」

 異形の狐たちが、皐月とお狐さんの白彦の周りを固めるようにして、人の姿をした白彦との間に立ちはだかった。それでも、彼は動じない。

「だから食べるの?」

「そうだよ。魂魄を食べれば、皐月ちゃんは僕の一部になる。永遠に一緒だ」

「でもそれはもう皐月ちゃんじゃない。ただの意志なき存在だ」

「違う! 皐月ちゃんは僕とともに生きるんだ、何百年何千年と」

 お狐さんの白彦は、まるでお気に入りのおもちゃをとられまいとするかのように皐月を背後から強く抱きしめた。

「だいたい、お前だって望んだだろう? 皐月ちゃんと一つになりたいと」

「……ああ、望んだ。でもそういう意味じゃない」

「じゃあなんだ? 皐月ちゃんから男を追い払い、何度も抱いて、願ったじゃないか。貪り尽くしたい、壊してしまいたい。いっそのこと、……殺してしまいたいと」

「……」

「図星だろう。だいたいお前はもう僕じゃない。力も実体も失ったお前に何ができる?」

「できないかもしれない。でも、僕は、皐月ちゃんと約束したんだ」

 人の白彦は静かに微笑んで皐月を見つめた。

 そう、約束した。小さな頃にも、そしてこの前の夜にも。

「君がいくら僕を否定しても、君は僕だ。離れては生きていけないんだよ」

「はははっ、それは強がりだ。僕はこの僕しか必要ない。皐月ちゃんの魂魄を食べて、皐月ちゃんとともに天狐になる。君はもう必要ないんだよ、僕には」

 乾いた笑いとともにそう言い放つと、お狐さんの白彦は大きく腕を振りかぶった。その瞬間、鋭い風の唸り声がして、一直線に土埃が人の白彦に向かった。轟音があたりに響き渡り、背後にそびえる拝殿の扉が吹き飛んだ。

「きよくん!」

 土煙がたちのぼり、白彦がどうなったのかは見えない。駆けつけたいのに、お狐さんの白彦は皐月を片腕で強く抱きしめて離さない。振り返って、すがった。

「きよくん、やめよう? こんなのおかしい」

「違う、きよくんじゃない! 僕は白彦。本当の名前は白彦だ!」

 少し苛立ったようにお狐さんの白彦は吐き捨てた。

「でも」

「皐月ちゃん、白彦と呼んで。きよくんではなく、白彦と。もう一度、僕を縛りつけたあの時からやり直せばいい。そうすれば、すべてうまくいく」

 今度はお狐さんの白彦の方がすがるように皐月を見た。絶望の淵に佇んでいるような昏い表情に、言葉を失った。

 この人は、意識しているかどうかは別にして、おそらく分かっているのだ。

「きよく……きよ、」口の奥が干上がったかのように張り付いて、うまく言葉にならない。彼が自分を食い入るように見つめていた。腕の力を強めていることにも気づかないほど、必死に、皐月を求めていた。

 軽く唇を湿らせ、息を吸った。そしてその名前を口にしようとした時、「皐月ちゃん」と呼ばれた。ハッと振り返ると、人の白彦が薄らいだ土埃の中から立ち上がった。

「その名前を呼んではいけない」

「きよくん!」

「大丈夫だよ。彼は僕だから、僕が受ける痛みは彼も感じてる」

 目の前を見上げると、お狐さんの白彦はかすかに視線をそらした。真実なのだと思った瞬間、もう一つの真実に気づいた。

 これでは共倒れだ。

「まさか……」

 悟伯父に化けていた異形の狐を目で探した。

「そうだよ、皐月ちゃん。天白……同胞たちは、僕を許しはしない」

 淋しそうに人の白彦は言った。

「そんなことはない。天白たちは許してくれた。だから僕はこうして存在できている!」

「違う。僕と君とがこうして争うことが彼らの目的だ。僕が僕を殺せば、残った僕もそう長くは生きない。自分の手はなるべく汚さない、それが僕らだって、そんなことぐらい、君だって分かっているはずだ」

「違う!」

 再びお狐さんの白彦が腕を振り上げた。

 それと同時に、他の異形の狐たちが高く跳躍した。空から人の姿の白彦に向かって、鋭い風の刃を幾重にも投げつけた。立て続けに轟音が響いて、辺りを土煙が覆い尽くす。

「きよくん!」

「ほら見ろ! 僕を応援してくれているじゃないか!」

 まるで子どものように、お狐さんの白彦がはしゃぐ声にカッと怒りを覚えた。

「やめて! 自分を傷つけてどうするの!」そう怒鳴りながらお狐さんの白彦を振り返りかけて、視界の隅で異形の狐が皐月に向かって大きく吠えるのが見えた。その直後、突然、大きな衝撃を受けた。

「い、った……」

 体を起こしかけて、自分に覆いかぶさるようにしている誰かに気づいた。

「き、きよくん!?」

 狐姿をしている白彦がかすかに身じろいだ。

「皐月ちゃん、……大丈夫……?」

 見上げた至近距離に、お狐さんの白彦のどこか強張った顔があった。その金の瞳が哀しげな光を宿して揺れ動いていた。心底皐月を心配する色が、その奥にちらついている。

「大丈夫、って……」その下から這い出そうと何かぬめりとしたものに触れた。血だ。ぎょっとして慌ててお狐さんの白彦の体をあらためると、背中に大きな傷を負っている。

 それなのに、目の前の白彦は「怪我は……?」と皐月に再度訪ねた。思わず泣きそうになりながら頭を振った。

「私は、大丈夫だよ。だってきよくんがかばってくれたから。私よりきよくんの方が」

「僕は、平気」

 ふわりと獣の顔に浮かんだ笑みに、胸を突かれた。

 どうして、この人を一瞬でも白彦と違うと思ったのだろう。

 変わらない。白彦だと名乗ろうが、きよくんではないと言い張ろうが、皐月をこうして命がけで守って、柔らかな微笑みで包んでくれる人は、彼しかいない。

 その真実に気づかなかった自分を内心責めながら、立ち上がるお狐さんの白彦が、一瞬ふらついたのに気づいてすぐに体を支えた。

「これ……!」

 背中だけではない。頭や体や腕からも血を流している。こうしている間にも、傷は増えている。それはつまり、人の姿をしたもう一人の白彦が今も土煙の向こうで傷ついている、ということに他ならない。

「きよくん、もうやめよう? このままじゃ、二人とも死んじゃう」

 額の傷から流れる血で片目を閉じかけながら、白彦はふらつく体に活をいれるように頭を振った。その瞳が、ふと、皐月の肩を通り越して、向こうを見た。つられて振り返ると、渋い銀鼠の上等の男物の着物を着流した異形の狐が遠くから皐月と獣姿の白彦をまっすぐ睨んでいた。

 さっき皐月に向かって吠えた狐だ。そして、その視線の冷徹さに、見覚えがあった。

「……あの狐……もしかして」

「……僕は、天白を信じてる。あいつを消せば、僕は本当の僕に戻れる。皐月ちゃんだって、僕だけを見て、白彦と呼んでくれる」

 お狐さんの白彦は、皐月を見ず、その異形の狐の方に顔を向けたまま呟いた。

 天白は、悟伯父に化けていた存在の名前のはずだ。その者こそが、皐月たちの視線の先に立つ異形の狐だった。皐月を射殺さんとする視線は、悟伯父の姿をしていた時から向けられてきたものだ。

 知らず獣の白彦の腕を掴んで、手がぬめった。両手を鮮血が染めた。

「このままじゃ、本当に助からない! きよくん、お願いだから、もう一人の自分が言うことを信じて! だって、あの狐は、きよくんがいてもおかまいなしだったじゃない!」

「天白が僕を見捨てるはずはないんだ」

「そんな、どうして、そこまで!」

「養い親だから。両親を人に殺された僕の」

 言葉を失った。どんな言葉も、出てこなかった。

 悟伯父に化けていた天白という狐が、皐月を憎しみの目で見ていたことを思い出す。血が繋がっていなくても、息子同然の白彦が理を侵し、道を誤っていく姿を、悟伯父という、それこそかりそめでも父親という立場でそばにいながら、正せず、否応なしに見せつけられてきたのだ。皐月を守るため、説得も聞き入れない白彦に、絶縁に近い形で、離れざるを得なかったその無念が、皐月をその場に縛った。

「父さん……」

 狐姿の白彦の瞳に皐月が映っていても、もう皐月を見てはいない。皐月から離れて人の白彦の方に向かうのだとわかり、「だめ……」と言葉だけを必死で押し出した。

「……とどめを刺さなきゃ。あいつは、いらない……」

 どこか虚ろな雰囲気で、皐月の脇をすりぬけた瞬間、その腕をとって引き止めた。

「だめ」

 狐姿の白彦が皐月を振り返った。さっきまであんなに輝いていたはずの金色の目が、今は絶望に濁っているように見えた。その目で、白彦がぐっと身を皐月に乗り出した。

「……皐月ちゃんは、どっちの僕に生き残ってほしい?」

 まるで刃を喉元に突きつけられたみたいだった。

「……何、言ってるの、どっちかなんて、選べるわけないでしょ……」

「嘘つき」

 そう一言、皐月を静かに刺して、白彦は皐月から離れた。じわじわと痛みが押し寄せ、皐月は痛みを堪えるようにその場に膝をついた。

 狐の姿だろうと白彦を、人の白彦とは違うと一瞬でも思ったその事実が、彼には伝わっていた。

 皐月が本当に助けたいのは、他ならぬ、共に過ごしてきた人の姿をした白彦だ。でもだからといってお狐さんの白彦がそうでないわけじゃない。どちらの白彦も同じ一人だ。「きよくんはきよくんだ」と、「どんな姿をしていてもきよくんだ」と、自らが言った言葉を、皐月自身が裏切っていた。どうして二人を分けて考えられるだろう。

「嘘じゃない」

 振り返って、三本の尾を揺らす白彦の背中に声を投げた。

「嘘じゃない、私にはきよくんも白彦もない。好きになったのは、人の姿をしながら人にはない力をもつ異形の狐。ごめんなさい、大事なことを私、見失いかけた……」

 白彦に近づいて、その毛に覆われた腕に触れた。白彦がゆっくり振り返った。

「違うよ。僕は化け狐の白彦。そしてあいつは、皐月ちゃん、君が名づけた人間のきよくん。違う存在だ」

「ううん、同じ。二人で一人だから。どちらも私が好きになった、狐で人で、不思議な力をもつ存在なの」

 白彦の金の瞳が、揺れたような気がした。

「ありがとう、皐月ちゃん。でももう遅い。僕とあいつは分かれてしまった」

「でも」

「僕は、自分の不始末は自分でカタをつけたい。あいつが僕だというなら、僕らの掟を破り理を乱した、そのツケは、払わなくてはならない」

 白彦が長い爪のある大きな手で、私の手を恭しげに自分の腕から離した。

「あいつも、そうだ。……あいつは僕だから、僕が君とともに生きる約束を反故にして、魂魄を喰らおうとした時点で、僕を許しはしない」

 目の前の白彦は分かっているのだ。人の姿の自分を攻撃すればするほどに、自身も相手と同じ深さ、同じ痛み、同じ哀しみで傷ついていくのだと。

 それでもやめられない。

「皐月ちゃん。もう、君にできるのは、僕かあいつかを選ぶことだけだよ」

 そのまま白彦は片足をひきずりながら、かろうじて体を支えて立つ人の白彦に向かって歩いていった。ふっさりと三股に分かれた尾が、血に濡れながら揺れている。

 これ以上皐月にできることは、もうなかった。

「どうして……!!」

 地面を蹴って高く飛んだ狐姿の白彦が、人の白彦に飛びかかっていく。

「悟おじさん! やめさせて! お願い!」

 人の白彦が狐の白彦の攻撃を交わし、狐の白彦は力任せに執拗に人の白彦を責め立てていく。人の白彦が傷つけば、同じ深さ、同じ長さ、同じ程度で狐の白彦も傷ついていく。

「悟おじさん! 血がつながっていないから、こんなに突き放せるの!? どんな理由があっても、自分の息子も同然なのに……!!」

 見ていられず、顔を背けた時、さきほどまで遠くにいたはずの銀鼠の着物を着た異形の狐が目の前に立った。その金色の瞳は、憎しみと怒りで燃えていた。

「……悟おじさん」

「言いたい放題言ってくれるわ!」

 悟伯父だった天白という異形の狐は、吐き捨てた。

「息子も同然の我が白彦を、この手で引き裂かせ、死に追いやらねばならぬ! 否! そうさせたは、他ならぬ小娘! お前だ!」

 牙をむき出しにして、天白は激しい怒りを露わにした。その凄まじさに怯みそうになるのを堪えた。

「私はただ、きよくんが大事なだけ……! それが、そんなにいけない? 人も狐も関係ないでしょう? きよくんは、きよくんなんです、それ以外の何者でもない!」

「笑止! そうやって貴様ども人間はすぐ自分に都合のいい解釈をする。人は人、我らは我らの理の中でしか生きられない。そこに他のどんな事実も微塵も挟めぬ。よいか、娘。貴様が白彦に名前を与えたときから、あれは一歩ずつ死に向かって歩んでいた。自らだ! 我らの本性は動物。生存本能が人よりも強い生き物が自ら死に向かうなど、自然の摂理への冒涜そのものよ! その苦痛もその恐怖も、白彦は覚悟していた。それに耐えられぬあれの一部が救いを求めた結果がこのざまだ!」

「天白、皐月ちゃんに、は、手を、手を出すな!」

 遠くから、白彦の叫ぶ声が聞こえた。その声を背中で聞きながら、天白は一度瞠目して、それから唇の片端をあげた。

「自分の命の瀬戸際にあってさえ、あれは、貴様しか目に入っておらぬ。己の本性と、己が属する世界の理を放棄してまでだ、なぜか分かるか!?」

 天白に睨まれ、皐月はその目に射すくめられたウサギのように震えた。

「ただの人間風情が分をわきまえず、さかしらに我ら妖狐の、白彦の手をとるからだ!」

「わたし、が」

「貴様が人間のエゴと無知を自覚しておれば、白彦がここまで暴走することはなかったのだ!」

 震えが止まらない。それが恐怖からなのか、それとも自分の犯した罪の重さからなのか。

 何も言い返せない皐月の顎を獣の手で鷲掴んで、天白は皐月の顔に自分の顔を近づけた。

「人の娘よ、世界は人の世だけでは成り立たぬ。それは厳然とした事実で、そこでは必定、理が絶対として、すべての均衡を保つ。貴様ども人間は、それを見ようともしない。そのことが、どれだけ我らを、人外のものたちを知らず愚弄し、痛めつけてきたか、これで分かろう!」

 ぐいっと向きを強引にかえられた。その視界に、二人の白彦が映し出される。

 土煙が少しずつおさまりかけていく中で、人の白彦が、拝殿の前の階段に寄りかかるようにして倒れ、狐の白彦が、鳥居に寄りかかって立っていた。そしてかすかに私に血に濡れた毛並みの手を伸ばして、そのまま力なくずるずると鳥居の柱の根元に座りこんだ。

「きよくん!」悲鳴が喉の奥からせり上がってきた。

 死闘を物語るように周りの木はなぎ倒され、拝殿は元の姿がわからないほどに破壊されている。

「……いや」

 自分のせいでどちらも死にかけ、そして目の前の悟伯父だった天白をも、傷つけたと知って、自分を保つのが限界だった。

「私の、せい。私が、きよくんを」

 自分の存在が、きよくんを、白彦を殺してしまう。

 その時、ふっと思い出した。

 人の魂で、白彦たち異形の狐は、数百年、数千年を生きる。

「……私の、魂を、」

 天白の瞳が細くなった。

「二人を、助けて。私の魂で、きよくんを生かして……」

 人の営みにも同胞へも優しい眼差しを向けていた白彦を失いたくはなかった。何を考える余裕もなく、皐月はただ地面に手をついて、お願いしますと、目の前の天白に頭を下げた。

「……命だ」

 天白が、何の感情も読めない声で言った。顔をあげると、皐月をどこか哀れむように見下ろす天白の目があった。

「私の命……? 魂ではなく?」

「いかにも。魂もふくめた命まるごと」

「それがあれば、二人はまた元に?」

 天白は、目をすがめて厳かに頷いた。

 命を渡すということは、死そのもの、皐月の存在がこの世界から消えるということだ。

 一緒に生きるために、命を賭けるのだと白彦に言い放っておきながら、この結末しか、今の皐月には選択肢がなかった。そして、白彦はいつだって、今の自分のようなギリギリの状態でいた。でもそれをおくびにも見せず、いつも穏やかに皐月のそばで笑みを浮かべて、皐月に深く想いを傾けてくれた。それがどんなに難しいことか、今なら分かる。

 白彦が、どれだけ自分のために命を賭けてきてくれたのか、どんな覚悟で、どんな想いで、皐月を守ってきてくれたのか。

 今、自分ができることのたった一つがそれだけになって、分かった。

 そして、それに報いることができるのは、今、この時を置いて他にはなかった。

 もう、残された時間は、少なかった。

「だめ、だ。言うな、言うんじゃない……!」

 苦しげに喘ぐ人の白彦が、皐月に必死で手をのばした。

 皐月は、ごめんね、と呟いた。

「やめろ、だめ、だ。嘘だ、そんな。命なんて、必要、ない、皐月ちゃん、だめだ……!」

「……私の命と引き換えに、彼をお願いします」

 まっすぐ天白を見て、ゆっくり頭を下げた。

 天白は、しばらく皐月の本心を探るかのようにじっと見つめた。

「誓おうぞ」

 天白が手を振り上げた。

 その瞬間、目も開けていられないほどの真っ白な閃光が辺りを走り抜けて、すべての物の輪郭を消し去った。眩しくて目を瞑っても光は眼裏さえも灼くように強く、そして冷たい。

 心底呆れたようなため息が聞こえた。それは不思議なほど大きく辺りに反響して、今、自分がその音以外の日常の音すべてを失っていることを気づかせた。

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