訣別_4
互いしか見えない時間をこえ、互いの輪郭さえも恐ろしいほど希薄になって、感覚だけが茫洋と広がっているみたいだった。
「……本当はね、人間の男と女がなんであんなに体を繋げたがるのか、理解できなかった。体の器官を繋げるなんてただの生殖行為でしかないし、僕らには、さらに必要ない行為だから」
ぽつりぽつりと、白彦が語り始めた。
「でも人の営みに触れて、皐月ちゃんを好きになって、それまで知らなかった激しい感情や欲望を知った。皐月ちゃんを抱いたらそれは鎮まるのかと思ったけど……全然だね。堰き止めていた何かが決壊したみたいに、自分をとめられなくて、でもそれがこの上なく気持ち良くて、皐月ちゃんがそれに応えてくれるほど、また僕も気持ち良くて……。皐月ちゃんが甘い蜜になったみたいだった。あまさず飲み干したくて、もっと貪りたくて、……自分がこんなに強欲だとは思わなかった」
白彦はそう言って、自分の両手を眺めるように天井に向けた。
「不思議だよ。皐月ちゃんが思うことや感じることが手に取るように分かる。でもなんでだろう、もっと近づきたい、もっと知りたい、もっと感じたいって思うんだ。もどかしいな、なんだか。ひとつになって、僕も皐月ちゃんもないくらいに溶けてしまえたら、いっそ楽なのかもしれない。今でも物足りなくて、このままじゃ、皐月ちゃんを壊してしまいそうで怖いよ……」
白彦のうわずった声には、二度と冷めない熱が滞留していて、それがじわりと伝播する。
「いいよ……」
その言葉に白彦が怪訝な顔で半身を起こして、皐月の顔を見下ろした。
「いいよ。きよくんが満ち足りるまで、何度だって壊していい」
「皐月ちゃん」
「……でも本当の最後の最後、その瞬間には、壊れたままがいい」
「……そ、んなの、」うろたえた白彦が、できるわけない、と呻いた。
「だって、二度と会えないんでしょう? 二度と抱いてくれないんでしょう?」
白彦が言葉を失って、皐月の視線を避けるように目をそらした。
「どうしても最後なの?」
天井を見据えたまま、白彦は皐月を見ない。その視界を遮るように皐月は身を乗り出した。
「私が人だから?」
白彦が皐月を見た。今は穏やかなその金の瞳が、泣きそうに見えた。
「私に、人ではない力があればよかったの? それなら一緒に、きよくんが立ち向かおうとしているものに立ち向かえた?」
「皐月ちゃん」
白彦が、流れ落ちる皐月の髪に触れ、それから頭に手を差し入れた。
「きよくんみたいな力はないけど、一緒にいたい。一緒に立ち向かいたい。最後までそばにいさせて」
ふいに白彦が皐月の頭を強く引き寄せて、噛みつくように乱暴に唇を重ねた。
白彦の不意打ちに一瞬流されそうになり、そして恐怖が背筋を駆け上った。
このままでは何もできないまま、自分は白彦を失ってしまう。
「きよくん! ごまかさないで!」
半分怒りとともに言い放った。
「今日だけは僕のものになると言った!」
抑えきれない苛立ちを滲ませ、白彦が動きを止めた。
「それとこれとは違う……! こんなに幸せだと思えてしまうのに、それが今日だけなんてどうやって分かれっていうの? 明日からきよくんを失うなんて納得できないじゃない! こんなに好きだと思い知らされたら、思い出だけで生きていけるわけない! お願い、ごまかさないで話してよ、そばにいられる方法があるかもしれないじゃない……!」
「ごまかしてなんかない!」
耐えきれないように、白彦が言葉を荒げた。それが呼び水になったのか、白彦は飛び起きて心情を吐き出した。
「僕は皐月ちゃんに思い出さえも残せないかもしれない! さっきの男の元に戻る? 僕以外の男に恋人の顔をする? 皐月ちゃんが僕を忘れて、他の男と家庭を作っていく? そんなの耐えられるわけないじゃないか! 抱けば抱くほどに思い知らされる! 僕は畜生で、心底醜いキツネだ。本性はずるくて卑怯でえげつない。それでも、それでも諦めきれないんだ! この世界に存在していても、僕を知らない皐月ちゃんを見ているくらいなら、それならもう、皐月ちゃんの体と魂の底に、僕のことを無理矢理にでも刻んで僕のものだと知らしめたい。奪われるくらいなら、いっそのこと、僕が……!」
ここまで強い独占欲とむき出しの欲望を白彦が見せるのは初めてだった。
ベッドの端に腰かけ、顔を覆って堪える背中に皐月はそっと手で触れた。白彦がびくりと震えたのが伝わる。
「好き。誰よりも、きよくんが好き。そう言ってくれるきよくんが好き」
白彦が嗚咽を抑え込むように、皐月の手を握りしめた。
「こんな醜態……幻滅したろう?」
「ううん、するわけないよ。どんなきよくんも、私にはたった一人のきよくんだから。会った時よりももっと近づけてる気がして嬉しい」
白彦の胸の中の慟哭が伝染しそうになって無理に笑みを浮かべたら、変な泣き笑いの顔になった。白彦は、皐月の体を強く抱き寄せた。
先ほどの言葉が蘇る。
人間の常識でははかれない、あの異形の狐たちの世界。それを守るための理。
「きよくん……私、きよくんと崖から落ちた時のことも、亡くなったはずのおばあちゃんがいた世界で私を助けてくれたことも、悟おじさんの顔をした狐に襲われたことも、……きよくんにひどい言葉をぶつけたこともいろいろ思い出した。ねえ、思い出さえも残せないってどういうこと?」
「……」
「私……きよくんのこと忘れるの? 理というのがそうするの?」
言いようのない怒りが募っていく。
「ねえ理ってなんなの? ずっとその言葉ばっかり耳に入ってくるのに、全然分からないの」
白彦が低く「そうだね……」と呟いた。そしてそのままひっそりと言葉を続けた。
「僕らにもよくは分かってないんだ……。ただ人の目に見えない世界や存在はいくつもある。それは事実だよ。僕らみたいにたまに顔出しがバレると、狐の嫁入りだとかいわれて認識される場合もあるけど、それは全体の中でごくわずかなことにすぎない。確かなのは、その世界も存在も微妙な均衡の上に成り立っているから、それを崩すようなことを皆本能で無意識に避ける。例えば……自然界で普通、異種交配はしないだろう? 異種同士が関わるとしても、捕食するかされるかの大きな枠組みはあるくらいで……」
「でも共生し合う関係もあるじゃない」
「そうだね。でも残念ながら、僕らとこの世界との関係性は、そうはならない」
哀しそうな物言いに、ハッと顔を上げた。
「どうあっても捕食される側、なのね。人は」
白彦の無言が肯定を表していた。
本来なら、皐月は白彦に喰われてもおかしくないのだろう。人は、命に優劣も軽重もないと、言う。でもそれは、人の世界でしか通用しないままごとだ。白彦たち、異形の狐にとって人の命は喰らう物でしかない。それはきっと、彼らの方が人をたやすくできるほど力があるからだ。そして人である皐月の命は、当然彼らにとって白彦のとは比較にならないほど軽いにちがいない。
「でも、もしそうだとしても、私、このまま何もしないで受け入れるのだけはできない」
白彦は、何かと激しく葛藤しているような険しい表情で皐月を見た。
「最後まで、きよくんと一緒に生きていける道を探したい」
白彦が何かを言いかけて、口をつぐんだ。
皐月の願いがどれだけ難しいことなのか、皐月には見えないことが、白彦には見えているのだろう。でもそれがどんなに不可能で、甘えたことでも、譲れなかった。それが、白彦に対しての皐月なりの命の賭け方だった。
「もう引き返せない。だってそうでしょう?」
心も体も、互いの存在がなくてはならないほどに通いあわせてしまった。二人でともに在ることの幸せを、知ってしまった。
「私の幸せは、きよくんの幸せ。きよくんの幸せが、私の幸せ。一緒に生きていきたいの。それが、私が命を張ってでも守りたい幸せなの」
白彦は大きな塊をのみこむように眉根を寄せて目を閉じると、束の間黙っていた。やがて長く息を吐きだし、天井を仰ぎながら目を開けた。
「……巻き込みたくなかった。これは人ではない僕がなんとかする問題だと思っていたから」
白彦はゆっくり私を見た。
「僕は野狐だ。人の言葉を借りれば妖怪とか化け物とか、そういう類だ」
「野狐?」
「人を不幸にする、人を悩ませることで喜びを得る妖狐だ。それでも人智をこえた力がある。だからたいていのことは、僕には耐えられるだろう。でも人は、本当に脆弱だ。僕らは糧がなくても命をつなぐことはできる。でも人は他者の命を吸って生きるしか術のない生き物だ。人である皐月ちゃんには、真綿でくるまれたようなこの世界しか耐えられない。僕とともに生きるというのは、この世界を飛び出すことでもある。理から外れたところへ向かおうとしてる。つまり明日にでもどちらかが死ぬかもしれない、ということだよ。僕が全力で守っても、僕の力が及ばないことも、どんなことになるかも、僕にはすべてを予測はできない」
「じゃあ私たちは会わなければよかったの?」
「そんなわけないじゃないか」
「離れられない、私にはきよくんが必要。きよくんも私が必要。違う?」
「違わないよ。でも世界の均衡に挑むようなこの状況に、僕は……責任が持てない」
「だから逃げるの?」
「違う!」
「明日にでも死ぬかもしれないなんて、きよくんに出会っても出会ってなくても同じ。そんな不確定の未来に怯えて、今ある奇跡を自ら手放すなんて、納得いかない。きよくんと生きたい。ただそのことを大事にしたいから、必要なことを積み重ねていくの。だってそれしかできないじゃない、人の私には。きよくんだけに守ってもらおうなんて、責を負ってもらうなんて思わない。私だって、きよくんが背負うものを一緒に背負わせて。私にもきっとできることがあるはずだから。きよくん一人だけが抱えないで」
黙って皐月の話を聞いていた白彦は、胸のつかえを吐き出すように息をついた。
「本当に、強いね……。こういう時思い知らされる。皐月ちゃんのその強さが、魂が放つ輝きが、昔から僕には憧れだった。いつどこにいても惹かれて、目を奪われる」
「きよくんがそばにいてくれるからだよ。だから私は強くなれる」
白彦は軽く目を見張った。そして、ゆっくりと皐月に問いかけた。
「本当に、こんな僕と、生きてくれる?」
「一緒にいてくれるんでしょう?」
「言うまでもない」
「私を食べてしまう?」
「それは絶対ない。こんなこと言わなくても」
「同じ」
「え?」
「言わなくても、分かってるでしょう? きよくんと生きたいと、今さっき言ったばかりよ?」
皐月が小さく笑うと、白彦は嬉しいような哀しいような複雑な顔で呟いた。
「そう、そうだね、ごめん……きっと辛い思いさせる。分かってるのに、分かってても僕はすごく嬉しい……」
自分の浅ましさを隠すように手で顔を覆った白彦に、皐月はその不安を包みこむような穏やかな眼差しを向けた。
「他の誰でもないきよくんだから、私はそう言えるの。それに化け狐は魂を食べる、んだよね? でもきよくんは、私を食べないじゃない。それだけでもう、きよくんは特別だよ」
「……まったく魂を喰らってこなかったわけじゃないよ。僕らにとってほかの生き物よりも人の魂は一つでも数百年、数千年を生きるために最適だから……。でも僕は皐月ちゃんに出会って、同胞と違って人と深く触れあう時間を長く持った。おばあちゃんやおじさんたち、周りの人間たちの間で、人の営みがどんなに儚く、なのにどんなにたくましくて豊かなものなのか、知ってしまった。いまさら……」
「……後悔してる?」
白彦は、しばらく皐月の目を見つめ、緩く頭を振った。
「全くしてないと言えば嘘になるかもしれない。でも皐月ちゃんに会って、僕は変わってしまった。以前の日々に戻りたいとは思わないんだ」
白彦は自分の額を皐月の肩口に軽くのせた。
「そんな僕を、同胞は見て見ぬふりをしてきてくれた。僕は分かってて、それに甘えた。戯れならば許されるし、なにより、僕はまだ彼らの敵じゃなかった。でも……僕が皐月ちゃんに本気になればなるほど、同胞の皐月ちゃんを見る目が変わった。中には……。許せなかった。だから僕は彼らのそれまでの厚意に唾を吐いたんだ。僕は同胞を裏切り、それゆえに彼らの汚点になった。理を乱すだけでなく、敵対者がいるなんてことは、あってはならない。保っていた世界がたやすく崩れ、自滅への道を歩むことになりかねない原因だからね。同胞の汚点は、同胞たち自らが落とし前をつける。それが僕らの流儀だ。遅かれ早かれ同胞が、僕になんらかの制裁をくだす」
白彦を追いつめ、古巣を敵に回す選択をさせたことを、改めて思い知る。表情を曇らせた皐月に気づいて、白彦は安心させるように腰を強く抱きしめた。
「そんな顔しないで。今言ったばかりだろう? 昔に戻りたいとは思わない。僕自身で選んで、望んだことだから」
そう言われて、皐月は何かを堪えるように微笑んだ。白彦も穏やかに微笑み返した。
「僕らの世界、人の世界、または第三の世界。それは皆、たまに干渉し合いながらも危うい均衡の上で成り立っている。それを保つのが、理だ。化け狐には化け狐の、人には人の、ね。それを曲げることは、自分の存在そのものを危うくする。その覚悟の上で、僕は選んだ。皐月ちゃんと同じように、後悔したくなかったから」
白彦の言葉ひとつひとつを聞き逃さないように、じっと耳を傾けた。例え果ての見えない航海にたった二人で漕ぎ出そうとしていても、繋いだ手だけは、決して諦めたくなかった。
「……もしかしたら、一つだけ……望みをかけることができるかもしれない」
ハッとしたように顔をあげた白彦は、明るい表情で皐月を見た。
「山の神に会うことだ」
「山の、神様……?」
神棚に祀られている神のことを思い出した。
「正直、会えるか分からないし、会えても僕の願いなど、神たる彼女には無意味だ。彼女は、僕らとはまた違う存在だから」
自分の理解の範疇を超えている話に目を瞬きさせた。
「人の皐月ちゃんには信じられないかもしれないけれど、人が信じる神の中には、僕らよりも高次元に実在する存在もいるんだ」
白彦は、希望を見つけたかのように息を弾ませている。でも皐月には、一抹の不安がよぎった。不安というより、漠然とした恐怖に近い。
ふとした日常の折々に、祈りを捧げたり願いをかけたりしてきた相手が実在しているという感覚は、普通現実にはない。奇跡や自然の力の片鱗にその存在を思うことはあっても、事実として存在するという話とは違うのだ。でも白彦のように人ではない存在を知ってしまった今は、皐月にもその存在の信憑性を疑う余地はなかった。だからこそ、その神という存在が怖かった。
何より、本家が祀る山の神は人にお狐さんを生贄に捧げさせてきた神だ。
「皐月ちゃん、僕は陽が昇ると同時に山に帰る。山の神がおわすところは、あのお社だから」
「だめ」
「……どうして?」
「山の神は、お狐さんを供物として受けとる存在なの。それこそ、きよくんの言っていた捕食する側なんじゃないの? そんな相手のところになんて」
「皐月ちゃん」
「だめ、行かせられない。そんなのリスクが高すぎる。行くなら私も一緒に行く。一人でなんてだめ」
「皐月ちゃん」言い募る皐月を落ち着かせるように、白彦が力を込めながらゆっくり皐月の名前を呼んだ。すがるように見た皐月を、白彦は凪のように静謐な瞳で見返した。
「分かってるよ」
「……分かって、る?」
「彼女が、僕らを供物にしていることくらい。そうなりかけた当事者だよ、僕は」
「なら」
「それでも、僕らより高次元にいる彼女ならきっと僕らが見えないものを見ている。だからこそ僕ら二人が一緒に生きる道を見いだせるかもしれない」
それでもためらって、皐月は俯いた。
「……不安なのは分かる。僕だって、そうだ」
白彦を見た。穏やかな笑みを湛えて、白彦は皐月の両頬を両手で包んだ。
「皐月ちゃん。共に歩くと、離れないと、決めたんだ。世界を異にする僕と皐月ちゃんで、理に逆らってでも、そうすると決めたんだよ。どんなことが起きるか分からないと、言った。それでも、と君は望んだ」
小さく頷いた。胸の奥できしむような不安を、目を一瞬閉じて、飲み込んだ。
「大丈夫。僕は、必ず帰る。君を、一人にはしない。自分の命をむざむざ捨てるようなこともしない。僕は、君とともに生きる。そのために帰るんだ」
覚悟を決めた白彦の言葉は力強い。その覚悟は、皐月にもある。
だからできることは、たった一つ。たった一つだ。
「信じる」
「うん」
間近で金色の瞳が澄んだ光を灯して輝いている。白彦は額を皐月の額に重ねた。
「大丈夫、これでも力はある方なんだ。ほら、この前だって皐月ちゃんを連れて、お社から逃げられただろう?」
皐月の不安や心配が伝わってしまったのか、それを払拭するように、白彦は楽しげに言った。
「それに、……皐月ちゃん、皐月ちゃんもやらなくてはいけない大事なことがあるよね?」
「……初七日のこと?」
「そう。三途の川を渡ったら、おばあちゃんは本当に死者になる。初七日までは、まだこちらに半身を置いているけれど。伝えたいことがあるなら、今のうちだ。……あるよね?」
どきりとして白彦を見た。白彦は深く優しく皐月を見つめた。
この人の前で何かを隠すことなんてできるのだろうか。ふとそんなことを思いながら「……間に合うかな」と呟いた。
「間に合う」間髪入れずに言い切った白彦は「僕もおばあちゃんに伝えたいことがあるから」と続けた。
「私も、ちゃんと伝える」と頷くと、白彦は皐月の頭に指先を差し入れて、優しく髪を梳いた。
「伝えたいことがあるなら、それを思ったその時を大事にするんだ。人ではない僕と生きるってことは、皐月ちゃんに人である部分を捨ててもらうかもしれない。皐月ちゃんの大事な何かを奪うかもしれない。何が起きるか分からない。だから皐月ちゃん、大切な相手との一瞬一瞬を後悔しないようにして。僕が約束できるのは、皐月ちゃん、君の手を離さないということだけだから」
依舞が、母が、護伯父や風子伯母たちの顔が、一瞬脳裏に浮かんで消えた。
そして、祖母。
いろんな人たちに生かされてきたこの命を賭けても、今までの繋がりを絶っても、それでもやっぱり白彦と共に歩みたい。
「皐月ちゃん?」
「ちゃんと伝える。きよくんのその約束だけで十分よ。一番大事なものはもうここにあるから」
白彦がかすかに息を吐いたのがホッとしたように見えて、皐月は思わずその首に腕を回した。
「ありがとう」
耳元に響いた低く優しい囁きが、波紋を広げるように胸の奥深くに広がっていく。皐月は小さく頷いて、白彦の胸の鼓動に、自分の鼓動を重ねるようにゆっくり目を閉じた。




