訣別_3
マンションの部屋へ帰る道すがら、白彦はただ愛しげに皐月を見つめ、ときおり思い出したように皐月の顔や肩や背中や手に触れた。皐月は黙っていると最後という言葉に囚われて泣き出しそうだったから、東京はどうだとか、本家の様子はどうだとか、どうでもいい話題ばかりをもちだした。でも白彦は、そんな皐月の話を一字一句聞き漏らさないように耳を傾け、笑ったり頷いたり答えてくれたりした。
「やっぱり、皐月ちゃんの匂いでいっぱいだ」
ようやく着いたマンションのリビングで、ソファに腰を下ろして、白彦は鼻で周りをかぐような仕草をした。思わず「えっやだっ」と皐月が赤くなると、白彦は「変な意味じゃないよ」と楽しげに笑った。
「本家みたいな古い木造の家って、先祖から続いてきたいろんな人の匂いが染み付いてるんだけど、そこにさらに畳のい草や、建築材の木とかの自然の素材の匂いが強く残ってるんだ。すごく複雑な匂いの層がたくさん重なってる感じだよ。でもここは、もっとシンプルな気がする」
興味深そうに部屋を見回す白彦に苦笑しながら、湯気の立つ日本茶をふたつローテーブルに置いた。
「きよくんのそれって、やっぱり動物の嗅覚?」
「そうかもしれない」
「汗くさいとか、嫌な匂いじゃなければいいんだけど……」そう言って向かいのソファに座ろうとして、白彦が笑みを浮かべて、皐月の腕をとった。そのまま自分の隣に皐月を座らせ、首筋の匂いを嗅ぐ仕草をした。「ちょ、やだ、きよくん!」恥ずかしさに思わず体をのけぞらせると、不満そうに白彦が少しだけ離れた。
まるで、これまでの白彦がニセモノだったんじゃないかと思えるほどに甘い。
「……ずっと触れちゃいけないと思ってた」
「どうして?」
「皐月ちゃんは、僕にとってなんていうか、命の恩人だし、神のように畏れ敬いこそすれ、僕の欲望で汚したらいけない、というか……」
「なにそれ。私そんな偉いもんじゃないのに」
「うん、でも僕が化けものだと知っても気味悪がらずに接してくれた皐月ちゃんに、僕はすごく救われたんだ」
皐月は照れくさくなって、小さく笑った。
「おおげさだよ。私、なんの力もないただの人だよ?」
「ううん、皐月ちゃんが気づいてないだけだ。こんなに、僕を……」かすれた声でそう言うと、白彦は私を自分の腕の中に閉じ込めるように皐月を抱きしめた。
「皐月ちゃん、ごめん。僕はとても醜い。さっきの彼よりも、僕の方が汚くてあざとくて……最低だ」
「そんなことない。きよくんは、私が知る男の人の中で、一番まっすぐで優しくて純粋だよ」
白彦が頭を振って、皐月の首筋に甘えるように顔を埋めた。
「白状するとね、皐月ちゃんの彼氏、もっと叩きのめしたいくらいだった。爆発しそうになる自分を抑えるのに必死だった」
逃さないとでもいうように、白彦は皐月の背中に渡した腕に力をこめ、首筋に鼻を押しつけた。
「もうずっと……皐月ちゃんから甘い匂いがしてる。……くらくらするんだ……」
皐月にとっても毒のように甘い囁きが、体に火を灯した。
白彦が皐月を見下ろした。
皐月の魂まで縛る、金に輝く瞳に変化している。魅了されて、視線を外すことなんてできない。
なんて美しいんだろう。白彦は神がかっているような荘厳ささえ持ち合わせていて、その主が皐月だけを見ていることに、恍惚とした。
生と死の匂いが充満して、喰うか喰われるか、危うい琴線で互いを支えながら、燐のような閃光が眼裏をよぎる。
優しさも、労りも、慈しみも、何もいらなかった。
遠くで笛の音が聞こえた。
白彦の向こうに、漆黒の闇が渦巻くのが見え、その不吉さを握りつぶそうとかろうじて手を伸ばす。
ゆらりと銀色の、三股に裂けた尾が見えた気がした。




