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狐の声がきこえる  作者: ゴトウユカコ
第11章
30/41

訣別_2

 十二時五分前。

 気が急いているせいか待ち合わせ場所に早く着きすぎて、これで何度目か、新橋の駅前広場でスマホの時刻を確認した。待つことがこんなにも辛く長く感じたのは初めてだった。

 外回り先から直行する営業部の陽平に、約束の時間を十二時に早めてもらったのが今朝。急な変更には敏感な陽平が嫌な顔ひとつしなかったのは、何か予感しているのかもしれない。

 大きく深呼吸して、高架上を走り抜ける電車を見つめた。正確な時間を刻んで人を運び続ける光景は、そのまま都会の人の営みと重なった。北関東の山あいに流れる時間と違って、そのスピードはとても速い。その流れをのりこなせば、ここでの暮らしはとても快適だ。でも皐月の中の流れは、祖母の葬儀で白彦と会ってから変わってしまった。いやもっと前から、皐月がうまれもつ幸せへの流れは、ここの時間とは違っていたのかもしれない。

 どこに向かえば、幸せになれるのか。

 その感覚が教える先は、今なら分かる。胸の奥でたえず扉を叩くような声をすくいとってあげれば、それはとても簡単なことだ。

 もっと木々や風の声を聴き、川や雨の匂いをかぎ、太陽の日差しに触れ、暗闇の蠢きに耳を澄ませ、人が重ねてきた祈りと、人には見えない者たちが呼吸するそばで歳月を重ねていきたい。

 その想いへと導いてくれたのは、他ならぬ白彦だった。

「皐月」

 背後から快活な声がかかり、振り返った。短髪の清潔感をいかすようにストライプ系の少し軟派で今流行りの型をしたスーツを着こなし、営業部でもエリートコースにのりつつある神宮寺陽平がそこにいた。昨日の電話での口論の影など微塵も見せない笑顔がまぶしいほどだった。

 基本的に人を楽しませることが好きで、社内でも爽やか度ナンバー1と評判のその笑顔を向けられるだけで胸の奥がくすぐったい時期も、確かにあった。この人の隣に並んで歩くと、新しいことを知る機会も多くて、楽しかった。

「身内の葬儀って大変だったろ。疲れてんの気づかなくて、昨日はオレも強引だった。ごめん。今日夜にまた合流してさ、慰労も兼ねてレストラン。予約しといたから、どう?」

 営業部らしい気配りの細やかさにほだされて、つい大事なことを後回しにしてきてしまった。

 そのつけは、いつかきちんと払わなくてはならない。

「あ、でも無理ならキャンセルするし。こうして時間早めたくらいだもんな。何かあった? あ、その前にどうする? とりあえずどっかで昼飯食いたいよな」

 皐月の返事も待たず、早口でまくしたてる陽平の表情に、どこか不安が垣間見えた。

 息を軽く吸った。

「陽平。あまり時間、とれないの」

「とれないって、……話、あるんだろ?」

 戸惑った顔で、陽平が少し声のトーンを落とした。浮気癖があっても、それでも一年半ともに過ごしてきた。何かと理由をつけてきっぱり別れられなかったのは、それだけ皐月も陽平を好きだったということだ。その想いを、別れという形ではあってもきちんと伝えたかった。これ以上、その想いを歪ませたくはない。

 陽平の目をしっかり見つめた。

「陽平とプライベードで会うの、もうこれきりにしたい」

「……なんで」

「他に、好きな人が、できたの」

 ゆっくりと一語一語区切るように言葉を伝えると、陽平は拗ねた顔でおしだまった。その沈黙の間、皐月は陽平から目をそらさず待った。むしろ目をそらしたのは、陽平だった。

「……オレが、浮気っぽいからか?」

 視線を地面に落としたまま、陽平が不味いものを押し出すように言った。

「それは大きな理由じゃない」

「……そいつ、社内?」

「ううん、全然関係ない人」

 再び黙ってしまった陽平と皐月の様子に、張りつめた空気を感じて、通り過ぎる何人か視線を寄越した。その空気をものみこんで、皐月は言葉を継いだ。

「陽平といるといろんな世界を見られて本当に楽しかった。でも私は、もう終わりにしたい」

「……もうつきあってんの?」

「ううん、……まだ」

 手を繋いで恋人のように、この世界を歩けるかは分からない。胸の奥にわだかまる不安を抑えていると、目を合わせようとしなかった陽平がようやく顔をあげた。その顔には、切羽詰まったような表情が張りついていた。

「なら、まだ別れる必要ないだろ」

「……え?」

「オレ、皐月に辛い思いさせてきた。その、……なんつうか、……悪いとは思ってる。だから、だからこそ、罪滅ぼしさせてほしい」

「え? ちょ、ちょっと待って。私は別に罪滅ぼしなんて望んでないよ」

「いや遠慮しないで、オレ使えよ。な、それがいい。今まで通りでさ、そいつと正式につきあうことになったらオレ身ぃ引くから。皐月にとって、悪くないと思うんだ」

 陽平の言葉が理解できず、唖然として、慌てて押し切られる前に口をはさんだ。

「良い悪いとかじゃなくて、ケジメをつけたいの」

「そんなかたく考えんなって。このまま別れんの、なんかオレ、無理だわ」

 陽平の強引さに何度か頭を痛めてきたことを忘れていた。皐月のためと口では言いながら、自分の都合のいいように解釈してしまう。

「そんな、無理ってそれは陽平の勝手でしょう?」

「こんなとこで言い合いとかしたくない、これでこの話は終わりにしよう。飯行こうぜ」

 聞く耳をもたず、さっさと皐月の腕をとった陽平のその手を抑える。その手がかすかに震えていることに気づいた。目の前の現実を受け止めきれない怯えが垣間見えて、皐月はその場にしっかり踏み止まった。

「陽平、聞いて。ちゃんとしたい。陽平には、本当に申し訳ないと思う。でももう陽平のことを考える隙間ないの、自分の気持ちを大事にしたいの」

 強く言い聞かせるように言い、まっすぐ陽平の目を見据えた。ここでひいたら、前に進めない。

 いつになく強情な皐月を、なかば睨むように見つめてから、やがて陽平が全身から力を抜くようにして皐月の腕を離した。

「勝手だろ……こんな、急にさ……」

「うん、勝手だね。でも、もう一緒には歩いていけない」

 いつだって男女の別れなんて、どちらかの勝手がきっかけだ。

「……本気なんだな」

 神妙な顔で、陽平が寂しげにつぶやいた。

 はっきり頷くと、陽平は何かをかなぐり捨てたような真剣な顔で皐月の正面に向き合った。

「でもオレも、本気なんだよ」

「え?」

「皐月にはいろいろ悪いことしてきた。文句もあんま言わないで、オレのそばにいてくれた。それ、すっげぇありがたくてさ。オレといたいって子、けっこういるけど、皐月はそういうところじゃなくて、オレの素の部分に寄り添ってきてくれてた。それがどんだけオレにはもったいないことか、分かってるつもりだ。いっつもいい加減で、言ったことなかったけど、言い訳とか変な理屈とか、この際やめる。皐月、オレは皐月にマジだし、だから別れたくないし、別れない」

 陽平の顔は今まで見たことがないほどに切羽詰まっていて、言葉を失った。

「オレ、皐月が好きだ。この際だから言っちゃうけど、実はオレさ、海外に栄転の話が出そうなんだよ。正式な辞令がきたら、皐月に海外についてきてほしいと言おうと思ってた。それもあって近々両親に紹介したいと思ってたし、今でも思ってる」

「……そんな、そんな……今さら」

 陽平の思いがけない告白に混乱するよりも呆然とした。

「考え直してほしい。もう皐月に嫌な思いはさせないと約束する。大事にする。今は別のヤツに気持ちがいってても、もう一度振り向かせる、だから」

 皐月の両腕をつかみ、陽平が一歩、近づいた。

「皐月、頼む。もう一度チャンスくれ」

 公衆の目があるところでみっともない姿をさらすのも構わない陽平の姿には必死さがあった。その姿に胸を打たれ、しばらく黙って陽平を見つめた。陽平は皐月から目を逸らさない。一瞬でも逸らしたら、皐月を逃してしまうとでもいうように鬼気迫る雰囲気に、いつものふざけた様子は微塵もない。

 でもだからこそ、皐月は陽平には応えられなかった。陽平の想いに答えるには、もう遅い。

 今、この時にも白彦は、どうなっているのか皐月には分からない。そのことが絶えず心配で、こんな場でも心にかかるのは白彦のことばかりだ。一刻も早く白彦のそばにいきたいと思ってしまう気持ちを止めることができない。

 そういう自分といたら、皐月自身だけでなく陽平も、ともに傷つくのは見えていた。

「……ごめん、こたえられない」

 ゆるく頭を振って、陽平を見つめた。

 もう何もかも遅いのだと分かってほしかった。祖母を喪った時、時間は巻き戻せないとさんざん思い知らされた。もっと前に陽平の気持ちを知っていたら、違っていたかもしれない。でも自分は、白彦と再会してしまった。

 人ではない、美しく優しい異形の獣に。

「……皐月……こんなにオレが頼んでもか……?」

 皐月の両腕をつかむ陽平の手に力が入っている。すがるような目に、胸の奥が痛んだ。

 もう一度「ごめんなさい」と口にしかけた時、後ろから突然声が響いた。

「その男はダメだよ、皐月ちゃん」

 諭すように静かで、それでも皐月の心にまっすぐ届くその声。まさか田舎の本家から離れた東京も都心の新橋で聞けると夢にも思わず、大きく振り向いた。

 スーツ姿の雑踏の中で、白彦が悠然と微笑んで立っている。まるでそこだけ明るく光っているかのように見え、なにもかも吹き飛んだ。皐月は陽平の腕を振り切って「きよくん!」と駆け寄っていた。

「どうしてここに? 大丈夫だったの? 体は? 平気?」

「大丈夫だよ」

「本当に?」

「うん、戻る、って約束したよね?」

 さも当然のように柔らかく笑いかける白彦に、皐月は張りつめていた気持ちを緩めたあまり、涙を落とした。

「心配かけたね、ごめん」

 白彦が少しためらってから、皐月の涙をそっと指の腹でぬぐいとった。

「ううん、無事で、本当によかった」

 優しい手つきに、胸が一気に白彦への想いでいっぱいになる。好きだというありったけの想いをこめた笑みで帰ってきてくれた白彦を迎えた。白彦もまた皐月を見つめる眼差しに、言葉にしなくてもはっきりと分かる想いを宿していた。

 もう、これ以上は、互いに隠せない。

「皐月、そいつ? つうか、初対面でいきなりオレがダメってどういうことか、説明してれません?」

 皐月と白彦の間の糸を断ち切るように、不機嫌な声の陽平が白彦の前に立ちはだかった。

 陽平の背丈も百八十センチ近くはある。でも白彦はさらに高く、しかも本家で見るよりもはるかに垢抜けた存在感を放っていた。行き交う女性の中には足を止める人もいて、改めて人離れした美貌の持ち主だということに気づく。

 一瞬状況も忘れて惚ける皐月に、陽平が小さく舌打ちした。

「皐月、ますます認めらんないわ。初対面の相手にレッテル貼るヤツなんてろくでもねえよ」

 乱暴に言い捨てた陽平に、白彦が目を眇めて鷹揚に見据えた。まるで相手を相手とも思わないような冷徹な視線に、息を飲む。体の芯まで突き刺されるような、それは明らかに怒りだった。空気中に電気が走っているようにひりひりして、陽平だけでなく、皐月も凍りついた。

「説明、ね……。自分が一番よく分かっているはずだけど」

 白彦は微笑みすら浮かべて、静かに言うと、一歩前に出た。陽平を見下ろすその目は陽平を見ているようで、もっと別の何かを見ているようだった。

 一歩後ずさった陽平をかわすようにして、白彦は皐月に目を向け、いつもの笑みとともに手を差し伸べた。

 怖さよりも、先に体の方が気持ちに素直だった。寄り添うために陽平の脇をすり抜けて、白彦の手をとった。白彦はとても嬉しそうに微笑んで、それから真顔で陽平を見た。手を繋いだ白彦の手にかすかに力がこもった。

「僕にとって皐月ちゃんは命よりも大切なんだ。お前のような人間の犠牲になって、これ以上穢してほしくないんだよ」

 辛辣な物言いに、陽平の顔が怒りで真っ赤になった。

「けがすとか、な、んだよそれ! ふっざけんな! あんたと皐月がどんだけつきあい長いかは知らないけど、オレは入社式ん時から皐月を見てきたんだ!」

 言い放った言葉に驚いて、目を見開いた。そんなことは一言も聞いた覚えはなかった。

「陽平? どういうこと? 入社式って、」

 陽平がハッとしたように皐月を見た。

「……オレ、入社式ん時に鼻血出して、そん時皐月に助けてもらったんだ。本当はずっと気になってた。だからつき合えた時、マジで嬉しかったんだ」

 入社式は、つき合うよりも数年も前のことだ。記憶にさえあまり残っていない。思い出そうとした時、ふいに白彦が皐月の手を強く握った。白彦を見上げると、少し拗ねたような視線をちらりと皐月によこした。それはどこか野性的な色気を匂わせていて、思わず胸の奥が大きく跳ねた。

 白彦が嫉妬している。それが意味することに状況を忘れて、体が熱くなった。

「人は本当に不思議な生き物だ。それほどに想っていたならばなぜ、皐月ちゃんを大事にしなかった? 皐月ちゃんを想うならば、彼女の幸せこそが、彼女の笑顔こそが、一番大事だろう? なぜそれをないがしろにした? 僕は皐月ちゃんのそれが守れるなら、そのために命を捧げても構わない。僕が言っていることは間違っているか?」

 白彦にまっすぐ射抜かれるようにして、陽平が言葉につまった。悔しそうに俯く陽平に、白彦は畳み掛けるように、わずかに身を乗り出した。

「お前は、しょせん皐月ちゃんより誰より自分がかわいい。それ以上でも以下でもない。自分の命を賭けられるほどには、皐月ちゃんが大切ではないんだよ」

「……あんたの、その命を捧げるなんて、口だけだろ。本気で命賭けられるなんて、そう言うヤツに限って一番に逃げ出すんだ」

「それはお前がそうだから、そう思うんだろう? 僕を見くびるな。お前の価値観で測ってもらうほど、安くはない。僕は誰がどう言おうと、皐月ちゃんを守るためにいる。皐月ちゃんが幸せでいられるように、そのために皐月ちゃんも皐月ちゃんの大事なものもひっくるめて守る。お前が何を言おうと、それが僕の真実だ」

 堂々と言い切る姿に、陽平は唇を噛みしめて相手を睨んでいた。白彦はそれを平然と受け止め、かすかにため息をついた。

「人のおぞましさは、時に僕には毒だから口にもしたくないが、でもこの際あえて言わせてもらおう。ブランドのバッグをあげた相手はどうした? ヒールをあげた相手は?」

 陽平が瞬時に青ざめた。白彦はただ淡々と感情ののらない声で、続けた。

「なにより、ちゃんと生きているのか?」

 言葉の意味することにゾッとして陽平を見た。

 陽平はまるで死人のように真っ白な顔で絶句している。

「陽平……?」

 思わず名を呼ぶと、陽平はびくりと震えて怯えたように皐月を見て、泣きそうに顔を歪ませた。

「ちが、う……」

 喉がつまったように喘いで、陽平は白彦と皐月から一歩後ずさった。

「だって、そんな、あれは……そんな、オレは別に何も……」

「陽平、顔色悪いよ……?」

 土気色にまで顔色を変えた陽平にさすがに心配になって近づこうとして、陽平が一歩引いた。

「オレは、オレは悪くない……だって、あれは、不可抗力で……」

「本当に薄情だね。墓参りぐらいなら罰も当たらないだろうに」

 深いため息をついて、白彦は不穏な言葉と裏腹にそれまでの表情をひっこめて、穏やかに微笑んだ。笑っているはずなのに氷の刃のように冷え冷えとして、白彦が陽平を精神的に叩きのめすつもりだと分かった。

 思わず繋ぐ手に力を入れた。白彦が気づいて皐月を見た。もういいと頭を振ると、白彦は自分を抑えるように静かに「仕方ない……」とため息をついた。

 その時、陽平が怯えた表情のまま呟くのがきこえた。

「……化け物」

 ハッと顔をあげて陽平を、それから白彦を見た。白彦はかすかに表情を歪めている。

「僕が化け物なら、お前はなんだろうね。女の心も身体も喰らう怪物かな?」

 陽平が唇をわななかせた。

「同期だろうと、二度と、皐月ちゃんにつきまとうのは許さない。いいね?」

 白彦の言葉のプレッシャーに、陽平は「化け物め」と言い捨てると、その場から弾かれたように走り出し、人ごみの中へすぐにまぎれて消えた。逃げるように去った陽平が心配で、思わず白彦と陽平が去った方角を交互に見た。

「きよくん、さっきのどういう意味? 陽平に何を……」

「うん、彼がずっと隠してきたことをちょっとね、暴いてみせただけ」

 皐月を安心させるように微笑むその目は澄んでいて、先ほどの棘は感じられない。

「大丈夫、彼の場合、あのくらいのお灸はすえておかないとね。しばらくはおとなしくしてるんじゃないかな」

 例え陽平の過去に何があったとしたも、そう簡単には割り切れなかった。

「……今からでも遅くないよ。彼のことを追いかける? いいよ、僕のことは放っておいても。皐月ちゃんは優しいから」

 淋しそうに白彦が促した。

「……そんな言い方」

 困って顔をあげると、白彦が拗ねた表情で皐月を見つめていた。

「ごめん、困らせるつもりはなかった。でも……」

 白彦が皐月の頬にまた触れ、それから顔の輪郭を確かめるように、今度はゆっくり顎を瞼を、そして唇をなぞった。次々に触れられた部分が熱をもって、どうしたらいいのか分からなくなった。

 急に目の前の人が男に見えて、一気に心拍数があがる。

「あの、きよくん、この後は本家に帰るの?」

 うろたえて、誤魔化すように話題を探した。

「最後だよ」

「え?」

「皐月ちゃんに会えるのは、これが最後だ」

 ざあっと音を立てて血の気が引いた。何を言われたのか一瞬分からなくて、言葉を失った。

「皐月ちゃんの部屋、行ってもいいかな?」

 白彦が私の手を強く握りしめた。その手があまりに熱くて、浮かされたように皐月は喘いだ。彼が望んでいることを分からないほど子どもではない。でもそれ以前に最後の意味を確認したかった。気持ちを落ち着けるように一つ息を吸った。

「……きよくん、その前に、最後ってどういうこと?」

 白彦は柔らかく微笑んで、首を振った。

 教える気はない。そう言外に伝わってきた。

 こちらに判断を委ねるフリをして、実は他の選択肢など与えてくれない。

 そんなやり方、ズルい。なじりたくて、でもできなかった。その代わりに、また涙がにじんだ。

「守る、って、そう約束した、くせに……」

 白彦は少し哀しそうに「泣かないで」と囁いて、それからこぼれ始めた皐月の涙を指ですくうようにしながら言葉を続けた。

「皐月ちゃん、僕は君が好きだよ。小さな頃からずっと、君だけだった。白彦ではなく、きよくん、と呼ばれたあの瞬間から、僕はずっと君のものだった」

 血が沸騰したかのように体が熱くなった。何かを言おうとして、言葉にならず、ただめまぐるしい感情に揺さぶられて、よけいに涙が止まらなくなった。

 でもそれは、喜びだけの涙じゃなかった。迸る感情の発露のその奥に、絶望的な匂いのする予感が横たわっていることを、どうして無視できただろう。

「言わない約束だった。この想いは、永遠に僕一人だけのものだと思っていたから。だって、そうだろう? 人である君にとって、化け狐でしかない僕を、どうして……」

 好きになってもらえる? その言葉をのみこんで、束の間、白彦は口をつぐんだ。

「でも、期待してしまったんだ。君が、戻ってきてと約束させたあの時から」

 通行人の靴音も、何度も右に左に行き交う電車の音も、発車のベルや音楽も、どこかの宣伝も、呼び込む店の人の声も、周りの喧騒のなにもかもが、白彦の言葉にかき消された。

 嬉しいはずなのに、その先で口を開けている二人の間の距離が、哀しくて痛くて、辛い。

「一度期待したら、抑えられなかった。もしかして、と……。何度も打ち消そうとしたんだ。でも……」

 ふっとそこで言葉を切って、白彦は小さく息をついた。

「……彼のこと責められないね。僕こそが、皐月ちゃんに辛い想いさせてる」

 頭を振った。涙を止めたいのに、こんな顔でいたくないのに、止まらない。

 目の前に立つ、白彦と呼んできた男性が、指先を滑らせて、喉筋をなぞり、そして鎖骨を親指でなぞった。

「例えどんなことになっても、僕はこの先もずっと君のそばにいる。君を守り続ける。ずっと永遠に君のものだ。でも叶うことなら」白彦が言葉をいったん切って、そして体をわずかに傾けて、皐月の耳に口を近づけた。

「今日だけは、僕のものになってほしい」

 体中の血が逆流するような目眩を覚え、皐月は乱れた脈拍と呼吸を整えるように目を閉じた。

 白彦は、自分とは違う世界を生きる存在。

 それを知っていた祖母は、想像していたのだろうか。

 幼い頃に出会った、人間の子とお狐さんが、いずれ恋に落ちるなんてことを。

 それが、この先、悲しい結末しか迎えそうもないことを。

 目を開けると、凪いだ湖面のような、それでいて熱に潤んだ金の瞳が、どこまでも皐月を求めて見つめていた。

「……お願い、今日だけなんて言わないで……、ずっときよくんのものだと教えて」

 叶わないことだと分かりながら、精一杯笑みを浮かべて返事をした。

 白彦は私を抱き寄せ、祈りを捧げるように、天を仰いだ。その時に一瞬だけ端正な顔によぎった表情を、この先何があろうと、皐月は忘れないだろうと思った。

 最後の灯が消え、二度と光のささない世界に取り残されたような激しい孤独のそれを。

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