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狐の声がきこえる  作者: ゴトウユカコ
第9章
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正体_1

 品川にほど近い小さな商店が軒を連ねる駅で降り、マンションに向かった。自宅に寄らず仕事に向かったため、スーツケースが朝よりも遥かに重たく感じた。

 有休であけていた事務の仕事は思いのほか溜まっていて、ひたすら作業に徹しただけならばよかった。でも退社後に、電話で陽平と軽く口論になったのも、消耗した原因の一つだった。会いたいという誘いに応える余裕がなく、皐月があっさり断ったのが癇に障ったのだろう。

 すでに一年半交際してきた陽平は、同じ社内で、花形の営業部に所属している。遊び人の噂を耳にしていたことや男性との交際に消極的だったこともあって、最初は適当な理由をつけて丁重に断っていた。それでも別部署の垣根をものともせず、何度も口説かれたのに根負けし、押し切られる形でつきあい始めた。やがて陽平の浮気性が表に現れてきた時には、すでに情がうつっていた。その度に別れ話が浮上して、別れたい皐月と別れたくない陽平との間で話は平行線をたどり続け、ずるずると続いてきた。

 でもそれは、皐月だけでなく陽平にとっても不幸なことでしかない。

「さっきはごめんなさい。改めて、明日の夜、新橋のいつもの待ち合わせ場所に十八時半に。お話したいことがあります」

 エレベーターで自宅のある八階にあがりながら、陽平にメッセージを送った。玄関ドアの並ぶ外廊下に足を踏み出すと、吹き抜ける風が髪を揺らした。周りにあまり高い建物がないため見晴らしはいい。自宅を不在にして帰宅した時、ここからの景色を見ると、帰ってきた、という気がしてしていたはずなのに、この日はなぜかひとかけらの感慨も起きなかった。いつも見慣れているはずの夜を照らす店や看板の瞬く明かりさえも、なぜか心許ない。

 むしろあの古宇里山が吐き出したかのような夜の方がぬめりとした質感があった気がする。

 そんなふうに思うことが不思議でもあり、でも本家にいた時間を挟んだことで当然の変化にも思えた。

 鍵を出して玄関の扉を開けると、不在にしていた部屋のこもった空気がまとわりついてきた。

 スーツケースを置いて、リビングのドアを開けた。

 外のネオンがレースのカーテンを通して、暗い部屋に明かりを投げている。青く映し出された室内は静まり返っていて、どこか冷たい。

 ふとレースのカーテンがゆらりと揺れ、ハッとベランダの方に目をやった。

 カーテンの向こうに、ぼんやりと掴み所がない茫洋さで、小さな影。

 肌が粟立つ感覚は、つい最近も覚えた。

「……きよくん」

 呼びかけると輪郭がはっきりしだして、狐面をつけた男の子姿の白彦になった。灯りをつけないまま、小さな白彦に向き合った。レースのカーテンの向こうから滲み出てきたように、どこかまだあわいにいるような不安定さが、不吉さをかきたてた。

 灯りをつけるのをやめ、小さな白彦に向き合う。

「あれから、きよくんは大丈夫? ちゃんとこっちの世界に帰ってきているの?」

 私の問いかけに白彦は、かすかに頷いたようだった。そして、無言で外を指さした。

「外? 何かあるの?」

 近づくと、小さな白彦の格好はひどく汚れ、ボロボロになっていることに気づいた。草履はすでに鼻緒の部分がすり切れ、狐面も塗りが剥げたり角が欠けてしまっている。よく見れば、その狐面の下の顔も擦り傷が見え隠れし、露出した腕も足も傷だらけだった。

 その悲惨な様子に、不安が膨らみ、気持ちがざわついた。

「どうしたの、その傷。何があったの? 手当しないと」

 小さな白彦は後ずさって頭を振った。そしてもう一度、外を指さした。

「きよくん?」

 一歩近づくと、小さな白彦は、同じ分だけ一歩退いた。仕方なく距離を保って指し示す方角に視線を向けた。

「かえってきて」白彦は小さな口を開いて、たった一言、そう押し出すように囁くと一陣の風を残して消えた。

 揺れるカーテンのその先、あの子が指さしていた方角は、古宇里山がそびえ、祖父母の屋敷が建つ北関東だ。山に囲まれ、豊かな田んぼが広がる奥田舎。今もなお目に見えないもの達と人とがその住処を隣にしあう土地。

 目が覚めるような、爽やかで心地いい風を思い出す。

 カーテンを開けて、ベランダに出て大きく深呼吸した。

 ざらついた空気が、肺の中で異物のようにわだかまった。眼下に広がるネオンが、目を突き刺すようにぎらついている。

 ここは違う。

 そうはっきり悟った。

 皐月の心と体が、惹かれるところ。それは、あの場所だった。身体の輪郭が溶けて、そこにある営みに同化するように呼吸できる、あの地だ。人だけではない、人がその存在さえ知らぬいきものが闇の間で呼吸している世界だ。

 まるで泉が湧き出すように、気持ちがあふれ、涙となって皐月の頬を伝い落ちた。

 帰りたい。

 白彦が、生きる地に。

 涙をぬぐって、まっすぐ本家のある方角へ顔をあげた。

「待ってて。きっと、帰るから」

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