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狐の声がきこえる  作者: ゴトウユカコ
第1章
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再会_1

 ーー狐の嫁入りかもしんねな。


 祖母がぼそりと呟いた言葉が耳の奥によみがえった。

 幼い頃の記憶をたぐり寄せながら、目の前に広がる暮れなずむ光の中で沈む田園風景の淋しさを見つめた。

 狐の嫁入りだからどうだとか、両親がどう反応したとかまでは覚えていないけれど、幼い皐月には狐の嫁入りという言葉そのものが怖いものの象徴のように刻み込まれてしまった。狐の嫁入りというものが、日本各地に伝わる言い伝えだと知ったのはそれからずいぶん経ってからだった。

 その後、何度も祖父母の家に遊びに行っても、あの時の不思議な光景は二度と見られなかった。今ではもう、あれが現実に目にしたものだったのか、それとも子どもの熱が見せた幻だったのかは分からない。

 幼い頃は仰ぎ見るほどに大きかった長屋門も、今はそれほど圧倒されはしない。ただ夕陽に照らされ、乾いた裂け目や色あせた木肌の色がわびしく皐月の心に陰を落とすだけだった。

 かつては門の向こうに茫漠と続くかのように広がっていた田んぼも、今は整地されたり耕作が放棄されて草が生い茂っていたりして、記憶にある海原のような光景からは少し遠い。車がぎりぎりすれ違えたほどの農道は拡張され、その道路に沿うようにして新しい家がまばらに建っている。近くはないが、高速道路が開通したせいもあるだろう。あの狐の嫁入りが吸い込まれていった里山は昔のままに残されていても、宅地化の波は少しずつ押し寄せていた。

 今時、なじみのあった農家と田んぼの風景を失ってゆく土地では、狐の嫁入りなんて笑い話にすぎない。

 そんなことを思いながら、門前に掲げられた提灯のぼんやりした灯りが灰色の人影を揺らしているのを見つめた。祖母の通夜で焼香をあげるために訪れる喪服姿の人たちがしずしずと門をくぐっていた。従姉妹が担当している門の内側の受付に、順に並んでいる。

 潜戸のそばに立ち尽くす皐月に気づいて、とりあえず会釈をしてくる人もいれば、訝しげな目で見やる人もいる。挨拶は返すものの、この界隈で皐月の顔を知っている人は少ない。

 祖母にまともに会えていたのは、もう十五年も前だ。それ以来、この地に足を踏み入れたのは、片手の指の数にも満たなかった。

 山の端に昇りはじめた月を見上げ、内側にこもった重い塊を吐き出すように大きくため息をついた時、どこか遠くで動物の鳴く高い声が響いた。民家で飼われている犬の遠吠えではない。この土地で暮らす人間なら判別はつくかもしれない。でも久しぶりにこの土地を訪れて二日も経たない皐月にはなんの動物の鳴き声なのか見当もつかなかった。ただ道ばたや田んぼのそこかしこに濃くうずくまって時を待つこの地の夜が、皐月が知る夜とはまったく違う顔を見せようとしていた。

 そろそろ戻ろうと潜戸から中に入った時、少しヒステリー気味に高い声が響いた。

「お姉ちゃん! そんなとこで何やってんの?!」

 六歳下の妹、依舞だった。

 皐月が顔をあげると、食器を重ねたお盆を手にして、表廊下の硝子の引き戸を開けて立っている依舞の姿があった。周りの通夜客たちが驚いたように立ち止まったり、依舞の方に顔を向けたりしている。普通の声で喋ることさえ憚られる空気を一瞬凍らせて、依舞はハッとしたように口をつぐんだ。罰が悪そうな神妙そうな顔つきになって、通夜に訪れた人たちへ頭をさげた。

 大声を出させる原因となった皐月も頭を下げ、慌てて広縁に駆け寄った。

「もー恥ずかしいじゃん! 姿見えないと思ったんだよね。手が足りないんだから、ちゃんと手伝ってよー」

 大学生ながら通夜振る舞いの手伝いをしっかりこなしている依舞は、さっきよりは格段に声量を落として皐月をなじった。さすがに早朝からの準備に追われて疲れが出てきたのか、普段の無邪気さはなりをひそめて険のある表情をしている。

 都会でなら、葬儀社がいろいろ動いてくれるけれど、北関東の奥田舎のこの辺りでは、というより、この祖父母の家の流儀では、葬儀社よりも身内である遺族がすべてを采配するのだという。礼を尽くす相手である寺さえどこか脇役のようで、長男である喪主の伯父と祖父母の手伝いだった小里という老女が一切を仕切っていた。通夜振る舞いくらいは仕出しを頼めばいいと親戚の誰かが口を挟むと、本家には本家のしきたりがあると却下されたというのだから、古風というか一貫している。

 おかげで身内の女性たちは、下ごしらえも含めて昨日から準備をして、朝も早くから料理の手を動かしてきた。皐月や依舞のように遠方から来た親族は、その準備に早くは加われない分、しっかり手伝っていくことしかできなかった。

 襖や障子を取り払って広くなった大座敷に並んだ大皿料理だけを見れば、天ぷらや揚げ物、刺身や巻き物や煮物など、豪勢なものばかりだ。もちろん子どもにはジュースが、大人にはビールや日本酒が用意されている。座卓を囲む人たちが喪服を着ていなければ、さらに、そこかしこで近所の者同士や身内同士、知り合いなどの間で挨拶がひそひそと交わされ、辺りを憚る雰囲気がなければ、ただの田舎の酒宴にしか見えなかった。

 大座敷にいれば、遺族であり若い社会人の皐月はどうしたってビールだの日本酒だのを注いでまわる役になる。先ほど喪主による頭の挨拶だけ顔を出して逃げ出してきた理由も、その度に幼い頃の自分を引き合いに出され、引き止められればやがて彼氏だの結婚だのと話題にされて、気疲れと気の重さに手伝いを口実に早々に逃げてきていた。

「お姉ちゃん、社会人でしょ。お酌ぐらい踏ん張ってよー……」

「うん、ごめん。ちょっと外の空気吸うだけのつもりだったんだけど……」

「ちょっとじゃないでしょ。とりあえず洗う食器が溜まってきたから、そっちお願い。ママたちもいっぱいいっぱいだから」

 入れ替わり立ち替わり、通夜に訪れる弔問の足は途絶えない。それに応じて、通夜振る舞いの料理の追加やら片付けやら、身内の女性たちは落ち着いてなどいられなかった。

 依舞は、縁台にあがった皐月の前でふと長屋門の方に目をやり、それまでの表情をひっこめてため息をついた。

「おじさんたちは酔っばらっちゃってるし、手伝いで目まぐるしいし。なんか、おばあちゃんのこと悲しむ暇ないね」

「そうね……。でもこうしておばあちゃんのそばでおばあちゃんのことを話しながら賑やかに過ごすことも、死者への手向けになるんだって。おじさんたちだって、言葉にしないだけだから……。お酒で寂しさを紛らすことだってあるじゃない?」

「そうかもしれないけど、なんかこう、もっとしんみりしてるイメージだった」

「冠婚葬祭とかって地域によっていろいろだし、それでなくても本家は古い家柄な分、昔からのやり方がしっかりしてるからね」

「そんなもんなのかな。おじいちゃん時知らないし、よく分かんない」

「私も小さかったから、あまり覚えてないよ」

 祖母のことを思ったのか、少し沈んだ依舞の手からお盆を引き取って、台所のある土間へと向かった。おとなしくついてくる依舞のことを気にしながら、廊下ですれ違う弔問客に頭を下げる。祖父と祖母の家系はそれぞれ昔から大所帯で、祖父母自身も母を含め八人の子どもを育て上げたほど大家族だ。そのせいか親戚と一口にいっても、見知らぬ顔も多い。

 しかも山を越えた先の集落まで知れ渡る豪農だったせいか、本家は代々この界隈では顔役を勤めてきたという。先に他界した祖父に代わるようにして、祖母も何くれと近隣の皆の世話を焼いて、慕われていた。通夜にひっきりなしに訪れる弔問客の多さからも、祖母の存在の大きさがうかがえた。

 ふと前方に、柱に手を置いて身体を支えている老齢の女性がいた。

「大丈夫ですか?」と声をかけるより早く、依舞が飛び出すように駆け寄って手を差し伸べた。

 幼い頃からずっと守ってきたつもりの妹は、皐月のことを叱咤もする、もうひとかどの大人の女性だ。そのことが皐月には寂しくもあり、なんとなくその場にとり残された。依舞とその女性との間に会話が交わされ、それぞれ頭を下げあって別れる様子を見つめていると、女性は去り際に皐月にも一礼した。誰だったか記憶を探りながらもゆっくり頭を下げた。

「あの人、おばあちゃんの妹だって」

「え、そうなの?」

「うん、一番下の妹だって言ってた。ママなら分かったかもしれないけど」

 皐月も依舞も本家とのつきあいはだいぶ薄い。そのせいか従兄弟たちも大勢集っているはずなのに、挨拶を交わしたきり特に話をするわけでもなく、つまりは孤立していた。だから裏方の手伝いを通して少しでもこの大きな屋敷での位置を見出そうとしていたのもしれない。

「お、皐月ちゃん、依舞ちゃんも。ご苦労さん」

 襖が音もなく開いて、赤ら顔のおじさんが少しふらつく足どりで広間から出てきた。母のすぐ上の兄である匡伯父だ。皐月と依舞に気づいて立ち止まった。

「ずっと手伝いじゃ食えねえっぺよ。誰か代わってもらったらいいんじゃねか?」

「ありがとうございます。でも手伝いながらつまんだりしてるから、何気に食べてるよね?」

 依舞が「なんだかんだねー」と頷く。

「遠慮せんでいいからな。ばあさん、皐月ちゃんを可愛がってたべ。皐月ちゃんがいるだけで、皆の思い出話に花も添えられるもんってんだ」

「はい……ひと段落したらまた顔出すようにします」

「……ばあちゃんがいねくなっただけで、屋敷がこんな広く感じられるとはなあ」

 去り際に呟かれた言葉に、思わずハッと胸を突かれた。

 祖母の気配が薄れている屋敷で、伯父のように酔っていても偲び方は人それぞれだ。必ずしも悲しい顔をして見えているとは限らない。

 それに、と思いながら、「おじさん、大丈夫かな……」と、依舞が心配げに呟くのを聞き流しながら、トイレのある方角へ向かう伯父の背中を見送った。

 屋敷に来てから、なぜか小さな頃訪れていた屋敷の雰囲気とは違う気がしていた。久しぶりの訪れのせいだと思っていた。それに親族も皆いる。故人を偲ぶ場としては賑やか過ぎるほどだ。

 でもどこか寒々しかった。歩けばかすかにたわむ畳も、長い廊下のきしむ音も、その音がいつもより切なく聞こえていた。それはてっきり、葬儀という場のせいだと思っていたけれど、本当は、この屋敷に暮らす人たちから伝わる喪失の痛みを、この母屋も感じとっているからなのかもしれない。

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