毒 2
リネットに手を引かれて、私室に戻ってきてもエマの震えは止まらなかった。レオンが気づかなければ、エマはお茶を飲んで、今頃毒に苦しんでいただろう。運が悪ければ、もしかしたらこの世にはいなかったかもしれない。そう思うと、エマは恐ろしさに自分の両腕を掻き抱いた。
「エマ様、お着替えを……」
そう言われて自分を見やると、服を汚していた。カップを落とした時に中身が跳ね返ったのだろう。自分を見つめるリネットの顔を見て、エマは自分同様に動転しているのが見て取れた。
当然である。
故国ではこのようなことはなかった。毒なんて身近で感じたことなどない。誰かの命を狙うなどという物騒なことは、エマにとっては自分から遠く離れた、感知しない外の世界での話だった。
「でも、殿下は冷静だった……」
エマはぽつりと呟く。毒の話をしている時でさえ、レオンの端正な横顔は普段と変わりなかった。慣れているということなのか。
(なんという恐ろしいところなの)
考えを振り切るように、エマは首を強く横に振った。そして、自分を抱きしめたまま部屋中をぐるぐると歩き回る。こうでもしないと、恐ろしさに足元から崩れていってしまいそうになるのだ。
「失礼いたします」
女官長が儀礼的に頭を下げて部屋へ入ってくる。そう言えば、この人も冷静だわ、とエマは思った。
「殿下よりご伝言でございます。しばらくのち、妃殿下のお部屋も改められるとのことです」
「どういうこと? もしかして、私が疑われているということなの?」
先ほどの周りの目は冷たかった。犯人かもしれないという疑いの目にさらされているところを、レオンがかばってくれたと思ったのに。レオンまでもが疑っているということなのか。
「先ほどのお茶をこの宮へ持ち込まれたのは、妃殿下だと皆が承知しております」
女官長の瞳は感情が見えない。
「そんな……私はそのようなこといたしません!」
つい声が大きくなるが、女官長はあくまで冷静だ。
「その判断は私が下す立場にはおりませんので」
女官長と話していても埒があかない。エマは、部屋を飛び出した。
「エマ様!」
「妃殿下!」
リネットと女官長の声が背中に聞こえたが、エマは構わずに王宮へ王妃のところへ向かった。
夕刻だが、門番は王太子妃という立場のエマにすんなりと王宮門を開けてくれた。供もつけずに、切羽詰った様子のエマを訝しんでいる様子だったが、尋ねられることはなかった。そのまま、さらに奥、後宮へ向かう。
「いくら妃殿下とはいえ、これより先はお通しできませぬ」
後宮前に立つ門番はエマを入れてくれる気はないようだった。
「お願い。緊急事態なの。王妃陛下にお会いしたいのよ」
「そう申されましても……」
エマの切羽詰った様子に、門番は困り果てている様子だ。
「ちょっとお話するだけなの。お願いっ!」
約束を取り付けてからだと、時間がかかり過ぎてしまう。なんとか入れてくれないものかと、エマは食い下がるが、門番は開ける気はないようだ。じりじりとしていると、背中に声がかかった。
「どうされましたか?」
振り返ると、ブレイン公が驚いた様子でエマと門番を見ていた。公を見て門番は、これで解放されると、あからさまにホッとした顔をした。
「妃殿下が王妃陛下にお会いされたいとおっしゃられているのですが、お約束もないご様子。申し訳ございませんが、今宵はご勘弁下さいとお願いをしていたところです」
お願いなんてしていないじゃない! にべもなく通せないって言ったくせに、とエマは言いたいのをぐっと堪えた。
「ちょっとだけでいいのよ」
エマは顔の前で手を合わせた。
「落ち着いてください。こんな時間から後宮へ入るのは無理ですよ。一体どうしたというのです?」
「急いでいるのです。王妃陛下にお会いして確かめたいことがあるのです」
ブレイン公は眉を寄せて困ったような表情をし、ため息をひとつ吐いた。
「わかりました。では、その理由を教えてください。それによっては、私も力になりましょう」
「それは、毒が……」
「「毒?」」
二人の声が重なった。ブレイン公が素早くエマの肩を抱き、耳元で囁いた。
「そのような物騒な話をおおっぴらにするもではございません」
エマはハッとした。なんということを口走ってしまったのか。
「君もこのことは忘れなさい」
公は門番にいうと、エマの肩を抱いたまま人気のない廊下へ引っ張っていく。
「それで、毒とは?」
ブレイン公がエマに顔を近づけ、小声で囁く。話していいものかと、エマは逡巡すると、公はくすりと笑った。
「いまさら躊躇うのですか? 話しておしまいなさい。一人で悩むよりも二人の方がいい案も浮かぶかもしれませんよ。それに、私はあなたが思うよりは有能ですよ」
冗談めかして言うと切れ長の瞳をウインクして見せた。容姿が鋭利な印象を与えているが、話すと穏やかで茶目っ気あるギャップに、世のお嬢様方は魅了されているのかしら。人気があるのもわかる気がするわ、なんてことがエマの頭をかすめた。公は、急かすでもなく、じっとエマが話し出すのを待っている。
「実は、王妃陛下からいただいたお茶に、毒が含まれていたのです。寸前のところで殿下が気づいて大事には至りませんでしたが……」
ブレイン公は目を見開いて、片手を口元に押し当てた。
「それで、私、王妃陛下にお会いしたいと思いましたの。……公?」
ブレイン公は肩を揺らしている。どうやら笑いを堪えているようだ。
「私は真剣ですのよ。もし、王妃陛下がそのようなことをなされてたら、私の顔を見たら反応なさるのではないかしら?」
堪えていたせいか、目元に涙まで浮かべている。そんな公を見て呆れたエマが踵を返そうとすると、手で押し止めた。
「いや、失礼。あまりにあなたが可愛らしいことをおっしゃるので。それで、陛下が顔色を変えたら、どうするのです? あなたが犯人ですか? と聞くのですか?」
そこまで考えていなかった。ただ、王妃が犯人かどうか知りたかったのだ。今度は、エマが押し黙る番だった。
「もし、私が犯人ならば顔には出しません。それに、犯人扱いを陛下にしてごらんなさい。不敬罪で捕まるのはあなたの方ですよ」
エマは肩を落とした。確かにその通りだ。しかし、それでは自分への疑いが晴らせない。
「思うところはありますが、ともかく、あなたが無事でよかった。さすがは兄上です」
にっこりとブレイン公が微笑んだ。エマを見つめる眼差しは優しい。
「しかし、皆に私が疑われているようなのです。殿下にも疑われているようで、私どうしたらよいのか……」
そうだ。レオンが自分を疑っている……その言葉が自分の心に突き刺さる。エマにとっては、この国で頼れるのはレオンだけだというのに。心細さに足元が見えなくなりそうだ。
「許せないな。こんな風に自分の妻を泣かせるなんて」
ブレイン公は白いハンカチを取り出すと、そっとエマの頬に押し当てた。公は目を見開き、悲しげな表情をしている。
「あ、あら……」
その仕草で自分の頬を涙が濡らしているのに気づいた。
「兄上は、人とは深く交われない人なのです。警戒心が人一倍強い。そのため、人の心の痛みが分からぬ人なのですよ」
ブレイン公はきつく眉根を寄せて、エマよりも彼の方が傷ついているような表情を見せている。
「そこで、何をしているんだ」
冷たく乾いた声に振り向くと、レオンがこちらを睨みつけていた。後ろからはリネットと女官長たちの姿も見える。
「部屋から出るなと言っただろう」
レオンは片手で、エマの腕を掴み、自分の方へ引っ張った。強引な口調と腕の痛みに、エマは知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せていた。しかし、それがさらにレオンの怒りを増幅させたらしい。
「帰るぞ」
「そんな風にするから、影で泣かれるのですよ」
「お前には関係ない。余計な口出しはやめてもらおう」
公は、エマが見たこともないような目つきで、レオンをねめつけていた。エマはその眼差しにゾクッと背筋が冷たくなる。
「あなたも繰り返すのですね。早く開放してあげないと、取り返しがつかないことになりますよ」




