毒 1
エマとレオンの結婚は、国のための政略結婚だ。ノース王国とラナティア王国という隣り合う国の平和を保つためのものだが、立場としてはラナティア王国が上であった。元々は、エマの姉が花嫁候補であったが、諸事情により急遽エマが花嫁となった。
『エマ、あなたには隣国へ嫁ぐなどというのは荷が重いことはよく母も分かっています。本来ならば、ロレッタが嫁ぐはずで、あの子であれば適任であったでしょう。母は、あなたのその人を疑わないところや、素直に信じてしまう、世間知らずなところが心配なのです。あちらの国では、ここのようにあなたの味方がいないかもしれない。いいえ、いないでしょう。上手く立ち回って自分の居場所を作らなくてはなりません。ああ、きっと難しいことでしょう……』
そう言って首を横に振って、片手で額を覆った故国の母。
『エマ、エマ。ごめんなさい。あなたに背負わせてしまうことになってしまって……』
泣きながらお別れをした姉のロレッタ。
しかし、その時の二人の気持ちとは裏腹にエマは少女のような夢想をしていた。政略結婚とはいえ、お父様とお母様のような仲睦まじい夫婦になりたいわ、と。
エマは私室で、テーブルに肘をつき両手で顔を覆って、母親の言葉を反芻していた。数日経ったが、首飾りが無くなった件は、まだレオンには伝えていなかった。女官長が言うように、一度調べさせた方がよいのか。レオンだって、送った物を無くしたとなれば、面白くないだろう。エマは無意識に長い溜息が溢れた。どのように対処すればよいのか分からない。故国では、ちょっとでも何かあれば、両親や兄たちに相談をして助言をもらっていた。彼らは、末っ子が頼ってくるのを可愛く思っていたようで、エマもそれに甘えさせてもらっていた。
「なんて恵まれていたのかしら」
母に手紙を書いて尋ねてみようかしら、とも思ったが、逆に心配をさせてしまうだけだと思うとできなかった。
「エマ様、やはり王太子殿下にお話された方がよろしいのでは? 隠してもいつかは分かることですし」
心配そうにリネットがエマを見ていた。
「エマ様がこんなに悩まれているのを見ていると、リネットも心が痛みますわ」
「そうね……でも、どうしたらいいのか分からないの」
二人で顔を見合わせて溜息を吐いていると、部屋のドアがノックされて女官が顔をのぞかせた。
「王太子殿下がお帰りになられました。妃殿下とご夕食をと仰せですが、いかがなさいますか?」
是の返事をすると、女官は頭を下げて出て行った。もちろん、それ以外の返事はエマにはない。いつもなら、嬉しい気分で着るものを選ぶところだが、レオンと会うのが気が重くて仕方ない。しばし、逡巡したのち、エマは立ち上がった。やはり、レオンに相談しよう。無くしてしまったことは不興を買うかもしれないが、誠意をもって謝ろう。きっと、きちんと話せば分かってくれるはずだ。
「私、殿下にお話してくるわ」
エマは私室を飛び出し、レオンの部屋へと向かう。リネットは慌てて、その背を追いかけた。
「殿下、お話がありますの!」
両開きの扉に手をかけて開くのと、声は同時になった。部屋の中のレオンは驚いた様子でエマを見ている。すでにくつろいでいたようで、服も着替えて手紙を読んでいるところだったようだ。リネットが、失礼いたします、と声をかけたが、後の祭りだ。
「騒々しいな」
勢い余ってしまったせいで、無作法なことをしてしまったと、エマは恥ずかしくなった。顔もみるみると赤くなってくるのを感じる。しかし、レオンの声音は意外と丸く、仕方がないな、とでも言うような優しい響きを感じさせた。
「し、失礼いたしましたわ」
「よい。らしいといえば、あなたらしい。で、話とは?」
レオンはテーブル付きの椅子を指し示し、自分はその向かいに腰掛けた。エマのために椅子を引いているのは、女官長だった。彼女は緊張した面持ちでエマを凝視しているが、無視をするようにその椅子へ腰掛けた。
目の前に座る人は、今日も温度を感じさせない美貌を見せている。じっと碧い瞳に見つめられると、エマはどぎまぎしてしまうのだった。
「実は、先日困ったことが起きましたのーー」
「失礼ながら、妃殿下。そのお話はただいま調査中です。終わり次第、私から殿下へご報告させていただきますとお話いたしました」
女官長がエマの言葉を遮った。どの立場で物を言っているのだろうか、とエマは腹立たしさに拳を握りしめた。一応自分の立場は王太子妃なのだ。女官長に指図される覚えはない。
「女官長。私が殿下にお話があるのです」
自分の話を聞いてほしい、という思いを込めて、じっとレオンの碧い瞳を見つめる。すると、レオンは軽く頷いた。
「たしかに。立場を弁えよ。エマは、私の妃である」
女官長は、はっとしたようにすぐに頭を深く下げた。エマはレオンが、自分の味方をしてくれたことにほっとして、涙が出そうになる。
「申し訳ございません。出すぎた真似をいたしました」
「日頃の忠義に免じて咎めはせぬが、二度目はないと思え」
御意、と女官長は安堵したような表情をして再び頭を下げた。
ーーコンコン。
「失礼いたします」
お茶のワゴンを押してエレンが入ってきた。
微妙な空気だったので、お茶を飲んでリラックスできれば丁度いいとエマは思った。何も知らないエレンは、テキパキと用意をしエマたちの前にティーカップを差し出した。
この癖のある香りは、王妃のお茶会で出された物。エマは勧められるままにお茶の葉をもらって帰ってきていた。
「変わった香りだ」
目の前のカップを手に取ろうともせず、レオンが眉をひそめる。
「先日のお茶会で、王妃陛下からいただいて参りましたの。ぜひ、飲んでみてくださいませ。変わった香りですが、味は美味しゅうございましたわ。陛下のお気に入りだそうですの」
「そうか」
レオンが半信半疑という程で、カップを持ち上げた。
「そう言えば、陛下のところへ行く途中でブレイン公にお会いしましたわ。お見舞いーー」
がちゃん。
レオンが乱暴にカップを机に叩きつけ、大声で叫んだ。
「飲むな!」
エマはレオンの剣幕に驚いてカップをとり落とした。
「今より、誰一人この宮から出すな! ロイドを、ああいないのか。では、近衛兵をすぐに呼べ」
「殿下、いかがなされました?」
ただならぬレオンの様子に、周りは訳がわからないままでも、近衛兵を呼びに行くもの、宮を封鎖するものと慌ただしく駆けていく。エマはといえば、おろおろするばかりだ。
「ーーおそらく、毒が入っている」
レオンの顔は平素と変わりない様子で、カップを指差す。
「香りの強いお茶のせいでごまかされているが、鼻を近づけば分かる。おそらくこの香りは毒草だろう。これも、調べさせよ」
エマは目の前が真っ暗になった。なんて恐ろしいことだろうか。ここは自分が暮らしていた平和な国とは大違いだ。恐ろしさに寒気を感じて知らず知らずのうちに両腕を抱いていた。
「エマ、これを王妃からもらったと言っていたな」
「……は、はい」
周りがざわめく。
「まさか、王妃陛下が……」
「でも、陛下がそんなことする理由なんて……」
「このお茶は妃殿下がいただいてきた物ということは、妃殿下が……」
「妃殿下は、他国の方だし……」
茶器とエマを交互に、周りの視線が動く。よそ者が怪しいと言っているようで、エマはますます恐ろしさに身を竦ませた。
「憶測で物を申すな」
切るように周りに言うと、レオンがそっとエマの肩に触れる。庇ってくれたのかと、頭では分かったが、心は騒いだままちっとも落ち着かなかった。周りの目が怖い。
「誰か、エマを部屋に連れて行ってやれ。エマ、部屋からは出ないように」
素早くリネットが、エマの手をとる。その時に、初めてエマは自分の手が震えていることに気づいた。




