立ち止まり処で、色水を
青信号の点滅は、全力で走れという合図。
私は横断歩道へ突っ込んだ。サンダルの底が舗装道路と擦れて乾いた音を立てる。頭上で信号が赤に変わった。渡り終えても走るスピードは落とさない。今日はただでさえ予定を二十分ほど押している。
夏休みまであと一週間。受験生にとって勝負の夏がやってくる。絶対に負けるわけにはいかない夏だ。負けたらすべての計算が狂う。
郵便局の前に差しかかったところで、私はバスに抜かされた。思わず舌打ち。今日に限って時刻表通りに動くなんて。計算では、走った方が五分ほど早く家に着いたはずなのに。
日曜日。コンビニバイトの帰り道。家に着いたらすぐに明日からの試験勉強をしよう。夕方には美容室を予約してある。スタンプカードの割引サービスが今日までなのを昨日思い出し、慌てて電話したのだ。そして夜九時からは見逃せないドラマがあるから、それまでに提出物を仕上げなければ。
スケジュールは完璧だった。……バスに抜かされさえしなかったら。
向きになって加速しようとして、
「きゃっ」
足がもつれた。熱い歩道の上に横座りになる。その拍子に、大きく開いたバッグの口から中身が散らばった。
「あぁ、もう!」
苛立ちながら両手を伸ばす。携帯、財布、スケジュール帳、試験用ノート、化粧ポーチ、海外セレブのゴシップ誌、その他諸々。適当にかき集めてバッグに放り込む。
その時。
「あっ……」
歩道のど真ん中に座りこむ私と街路樹の間を、一人の男の人が足早にすり抜けた。足音も気配もなかったから、思わず小さく声をあげてしまう。
私は取り繕うように慌てて立ち上がった。
足首が痛む。ゆっくり歩く代わりに、今から試験勉強を始めよう。指定校推薦を勝ち取るためには、明日からの試験で挽回しなければ。私はごった返しているバッグの中を探った。ここにはいつでも勉強できるように英語の単語帳が……
ない。
私はバッグの中を覗き込んだ。愛用の単語帳は見当たらない。
拾い忘れただろうか。そう思い振り向いてみても、それらしいものは見当たらない。バッグの口を閉めて何気なく、前方を見やる。思わず少し目を細めた。
歩道に点々と続く、白いもの。紙切れだ。私は一番近くに落ちていたそれを拾いあげた。見覚えがありすぎる筆跡。
「私の……!」
それはリングから破り取られた、単語カード。行く先の歩道に道しるべのように続いているのは、すべて単語カードに違いない。
状況を飲み込めないまま私は視線をさまよわせた。
すぐに目に止まったのは、先ほど足早に私を抜かしていった男。
「あいつ、なんでっ……!」
やつは不意に右手を軽く振り上げ、手品師のような柔らかい手つきで、紙切れを風に乗せたのだ。一枚、また一枚とやつは軽やかに捨てていく。
私はその一枚一枚を拾いながら追い出した。まだ追いつけない距離ではない。つんのめるようにしてカードを拾いながら後ろ姿を睨みつける。……と。
「あっ」
拾おうとした一枚が風に流され、車道に飛び出す。次々と走ってくる車を華麗に交わしながら、向こう側の歩道にたどり着いてしまった。仕方ない。あれは諦めよう。覚え済みの単語であることを祈る。
「ねぇ! ちょっと!」
張り上げた声は車にかき消されてしまう。やつとの距離はなかなか縮まらない。緩やかなカーブを描く道。やつの姿を視界におさめておくのが精一杯だ。
私は小さい頃に読んだ童話を思い出した。主人公が森に入っていく挿絵がぼんやり浮かぶ。迷子にならないよう、道しるべにパンくずか何かを落としていって……あれはどこに何をしに行く話だっけ。ああもう、一度読んだものを忘れるなんて!
しばらくして、やつは私の帰り道を外れて小さな川沿いの小道に入っていった。ためらいはしない。ここまで来たら絶対カードを回収して、どうしてこんなことをしたのか問い詰めてやる。
この先にやつの家があるのだろうか。紙切れを拾う動作に慣れてきた私は、やつの後ろ姿を観察した。
ストレートジーンズに黒い半袖のシャツブラウス。アイボリーのショルダーバッグは、動きに合わせてリズム良く弾んでいる。顔を見ていないから何とも言えないけれど、同じくらいの年頃だろうか。
その時、やつはひょいと角を曲がった。あそこが家かもしれない。わたしは小走りになった。左手の中の単語帳は、元の厚さを取り戻しつつあった。
素早く表札を確認したが、しかしやつは家の中には入っていなかった。家と家の間の細い砂利道を抜け、裏手に広がる雑木林の中へ入っていく姿が見えたのだ。
……思い出した。ヘンゼルとグレーテルだ。パンくずを落としながら森を進み、彼らが辿り着いたのは、お菓子の家。ならば、この雑木林の向こうにはどんな素敵なものがあるのか、確かめてやろうじゃない。
お邪魔しますと小さく呟き、足音を立てないようにして人様の敷地を通り抜ける。
雑木林は、徐々に角度を増す斜面となっていた。もちろん道らしい道はない。直接陽は当たっていないものの、むわっとした暑さ。植物の呼吸を感じる。
細い枝や笹やぶを掻き分けながら進む。中には棘の生えたツタなどもあり、ノースリーブのブラウスから剥き出しになっていた腕を引っ掛かれた。デニムスカートから伸びた素足に色々なものが絡まり、乾いた砂や小石のせいで足元が滑る。特に急な部分は、手頃な枝や埋まりかけた岩に手をかけ、姿勢を低くして進まなければならなかった。
「何で、こんなところっ……」
息を切らしながら呟く。不快指数は急上昇だ。
やつは軽々と登っていた。視界が木々に遮られ、後ろ姿と足場を交互に見るのでやっとだ。少し離れた窪みに単語カードが落ちていたが、手を伸ばすとバランスを崩して足が滑ってしまいそうだったので、諦めた。いずれ土に還ってくれるだろう。
顔を上げたとき、やつの姿はなかった。
「ちょっと、どこ……?」
慌てて最後に見えた辺りを目指して進む。枝などを効率的に使い、調子付いてきた辺りから、徐々に視界は明るさを取り戻した。地面に落ちる影が濃くなっている。心なしか緩やかになった斜面を登りきり、境界線のように張ってあるロープを跨ぐと、そこは綺麗な舗装道路だった。そして相変わらず、単語カードの道しるべは続いている。私はため息をついた。
呼吸を整え、淡い夕焼けに染まる家々を眺めながら私は歩き出した。静かだった。足音を立てるのがためらわれるほど、静かだった。聞こえるのは、ただただ風の音ばかり。その静寂も、長くは続かなかったけれど。
「いらっしゃい」
単語カードの最後の一枚が落ちていたのは、丸太を組み合わせて造ったような、小さな家の前だった。白い柵に囲まれた庭には、木でできた丸いテーブルと、切りかぶのような椅子がいくつか置いてある。そしてその椅子のひとつに、やつは座っていた。
「ようこそ、《立ち止まり処》へ」
足をゆっくり組み替えて、やつは私をじっと見た。まともに視線が絡まるが、私は目を逸らさなかった。
この顔、見たことがあるような……。
やつは切れ長の目をほんの少し細めて――笑った。
「席、空いてますよ」
そう言って他の椅子を見やる。
「お好きな席へ、どうぞ」
余裕たっぷりというようなその態度が、妙に腹立たしい。私は木の門を押し開け、やつの正面に仁王立ちになった。
「あんたねぇ!」
一度大きく息を吸い込んで、吐く。長くかまってやる時間はない。
「これ、私のなんだけど」
握りしめていた単語カードを、勢いよくやつの顔の前に突きつける。しかしやつは反射的に目を瞑ることもなく、飄々と答えた。
「僕もそうじゃないかなぁと思ってた。さっき拾ったんだ」
「ひ、拾ったものだからって何で一枚ずつ捨てていくのよ!」
「一個覚えたら捨てた方が効率的でしょ? 二周目はないと思えば必死になれるし」
「じゃあ自分のでやりなさいよ!」
「拾ったものはぼくのもの」
「……道に捨てていったらゴミになるじゃない!」
「君が拾ってくれると思ったから。……ねぇ全部拾えた?」
「……いいえ」
「そりゃ残念。……そうだ、喉渇いてない? せっかく来たんだから冷たい飲み物でも」
やつは立ち上がった。途端に見上げる格好になる。思ったよりも、背が高い。そして、紙コップを私に差し出した。思わず受け取ってしまい、すぐに後悔して突き返そうとしたときには、やつはもう後ろを向いていた。
「ちょっと、あんた」
「アイスティ、どう?」
やつはショルダーバッグから銀色の水筒を取り出した。
「冷たくて気持ちいいし、落ち着くよ」
「……アイスティなんていつも持ち歩いているわけ?」
「ここ、今日は開いてないんだ。だから家から持ってきた。一人で飲もうと思ったけど、運良くお客さんが来て嬉しいよ。どうぞ」
言うと同時にやつはアイスティを注ぎ出す。私は慌ててコップを握りしめた。汗ばんだ手のひらに、冷たさが伝わってくる。
「店はやってなくても立ち止まり処は年中無休だよ。走り続けているあなたにぴったり、この辺りで立ち止まってみるのはいかがですか? ってね。どう? このキャッチコピー」
私はコップを握る手に力をこめた。ふにゃりと歪み、あやうく中身がこぼれそうになる。
「……私、急いでるから」
「これから何かあるの? デート?」
「勉強よ! 明日から試験なんだから!」
するとやつは呆けたような顔をして言った。
「試験、明日からだっけ……? やばいな、忘れてた」
「え……」
私はやつの上から下まで、何度も視線を往復させた。そんな私を見て、やつは薄ら笑いを浮かべる。
「もしかして、同じ高校……?」
「当ったりー。髪短くなったから気付かなかった? それともぼくのことなんてもともと知らない?」
私は小さく首を横に振った。肩に触れるくらい長かった髪もばっさり切ったみたいだし、色白だったはずの顔はかなり日焼けしているけれど、間違いない。同じクラスになったことはないが、以前、顔を見に行ったことがあるのだ。成績優秀者の順位表に毎回名前が載っていたから、興味を持った。
「えっと、楠木くん……?」
三年になって名前を見かけなくなってから、存在を忘れかけていたけれど。……いつもほとんどトップだったのに。
「名前まで知っててくれたんだ。意外」
楠木くんは悪戯っぽく笑ってみせた。そして水筒から自分の分のアイスティを注ぎ、一口飲む。
「我ながら美味い! 怪しいものなんて入ってないよ。まぁ、飲んで飲んで。果穂ちゃんって呼んでいい?」
「なんで私の名前っ……」
しかもちゃん付けだなんて、馴れ馴れしいにも程がある。しかし焦る私を気にもかけず、楠木くんは再び椅子に腰掛けた。
「順位表でよく見かけてたからね。……最近は知らないけど」
同じ口だ。しかし余計なひとことが気になって、私は言葉に詰まった。何とか他のことに気を向けて欲しくて、私は勢いでアイスティを飲みこむ。……美味しい。
勝ち誇ったような楠木くんの顔に何だか悔しさを感じた。全然、私のペースじゃない。感想は言わずに、私は話題を逸らした。
「ここ、あんたの家なの?」
「叔父さんのカフェなんだ。今日みたいによく休むんだけどね」
「カフェ? 休みなのに勝手に入っていいの……?」
「うん。ぼくバイトしてる身だし、それに好きなときに好きなだけ居ていいって言われてるから。泊まることもあるくらい」
「バイト……」
高三のこの時期に? 疑問を視線で投げかけたが、楠木くんは空を見上げたまま言った。
「いいところでしょ。車の音も人の声も時々しか聞こえない。蒸し暑い日でも、黙って座ってると心地いい涼しさになってくるし。時間を忘れるのに打ってつけだと思わない?」
「時間を忘れたら大変じゃない。その瞬間に人生が狂っていきそう」
「忘れることも悪くないと思うけどね」
「忘れてる場合じゃないわ。早く帰って勉強しなくちゃ。……あんたはいいの?」
訝しげに問いかけると、楠木くんは得意そうな笑みを浮かべた。左側の頬にだけ、笑窪があった。
「一夜漬けで余裕」
私は眉をしかめた。すべて得意な範囲なのだろうか。自信満々なわりには最近順位表で名前を見かけないけれど。そう言いかけてやめた。自分の成績だって最近は芳しくないのだ。
「余裕なわけないだろって思ったでしょ?」
「……別に」
「それが余裕なんだよね。まぁ試験の日にちを忘れていたのはさすがにちょっと焦ったけどさ、ぼくの目標は赤点を取らないことだけだから」
私はわずかに目を見開いた。赤点を取らなければ満足? そんなのは頭の悪いやつらの負け惜しみでしかないはずだ。狙うのは常に満点でなければいけない。
私は納得がいかなかった。そして無性に腹が立った。目の前にいる彼は、少なくとも頭の悪いやつじゃない。
「……やけになってるの?」
「いいや? ただ最近は忙しくてさ」
「忙しい? 忙しいを理由に何かを諦める人って、能力不足だと思うわ。私は全部手に入れたい」
「そう? ぼくは一つのものだけを目指す能力に憧れるな」
「一つのものだけなんて。私は欲しいものがたくさんあるし、その全部を手に入れたいの。学校では良い成績もとりたいし、ファッションも音楽もテレビでも最先端の流行を追いたいし、お金がかかることも多いけどそのお金も自分で稼ぎたいし、大変だけど限られた時間で効率よくやりくりすれば手に入れられる」
「効率よくできれば、ね」
言葉が出ない。私のことを否定されたような気分になって、苛々してくる。一つのものだけなんて、謙遜のつもりだろうか。自分ができないから、悔しいのだろうか。何とか怒りを治めようと、私は深呼吸をした。空気はいい。けれども怒りは治まらない。
「単語帳ってさ、スペル覚えられる?」
「え?」
「英単語って見るのと書くのとではちょっと違うと思わない? 覚えたはずの単語を試験のときに書いてみると何か違って見えたりしてさ。だから実はそんなに効率いいと思わないんだよね」
「なっ……」
「ま、ぼくの個人的な考えですけれども」
気取った調子でそう言うと、楠木くんは立ち上がった。そばに置いてあったショルダーバッグに体をくぐらせる。
「まだ好きなだけ居ていいよ。そうだ、改めて紹介。ここね、カフェの名前は別にあるんだけど、ぼくは《立ち止まり処》って呼んでるんだ。昔から特別な場所には自分だけの名前をつけたい性質でね。君もそう呼んでいいよ……じゃあ、ぼくこれから買い出しだから」
言いたいことは山ほどあったが、口をぱくぱくさせているうちに、楠木くんはひらっと手を振って門に手をかけた。
「ここまっすぐ行くと第三公園の通りに出られるから。……まずい遅刻する。叔父さんと待ち合わせしてるんだ。じゃあね」
そう言うや否や、楠木くんは駆け出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
手を伸ばした拍子にすべり落ちそうになったバッグを、肩に掛け直す……と同時に、視界の隅に何かが映った。ゆっくりと視線を落とす。
黒い鞄にべったりと張り付いている黒いもの。それは太い足をした、大きな大きなクモだった。
「ひっ……!」
私は声にならない悲鳴をあげた。反射的に鞄を遠くへ放り投げ、体を硬直させる。左手を強く握り締めたせいで、半分以上残っていたアイスティは白地のブラウスに降りかかった。鞄は奥のテーブルに激突して、芝生の上に落ちた。
「最悪っ……冷たいし気持ち悪いし……」
雑木林からついてきたのだろうか。思わず鳥肌が立つ。
私はおそるおそる鞄に近づき、そっと持ち上げた。念入りに確認。大丈夫。もうクモはついていない。バッグからティッシュを数枚取り出して、素肌に張りついたブラウスを浮かせてぎゅっと絞るように握る。じわっとティッシュがアイスティ色に染まるのを見て、ため息をついた。きちんと落ちるだろうか。かなり好きなブランドだったのに。
ポケットティッシュを一袋使い切ったところで、はっとした。いつの間にか、空は見事な夕焼けだった。
「もうっ……!」
今の今まで一体どれだけ無駄な時間を過ごしただろう。今日のスケジュールを何分おしているだろうか。
深呼吸をするつもりがため息に変わってしまう。立ち止まっている場合じゃない。私は大股歩きで《立ち止まり処》を後にした。
やつに出会ったせいではらった代償。土埃まみれになったサンダル、アイスティを浴びたブラウス、雑木林で引っ掛けたらしい、裾がほつれたスカート、手首の擦り傷、たくさんの虫刺され。
それだけじゃない。家に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。私は美容室をすっぽかし、夜のドラマを諦めて取り組んだ勉強は なかなか頭に入らず、提出物のプリントを夜中までかかって終わらせた結果、寝不足で登校……という、自転車漕ぎ式の災難が続いた。
★
昼休み。
お弁当を食べながら世界史の教科書をめくる横で、理奈はファッション誌をめくっていた。
「理奈、世界史余裕なの?」
「んなわけないじゃん。でも世界史は再試も問題いっしょっていう噂だからさ、余裕っちゃ余裕かぁ」
能天気に笑う理奈。テストのことはまるで頭にないというような顔で、新作のバッグを吟味しているようだった。
隣でそんなに楽しそうにされると集中力が下がる。私は思わずファッション誌を覗き込んだ。私が憧れている読者モデルが載っていて、ページをめくろうとした理奈を思わずとめる。
「あ、果穂、この子のファンだっけ?」
「うん……」
私よりも二歳年上で、有名大学に通っている。頭も良くて、美人で、ファッションセンスも良くて、こうやって全国版の雑誌にも載っていて……憧れの存在だった。
モデルになりたいというわけではない。有名人になりたいわけでもない。ただ、勉強に時間をとられて流行に乗り遅れたくない。流行を追いかけるのに必死で、勉強ができなくなるのも嫌だ。例えば理奈は、勉強を捨てて流行を追うのに専念しているけれど、私は何かを捨てるなんてことはしたくなかった。
ふと視線を落とす。深緑色の、チェックのプリーツスカート。この制服を着ていることは、私の計画が甘かった結果。これを見るたび悔しさを感じ、もっと頑張らなければという気持ちが高まる。
全部、完璧でいたい。
「抱え込みすぎなんじゃないかな」
階段をのぼっている時だった。進路指導プリントが大量にあるから、と先生に呼び出され、一階から三階までプリントの山を運んでいたのだ。
「日直の仕事だから」
短く言い放つ。プリントが崩れそうだったので、後ろを振り向きはしない。そんなことをしなくても、声の主が誰かなんてことはすぐにわかったけれど。
「いやプリントじゃなくてさ」
楠木くんは、私と同じスピードで階段を上がっているようだった。いつまでも姿が見えない。
「そこそこ大きい学校とは言え、果穂ちゃんはなかなか目立つよ。少なくとも僕にとっては」
「何を言いに来たの?」
「言いに来たんじゃないよ。偶然会って、偶然同じ方向に進むようだから、今が伝え時かなって」
「……何を?」
「僕とは正反対だって、前から思ってたんだ」
「それで?」
「似てるなぁって」
「……よくわからない」
「だから、立ち止まり処を紹介したいと思ってた」
「紹介できてよかったわね。あれは散々だっ……きゃっ」
つかみ所のない会話に気をとられたからか、私は階段を踏み外した。左手でプリントを抱き込み、反射的に右手を少し上の段に付く。偶然、顎でプリントを押さえる形になり、何とかばらまかずに済んだ。慌てて姿勢を正し、小走りで残りの段をあがる。
「今にも崩れそう」
「あんたといると上手くいかない……!」
やっと三階に辿り着く。しばらく廊下を進んで、そっと後ろを振り返ると、楠木くんの後ろ姿が見えた。
★
試験期間であるこの一週間は、苦痛で仕方なかった。ここのところ不調だったとは言え、こんなに努力が報われなかった経験はない。全力を尽くしたはずの勉強の成果は、まったくと言って良いほど発揮されずに終わった。
金曜日。終業式を終えてすぐ、私は教室を飛び出した。時間は無駄にできない。もう一度計画を立て直そう。大丈夫。まだ持ち直せる。早く帰って――
昇降口で、私はぴたりと足を止めた。視線の先には、柱に寄りかかって、軽く腕を組んでいる男子生徒が約一名。その瞬間泣きつきたいような気持ちになった自分を、私は認めたくなかった。
「あの日! あんたに会わなかったらもう少し勉強できたはずなのに!」
競歩かと思われそうなほどの急ぎ足で歩きながら、私は楠木くんに怒りをぶつけた。
楠木くんは曖昧にあいづちを打つ。隣に並んで歩いているのに、私ほど忙しない動きに見えない。歩幅の違い? 要するに足の長さの違い? 胸の奥がほんの少し熱くなった。不機嫌さと入り混じって、それが何なのかは突き止められないけれど。
「私、今の高校は第一志望じゃなかったの。だから大学に受かることで取り戻さなくちゃいけないの」
「何を?」
「え?」
「何を、取り戻すの?」
……すぐに答えが浮かばない。でも、大切なもののはずだ。私が取り戻したいのは。
「えっと……、無駄にした、時間よ」
そうだ。時間は大切。時間さえあれば解決できることは多いと思う。
「じゃあ、取り戻したらどうなる?」
「どうって……ああもう、とにかく私は理想の大学に入りたいの。でもそのためにはもっと成績をあげなくちゃ」
「ふぅん……」
何かを考え込んでいるのか。でも楠木くんの発言はつかみ所があまりない。意味ありげな振りをしているだけなのかも、と私は思った。
「でも、あんたは赤点ライン超えれば満足なんでしょ? いいわね、楽勝な目標で。でも大学はどうするの? 推薦は取れないでしょ? そんな成績じゃ真っ向から勝負するにしても」
「大学は行かないよ」
「は……?」
私は耳を疑った。その拍子に、歩く速度が若干緩む。
「別に行きたいところないし。……それよりもっと面白いもの知ってるし」
唇の端を少しだけつり上げて、楠木くんは横目で私を見た。
「面白いもの……?」
「勉強はもう面白くないし。その先にあるものに魅力を感じないし。……それよりも」
私は楠木くんの横顔を見つめた。視線でその先を促す。意味ありげに微笑んで空を仰ぐその様子に、私は焦れた。早く、早く続きが知りたいのに。
「果穂ちゃんさ、幼稚園の卒園アルバムに、大きくなったらなりたいものを書いた覚えない?」
予想外の言葉に私は面食らった。
「さ、さぁ……?」
「ぼくはね、ジュース屋さんって書いたんだ。いや、書いたのは先生だけどさ。ジュース屋さんなんて目指してる幼稚園児はぼくだけだったろうなぁ」
「……そのときよっぽど喉が渇いていたんじゃないの?」
「違う違う。きっかけは色水遊びだったんだ。絵の具を水に溶いてコップに入れたりして遊ぶの、わかる?」
「……想像はできるけど。それで?」
「それがものすごくおいしそうに見えて。だってその頃、ぼくはせいぜいりんごジュースとオレンジジュースとぶどうジュースしかカラフルな飲み物を知らなかったんだよ。でも世の中には青い水やらピンクの水やらがあるってわかった途端、夢が膨らんだんだ」
「……それは色水であって飲み物ではないって、いつ気付いたの?」
「それがさ、青やピンクの飲み物は存在するんだな。五年生くらいだったかなぁ。映画で見たんだ。……カクテルだよ」
「……お酒じゃない」
「お酒も飲み物でしょ。おこづかいをためてカクテルのレシピ集を手に入れた日にはもう嬉しくて。でも小学生がカクテルの材料を揃えるには無理があったんだよ」
「でしょうね」
「結局レシピを集めるだけにとどまったんだけど。……でもやっぱり実際に作ってみたくて、一度、レジにお酒を出してみたことがあるんだ。お父さんのコート着て、帽子かぶって。もちろん子どもだって即効バレたけど、怒られなかった。未成年っていう言葉が似合わないくらいガキすぎて」
「バカみたい」
私は思わず吹き出した。楠木くんは笑いながら、バカだったんだよと言った。
「でも自分で飲み物を作るっていうのに目覚めてさ。それを知った叔父が――あのカフェのオーナーだけど――色々、カラフルな飲み物の作り方を教えてくれたんだ。簡単なものばかりだったけど、それが楽しくて。放課後にカフェに入り浸る小学生なんて、粋だよね。ちなみにその頃、あのカフェのことは《色水工場》って呼んでたんだ」
「……ずっとそういうことを追求して生きてきたの?」
すると楠木くんは肩をすくめて言った。
「いや、中学は高校受験のために必死だったし、高校に入ってからも勉強に時間を取られてなかなか」
「……ふうん」
「だけど三年になって勉強をやめた」
「やめたってそんな簡単に」
「簡単に断ち切ったわけじゃないよ。勉強が嫌いなわけではないし、良い成績をとることに批判的な理由も別になかったし。でも勉強してどうなる、その時間の意味はって自分に問いかけたら、よくわからなかった。そこでね、あるところに考え事をするのにぴったりな場所があって、そこに何日も通って悩んだ。……そんなわけであそこは《立ち止まり処》に改名したんだけどね」
信号が点滅した。当たり前だけれど、楠木くんは立ち止まった。私もそれに倣う。
「三年になったら途端に受験モードに突入したでしょ。立て続けに試験があって模試があって。試験中にもかかわらず宿題が出て、進路指導のプリントを配りまくって、周りのみんなが焦り出して。でもぼくにはその目的が見えなかったんだ。行きたい学校も見つからないし。……でも、やりたいことはあった」
私は黙って、赤い信号を見つめていた。いつもなら早く青になれと念じるけれど、今はそんな気分じゃなかった。
「ある日叔父がね、バイトしないかって言ってくれたんだ。何日も、もしかしたら一週間以上かもしれない、外のベンチで物思いに耽っているぼくを見て、きっと本音を読み取ってくれたんだと思う」
信号が青になり、私たちは同時に一歩を踏み出した。けれど、楠木くんの一歩の方が、私の一歩よりも少しだけ大きかった。同じリズムで歩いているのに、楠木くんは私の前へ前へと行ってしまいそうで、私はそっと歩調を速めた。
「バイトを初めて、本格的な道具で色々な飲み物の作り方を教えてもらって」
私は楠木くんの横顔を盗み見た。くっきり刻まれた笑窪。そのときのことを思い出しているのだろうか。本当に嬉しそうな、笑顔。
「今すぐ正式に雇ってくれって頼み込んだけど、さすがにそれは許してくれなかった」
「そうでしょうね」
「でも頭ごなしにダメって言うんじゃないんだよ。今すぐには無理っていうだけで。雇ってくれる約束はしてくれたんだ。条件は高校を無事卒業すること」
「……それで」
合点がいった。楠木くんは、退学や留年を免れさえすればそれでいいのだ。素行はきっと問題ないだろうから、試験で赤点さえ取らなければそれでいい、と。
「そんなこと、考えもつかなかった」
私は下を見たまま呟いた。間延びした影がゆらゆら揺れる。
しばらく、沈黙が続いた。
何かを考えたかったけれど、何から考えたらいいのか、それすらもわからなかった。
……ようやく頭に浮かんだのは、色水だった。
赤、青、緑……絵の具には他にどんな色があったろう。紫、ピンク、オレンジ……何色かを混ぜ合わせても綺麗かもしれない。思わず口にしたくなる気持ちが、わかる気がした。楠木くんがそこまでこだわる《色水》を、私も味わってみたい。思った瞬間、言葉にしていた。
「私も何か……飲んでみたい」
「喜んでお作りいたしますよ」
楠木くんはそう言って、少し考え込んだ。
「うーん……でも残念ながら今日はカフェ、定休日なんだよね。勝手に材料を使うわけにいかないし……」
「特別な材料とか道具が必要なの?」
「いや、家でも作れるものがほとんどだけど……せっかくだから、《立ち止まり処》で飲んで欲しい」
「……なら、明日はどう?」
「そうだね。ぜひおいでよ。……場所は覚えてる?」
「記憶力はいい方よ」
「そりゃ失礼。じゃあ、昼頃に」
私たちは笑い合った。久しぶりだ。こんなに楽しい帰り道は。
信号で立ち止まるたびに、赤のまま固まってしまえばいいと思った。けれどもいくら念じたところで、信号は素早く青に切り替わる。
四つ目の信号を渡り終えたところで、私たちは別れた。私は何度も、そっと後ろを振り返った。
翌日。明け方から風が強かったせいか、私はとても早起きをしてしまった。
テレビを付けたり、音楽を聴いたり、ベッドに寝転んだりしてみたけれど、どうにも集中できない。机の上にそびえる宿題の山を眺めてみたが、あまりやる気が起こらなかった。約束の時間にはまだまだ早い。時間があるなら少しでも進めなきゃ、と自分に鞭打つ今までどおりの私を無視して、何か別のことを囁く私の声が、聴こえる気がする。
ふと思い立って、私は押入れの奥から卒園アルバムを探し出した。ダンボールにマジックで中身を細かく記してあるから、すぐに見つかった。
……ゆっくりとページを繰る。そして、見つけた。私の担任の先生とのツーショット写真が貼られた隣に。
おおきくなったらなりたいものは? ――けーきやさん。
思わず頬が緩む。ケーキが大好きだっただけでしょ、と呟いて、私はアルバムを閉じた。
その時。
ざわめきのような雨音が聞こえた。出窓に駆け寄って外を見る。舗装道路が見る間に真っ黒く濡れていく。
私は家を飛び出した。色落ちしているジーンズやよれたTシャツを気にしている余裕はなかった。スニーカーはかかとを踏んだまま。適当に掴んだ傘は、次のゴミの日に出そうと思っていた、骨が折れているビニール傘だった。
先週の日曜日、歩いた道を逆から辿る。徐々に早足になり、しまいには駆け足になった。
今日は妙に軽い。走りながら私は思った。風の抵抗を受けるいびつな形の傘は確かに邪魔だけれど、不思議と走りにくさは感じない。
しばらくして、私は気付いた。きっと、余計な荷物がないからだ。顔にあたる風や雨がやけに気持ちよくて、私はさらにスピードを上げた。
足音が響く。静かな道。両脇に並ぶ住宅からは、あまり人の気配はしない。少し曲がって車庫入れされた車が、微笑ましく感じた。
やがて、私は立ち止まる。
柵に囲まれた小さな庭に、赤い大きなパラソル。その下のテーブルには、絵の具で色を塗ったようなカラフルなグラスと、ガラス製のポットがあった。
「おいでよ。そのオンボロ傘よりこっちのほうがずっとまともだよ」
そう言って楠木くんはパラソルを指で弾いた。水滴が散って雨に仲間入りする。
私は傘を柵に立てかけて、小走りでパラソルの中に入った。
「おはよう。昼頃って言っといたから、そろそろ来ると思ってた」
手首を見て、時計を忘れたことに気付く。
「ご、ごめんなさい、ちょっと、早めに来ちゃった。……まだ九時くらい?」
楠木くんは、少々大げさな仕草で腕時計を見て、うなずいた。
「うん、八時二十分だね。座って」
楠木くんはポットを手に取った。妙に気恥ずかしくて盗み見た横顔は完全にポットに集中していたので、私はそそくさと、丸太を立てたような椅子に座った。グラスに注がれたのは、少しミルクを混ぜたような、やわらかいピンク色の飲み物だった。
「綺麗……。これ、何?」
赤いパラソルが反射する表面を見つめながら私は尋ねた。
「さて何でしょう? 飲んでみて」
私はゆっくり口を付けた。一口。冷たい液が喉を通っていく。可愛らしい見た目に反して、なかなかすっぱい。
レモン? と思ったが、この色でレモンは的外れだろうか。着色料ということはないと思うけれど……
「ピンク・レモネード」
楠木くんの言葉に私はさっと顔を上げた。
「今考えてたのに!」
「あはは、ごめんごめん。でも顔に降参って書いてあったから」
何か言い返そうとしてやめた。無邪気に笑う楠木くんを見ていたら、笑い返すのが正しいような気がした。
その時、庭に面した窓が開いた。
「いらっしゃい」
楠木くんとそっくりな笑顔のおじさん。たぶんカフェのオーナーで、楠木くんの叔父だろう。
「おはようございます」
立ち上がって、軽く礼をする。
「楽しんでくれているようで、何より」
「叔父さん、今日はここ、貸し切り」
「それはどうも、失礼。……まだ開店前なんだがなぁ」
おじさんは私を見てウインクすると、窓を閉めた。けれど甥のようすが気になるのか、カーテン越しの影が何度も行ったり来たりする。
「あれ、話した叔父さん」
「優しそうな人ね」
「今日はここ貸し切りだから、ゆっくりしていってよ、閉店時間は気にせず。……まだ開店前だけど」
私は座りなおして、ピンク・レモネードをもう一口飲んだ。
「……そのつもり」
楠木くんはポットから自分の分を注いで、一口飲んだ。
「でも家に帰って宿題やらなくていいの? たくさん出たみたいだよ、噂では」
からかうように言うその表情が憎らしい。
「一日くらい大丈夫よ。……それに、たまには立ち止まってみてもいいでしょ」
「へぇ……」
楠木くんは少しだけ目を丸くした。別に何でもないことのような顔つきをして見せると、じわじわ楠木くんの頬が緩んだ。
相変わらず、雨はパラソルの上で跳ねている。短く刈られた芝生からは、ほのかな土の匂い。雲間からは、わずかな光がもれている。
「またおいでよ。今度は晴れた日に」
私はうなずいて、想像してみた。晴れた日の《立ち止まり処》は、どんな感じだろう。そして思い直す。想像するより、この目で確かめた方が早い。ただし。
「大量にあるらしい宿題を終わらせたらね」
楠木くんは肩をすくめて、斜め上に広がる空を見た。
「できるだけ早く終わらせて欲しいな。……そしてぼくに写させて」
「……考えとく」
さて、いつまでに終わらせればいいものか。
私は今後の予定をぼんやり考え始めた。