3-3 自己嫌悪の末、青年は逃避する
洸平視点。
喫茶カノンのドアから約100メートル程離れた道端…まだ日が高い空の下、僕は煙草をくわえていた。
サングラス越しにでもビシビシと当たる太陽光線が、適度に気分を害してくれる。
…別に気が狂ったわけじゃあない。
ただ…あの店内にいるよりは、ここの方が何倍かマシってだけのことだ。
事の発端は数分前、千里ちゃんが僕に抱きついてきたことから始まった。
「あ、あの…千里ちゃん?何してんの?」
僕は、自分の体を拘束している人物に問掛けた。
か女の子って柔らかいな…って…んなこと考えている場合じゃない!
店中の視線が僕に向いている、特に後方…雪のいる辺りから刺すような視線が…。
「へぇー。千里、やるじゃないか。」
「彼方さん!感心してないで助けて下さいよ!」
僕は口笛を吹く彼方さんに怒鳴った。
何がどうなってこうなってるんだ!?
僕は背中から冷や汗が吹き出るのを感じた。
「九条さんの…馬鹿…。」
「へ?」
僕の胸に押し付けられた顔から、か細い声が漏れる。
声の主、千里ちゃんは突然顔を上げた。
「九条さんの馬鹿!」
な、泣いてる…!
「半年近くも顔出さないで…!ライヴに行ったって遠くから見るだけで話せないし…!私、どうしたらいいかわからなくて…!」
「………。」
僕は千里ちゃんの頭を撫でた。
…男というものはえてして女の涙に弱いものだ。
上目使いなら直のこと…こうする他に方法が見当たらない。
「兄ちゃん!女の子泣かすたぁ最低だぞ!」
「そうよ!半年も会いに来ないなんて最低よ!」
次々に騒ぎだす一般客達。
…いや…確かに僕が全面的に悪いんだけど…居心地悪い…。
いや、不謹慎だな、こんな事を考えているなんて…全て僕が招いたことなのに。
「千里ちゃん、ごめん。言い訳のしようもないよ…。」
「………。」
「ここ最近、自分の事しか考えてなかった。馬鹿みたいだろ?」
ここ最近の僕は、酷かったと自分でも理解している。
「ライブでは大切な相棒を叩き折り、雑誌のインタビューでも一人でガキ臭い真似をして…。」
自分に腹が立ってくる。
今まで自分を支えてきたものが何だったのか…それすらも忘れて…すべて面倒くさいと放り投げて。
こんな自分を…彼方さんや、千里ちゃんに見せたくなかった。
「…僕は…。」
そこまで言うと千里ちゃんは僕の唇に手を当てた。
「もう…良いです。反省してるなら。」
「でも…。」
「でもも何もないですよ。」
…そんな簡単に済まされることじゃない。
「ちゃんと…ここに来てくれたじゃないですか。それだけで、充分です。」
なんというか…女の子って卑怯だ。
上目使いの笑顔、これはもう立派に兵器として分類して構わないと思う。
千里ちゃんはふと恥ずかしそうに目を反らす。
「これからは…ちゃんと顔見せに来てくださいよ…?」
「………。」
きっと…僕は何年たっても千里ちゃんには敵わないだろう。
この喫茶店で過ごした一年間、彼女はどれだけ僕のことを知ろうとしてくれたのだろう?
人は一人では生きられない…それを、しっかりと学ばされたような気がする。
「アイスティーとチーズケーキ、下さい。」
耳に入る聞き覚えのある凛とした声。
一瞬にして店内を静寂が包む。
皆が一斉に声のする方向を見ると、そこにはカウンター席に座る…雪?
…なんだあのオーラは!?
「早くしてくれません?」
言いながらにっこりと微笑むその目線は、確実に僕に抱きついている千里ちゃんに向いている。
なんだこのプレッシャーは…冷や汗が止まらない。
「…雪ちゃん!?なんでここに!?」
「千里先輩。ここは店、私は客。」
千里ちゃんは、雪の顔を見て驚愕に目を見開いている。
あの二人…知り合いだったのか?
「どういうこと!?なんで雪ちゃんが九条さんと一緒に居るの!?」
「そんなことはどうでもいい。早く紅茶とチーズケーキ。」
「ぐっ…少々御待ちください…。」
ただならぬ空気を纏いつつ、千里ちゃんはキッチンへと向かう。
ようやく体の自由を得た僕は、さりげなく店の端へと非難する。
…なんだか情けない…。
店の隅っこでは既に大樹も撤退を済ませていた。
大樹は身を屈めながら僕に近寄ってくる。
「…兄貴大丈夫か?」
「なんとかね…。それより大樹…あれ、どういうこと?」
大樹は僕に小声で耳打ちをする。
「千里先輩は俺達の高校の先輩なんだ。俺は名前しか知らないけど、雪は知り合いらしい。」
「いや、偶然にも程があるだろ!」
僕はカウンター…いや、戦場に目を向けた。
なんの因果か…義弟達が来てからトラブルばっかりだ…!
これがどっかの神の御心によるものだというなら、いつか抗議文を一分に一通毎日送ってやる…。
それでストレスが溜まってハゲればいいんだ!
「それよりさ、兄貴こそ千里先輩とどういう関係なワケ?」
「…どういうって…前のバイト仲間だよ。」
大樹は目を丸くして僕を見る。
「それこそすげぇ偶然…。ってか兄貴って女垂らし?」
「は?」
「いや…だって!でもなきゃさっきのアレはどう説明すんだよ!?」
アレ…?
…抱きつかれたことか?
「説明もなにも…僕が説明してほしいぐらいだよ。」
「兄貴…それ本気で言ってるんだとしたら。相当鈍いんだな…。」
哀れむような視線を向けてくる大樹。
………。
ガスッ!!
「いてっ!なんで殴るんだよ!?」
「なんかムカついたからに決まってるだろ…。」
なんのことだか判らないけど、コイツに言われるとイライラする。
「…お待たせしました。アイスティーとチーズケーキになります。」
「ありがとう、千里先輩。」
「いえいえ、ごゆっくり…とでも言うかと思ったの!?どういうことか説明してもらいましょうか!」
…何か嫌な予感が…!
雪は表情を変えずに言う。
「私、お兄ちゃんと同棲してるの。」
何故……そこで同棲と…?
「兄貴…逃げたほうがいい…!」
「わかってる…。」
危機を…生命の危機を感じる!
運動はあまり得意じゃないが、それでも今は走らなければ!
僕は全力でドアまで走る。
たった数メートルの距離なのに、今はとても遠い。
ガシッ!
「何処に行くんだ洸平。今一番面白いところじゃないか。」
「彼方さん、10秒以内に離さないと殴りますよ。」
「おいおい…ごはぁ!!!」
僕は肩を掴む彼方さんを黙らす。
「まだ1秒しか…。」と店中の人間が呟いている声が聞こえたが、今は無視。
「兄貴!事情の説明は俺に任せろ!!」
「大樹…!ありがとう!!」
大樹…お前は義兄思いの良い義弟だ!
僕は勢い良くドアを出た。
そして今に至る…か。
あれから約20分、大樹は上手く仲裁できたのだろうか?
「お兄ちゃん。」
僕は耳に入った声で意識を戻した。
雪はいつもの無表情(例のオーラは纏っていなかった)で僕を見つめていた。
どうやら仲裁は成功したようだ、大樹…お前はやれば出来るヤツだと思っていたよ!
「雪。」
…雪の雰囲気が何処かおかしい。
なんというか…寂しそうな…。
「邪魔して…ごめんなさい。」
唐突に頭を垂れる雪。
なんだ…そういうことか…。
僕は彼女の傍に歩み寄る。
言わなくてはならないことがある。
「謝るのは…僕の方だよ。」
「え?」
雪は目を丸くして僕を見つめる。
「今日は折角のお出掛けなのに、ほったらかして…ごめん。」
「………。」
「本当に悪かったと思ってる。」
…あんなにはしゃいでいたのだから…ほったらかしにされて嫌だったに決まってる。
雪はしばらく下を向いていたが、すっと僕のシャツの裾を掴む。
「…どうした?」
「…お詫びに…。」
お詫び?
お詫びに何かして欲しいのか?
「…私も…抱きついて良い?」
「へ?」
………。
いや…こんな街中…それも真昼間に!?
第一お詫びに抱きつくってのもどうだろう!?
むしろ僕が悪い事をしたのになんで抱きつかれるって事になるんだ?
僕は雪を見ながら冷や汗を垂らした。
雪…睫毛長いなぁ…って!そんな事考えている場合じゃなくって!!
とにかく何か言わなきゃ!!
「いや…その…さ。」
「冗談だよ。」
クスクスの笑う雪。
僕としたことが…またからかわれた…。
僕は雪を睨みつける…。
あ、そういえば…雪の笑顔はこれで2回目だ。
「やっぱり…笑顔の方が似合ってる。」
僕がそう言ったとたん、真っ赤になる雪。
今度は僕が笑う番だ。
「雪、顔真っ赤だよ。」
「う、うるさい!」
なんだ…いろんな表情できるんじゃないか。
僕は何時の間にか自分の顔がほころんでいるのに気付いた。
…雪のことを知れて…喜んでいる…?
あんなに新しい同居人を煙たがっていた僕が?
…千里ちゃんの言葉で、僕は少しは変われたのかもしれないな。
「お兄ちゃん。」
耳に入った声で思考を止める。
雪の顔はいつもの無表情に戻っていたが、なんとなく嬉しそうに見える。
「買い物、行こ。」
「うん。」
お兄ちゃん…兄貴…なんかまんざらでもないな…。
ん…?
…何か忘れてる?
「そういえば大樹は!?」
「マスターが…制服の寸法を測るからって、部屋に。」
「………。」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!兄貴ぃぃぃぃ!!!!」
喫茶カノンに絶叫が響いた。