b-4 水浴び
本筋より約1年4ヶ月前、河瀬彼方視点。
「彼方さん!!やめて下さいって!!」
「いいだろ、せっかくなんだからさ。」
俺は後ろから必死に手を伸ばす洸平を無視し、プレーヤーにCDを挿入した。
CDのジャケットには、『D.C.W』の文字。
つまり俺が挿入したCDというのは、洸平の所属するバンド…D.C.Wのインディーズデビューシングルというワケだ。
「せっかくだからって…わざわざ店で流すことないでしょう!?」
「だって〜俺も早く聴きたいし〜。でも仕事中だから部屋では聴けないし〜。」
「はぁ…持ってくるんじゃなかった…。」
洸平はため息をつきながらトボトボとカウンターへと歩いて行く。
俺はそんな彼の姿を…複雑な気持ちで見送っていた。
俺は憂鬱を振り払うと、プレーヤーの再生ボタンを押した。
激しいドラムとエレキベースの連鎖…それに織り重なるエレキギターの音色。
イントロだけでわかる…巧い…いや、それを判断するよりも先に曲としての不可解さ…。
激しいドラム…ベースはそれを意にも介していない様子でシンプルな音色で流す様に単音をつむいでいく。
ギターは一見不興和音ともとれる特異なコードを、ベースに合わせて刻んでいる。
型破りな曲構成…しかしまるでそれが当然かのように耳に吸い込まれていく。
激しいパンクロックやグランジを聴いているようで、激しめのジャズを聴いているような…不思議な感覚。
俺はCDから歌詞カードを抜き取る…が、そんなものに目を通してる余裕は数秒後にはすでになかった。
「………!」
あれだけ激しく鳴っていたドラムとベースの音が消え、ギターの刻む音だけが残った…と思った瞬間、ドラム、ベースと共にボーカルが出現する。
「…なんて声で鳴きやがる…!」
俺は軽く鳥肌が立ったのを感じた。
もうすぐ10時、喫茶店としては比較的遅い時間まで営業しているが、この時間にはもう店を閉める準備を始めている。
俺はカウンターで小さく溜め息をついた。
「…やっぱ…そうなるわな…。」
始めから…あの男から受け取った名刺を洸平に渡した瞬間からわかっていたこと…。
洸平は…近いうちにこの店から居なくなる。
D.C.Wは、確実に売れる。
あんな強烈なCD作っちまったんだ…これからは忙しくなるに違いない。
「…マジで気に入ってたんだけどなぁ。」
「彼方?」
俺が声の方を見ると、妹の千里が手に食器を持って立っていた。
すぐさま顔に笑みを貼り付ける。
「ど〜した?」
「いや…なんだか彼方…寂しそうじゃない?」
俺は千里の言葉を鼻で笑う。
「寂しいって何で?今日は最高に良い日だ、洸平のバンドがデビューしたんだからね。」
「………。」
口をつぐむ千里。
なんだかんだ言ってこいつも俺の妹だ…俺の雰囲気がいつもと違うことぐらいわかっているのだろう。
…そしてその理由も、直ぐに読み取ってしまうに違いない。
「…千里、わかってるだろ?」
「うん…わかってる。」
千里は俺から目を反らす。
俺はおもむろに立ち上がると、通りすがりざまに千里の肩に手を触れた。
「まぁ今直ぐってわけじゃないし、そんなに気にすることはないさ。」
「…彼方が一番気にしてるんじゃないの?」
「鋭い!そんなことより早く飯作れよ〜。俺今日女性客の相手でクタクタなんだ。」
まったく…本当に兄妹ってのは厄介なもんだな…これでもポーカーフェイスは得意なんだけど。
俺は千里にヒラヒラと手を振ると、店の奥の階段を上る。
ふと登りきった廊下の正面…洗面所のドアが開くのが見えた。
「あ、彼方さん。風呂、借りました。」
………。
そこにはトランクス一枚だけ履いた、半裸の洸平。
濡れた髪に軽く湿ったその引き締まった身体…。
そうか…そうだったのか…!!!
「洸平…とうとうその気になってくれたんだな!?良し、今すぐベットに行こうじゃないか!大丈夫!!こういうときの為に準備は万端だ!!カモン!!マイスウィート!!!あべし!!」
「よ、寄るな!!この変態!!」
ふふふ…今のお前になら殴られたってかまわなさいさ…!!
この状態の俺様から逃げられると思うなよ?
「洸平〜♪」
「気持ちわるっ!!クソッ!!くるなぁぁぁ!!」
俺は地面を這って洸平へと接近していく。
もう少し…もう少しでその美しい足首を掴む事が出来る…!!
後…後…少し…!!!!
「…かぁなぁたぁ?何やってんの…よ!!!!」
「ぐはぁっ!!!!!!」
俺は頭部に激しい衝撃を感じ、のた打ち回った。
後ろを見ると、そこにはフライパンを振りかぶった千里がたたずんでいた。
「九条さんの叫び声がしたから急いで来てみたら…!!そこまで変態だと思わなかったわよ!!」
「ち、千里…貴様…。ぐはぁ!!」
俺は再び頭部に衝撃を感じた。
フライパンは…危険…。
「ありがとう、千里ちゃん…。今日は流石に貞操の危機を感じたよ…。」
「どういたしまして…って!!…な、なんで裸…?」
「いや…だって僕風呂上りだし。」
「あっ、あのっ…綺麗なお身体で…あのっ…。」
「へ?」
「わ、私…何言ってるんだろう!?あの、すみません!!」
「は、はぁ…。」
「ご飯!!もう出来ますから!!!」
俺達兄妹にとって洸平はもう大切な家族だ。
だからこそ…笑って見送ってやろうじゃないか…。
俺は痛む…いや、モヤモヤとした頭を冷やす為、シャワーの蛇口を捻った。
この生活は…もうすぐ終わりを迎える。