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オルドリッチが知っている

作者: 小鳥遊

 いつもの喫茶店でいつもの水出しコーヒーを頼んだはずなのに、私にはその香りがさっぱり判らなかった。緊張のせいというわけではないが、何にせよ慣れないことをするものではない。今回の教訓はそれだ。

「世界一短い怪談を知っているかい?」

 かけられた言葉に頭を上げると、そこには馴染みの顔がある。対面のソファに座っている彼は私の店の常連客だ。だが『馴染みの』と表現したものの、こうして彼と喫茶店で話すという状況は、決して馴染み深いものではない。


 ちょうど30分前のことだった。

 今日も毎度の如くフラリと私の店にやって来て、彼は例によって幻想文学の棚を物色し始めた。彼はいつも、たっぷり1時間は棚の前を動かない。

 その首筋にじっとりと汗が浮かんでいるのに気づいて、我が古書店の経営状況に思い当たった。店の経済は芳しくないため、普段から空調設備は動かしていない。保存状態に注意すべき一部の貴重な書籍が収まる書庫以外については、夏の熱量に欲しいままにさせていた。

 そんなわけで、彼の横顔を見ていると何故だか申し訳なくなって、こう声をかけてしまった。

「よかったら、そこの喫茶店で涼みませんか」

 ああ。夏の暑さで魔がさしたとしか思えない。


 それから慌てて身支度を整えた後、今に至るという訳だ。

「世界一短い、怪談、ですか」

「うん」

 また怪談。彼は極度の怪談好きだった。彼との会話で怪談の話題が出なかった機会を、まだ私は経験していない。

 年頃の女子はこういう話題に目がない人も多いと聞くが、生憎私にはその趣味は無かった。けれども、怪談の話をする時に見せる彼の瞳の輝きのせいで、私は何も言えなくなるのが常だった。

「いいえ。聞いたことありません」

 仕方なしに彼の振る話題に応じる。まぁいい。何の会話も無しに時間を消費しているこの状況に居た堪れなくなっていたところだ。

「じゃあここはひとつ」

 オホンと大仰な咳を一つして、彼が語るには、こんな風だ。


"とある女が独りで自宅のソファに座っている。

この世界には彼女以外の生物は存在しない。全て息絶えてしまったのだ。

ドアのチャイムが鳴る。"


 高過ぎず低過ぎない絶妙のトーンで彼が詠み上げた文章は、店内に流れるシャンソンの賑やかさの中であっても、不思議と私の耳に染みこんできた。

「ナントカっていう海外の作家の作品だよ。よくできてるよね」

 へぇ、という感嘆の声が自分の口から漏れでたことに、私は遅れて気づいた。

 確かによく出来ている。装飾を徹底的に省くことで、却って怪談の本質が強調されている。余計なものを付け足さない状態が一番恐ろしくて、美しいのかもしれない。

 しかし、と私は思う。今回の話は、彼にしては常識的だし洒落ている。そして話自体は大して怖くはない。怪談狂いの彼の場合、その『まともさ』自体が問題なのだ。彼がこういう話をする時は絶対に何かがある。

「それで?その話を私に伝えたのはどういう意図からですか?単純に面白いと思ったからでしょうか。それとも」

「うん。正直を言えば、意図はあったよ」

 いやまぁもちろん、単純に面白い話だと思ったからだっていうのもあるけどね、と彼は言い訳のように付け足した。

「その意図っていうのは、何です」

「気になるかい?」

 彼の言葉を、私はじっと待つ。

「教えない」


「じゃあまた明日。いつものように君の店で」

 彼は少し躊躇うように微笑って言うと、席を立ち店を出ていってしまった。いつの間にか私の分の会計まで済ませてしまったらしい。一つ借りになってしまう。

 慌てて後を追って外に出るとムワッとした夏の空気が身体を包む。蝉の声も喧しい。周囲を見渡すが彼の姿は既になかった。だが構わない。どうせ彼はいつもの通り、あの棚の前にやって来るのだから。



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