デッドゲーム・12
二月一日(水)
PM 4:01
山岸孝則は一つの古ぼけたビルの前に立っていた。
ビルはすでに建てられて20年以上も経ったかに見える雑居ビルで、その3階に山岸の知り合いである梶川清吾の勤める『北川出版』がある。
芸能人のスキャンダルを中心にしたゴシップ雑誌を出版している。
事件記者である山岸とゴシップ記事中心の梶川ではほとんど接点はなかったが、一度だけ『デッド・ゲーム』についての取材をしていた時に二人は知り合った。
梶川は山岸よりも早く『デッド・ゲーム』について調査をはじめていて、山岸が調べ始めたときにはすでに記事として発表しようとしているところだった。だが、結局は梶川の記事は世の中に出ることはなく、山岸もまた編集長からの指示で当時発生した連続殺人事件の取材にまわることとなり、『デッド・ゲーム』からは手を引くことになった。
山岸はゆっくりとした足取りで3階まで階段をあがった。
妙に畑中弘子から聞いたデッド・ゲームのことが気になりはじめていた。
(ちきしょう……もう忘れたはずなのに)
そう思いつつも山岸は『北川出版』とプレートの貼られた歪んだドアを開けて中を覗き込んだ。そのけはいに衝立の陰から一人の女子社員が顔を出す。
「あら、山岸さん」
これまでも何度か遊びに来ているため、皆、山岸のことは知っている。
「よお――」
山岸は軽く右手をあげて挨拶した。「梶川いるかな?」
そう言いながらも山岸はそっと梶川がいなければいいと祈った。心のどこかで『デッド・ゲーム』のことを忘れたがっている自分がいる。
「ええ」
女性はすぐに顔を引っ込めると大声で梶川の名前を呼んだ。「梶川さーん、山岸さんがいらっしゃってますよー」
山岸はそのまま戸口に寄りかかって梶川を待った。やがて、一人の若者が奥から姿をあらわした。梶川は山岸よりも二つ年下で、以前は大手新聞社で新聞記者をしていたのだが、5年前に突然退社してこの出版社に入った変わり者だった。
「久しぶりですね。どうしたんです? 今日は」
「おまえこそ取材に行かずに事務所にいるなんて珍しいじゃないか」
「たまたまですよ。私だって事務所で記事を書くことだってあるんですから」
梶川は山岸の気持ちも知らずに笑った。
「なんか面白いことでもあるか?」
「そうですねえ。某テレビ番組のヤラセとか……ま、山岸さんが面白がるようなネタじゃないですね。それにしても本当にどうしたんです?」
「ちょっと……聞きたいことがあってな」
「なんです?」
「『デッド・ゲーム』のことなんだ」
その言葉に梶川の表情が一変した。
「今更どうしたっていうんです? なんで、今になってそんな話を?」
梶川は声を潜めた。
「うん……ちょっとな……おまえ、前に『デッド・ゲーム』について調べていたことがあったよな?」
「ええ……けど、もうあのことは忘れました」
「忘れた? 資料か何か残ってないか?」
「やめてください。そのことについては話したくないですよ」
心なしか梶川の顔が青ざめているように見える。
「ああ……わかってるよ。おまえだって記事を潰されたんだ。そのことを思い出したくないのは当然だろう」
「記事を潰された? 違いますよ……確かにどこかから圧力があったのは事実です。けどね、私はあの時、むしろほっとしたんです」
「どういうことだ?」
「記事は書きました。でもね……あの時の私は勢いで突っ走ろうとしてただけで、本当は怖かったんです。取材をはじめた頃から私には常に尾行がついていました。取材を止めるように警告もきました。それでも記事を書いたのは記者としての意地もあったし、編集長からの指示もあったからです。けど、内心はいつ殺されるんじゃないかってビクビクしてたんです……今だからこそ言えますけどね」
「そうだったのか……」
「だからもうあの件については話をしたくないんですよ」
「ならヒントを教えてくれないか?」
山岸はなおも粘った。
「いったいどうしたっていうんです? あれには関わるべきじゃない。山岸さんだってそれはわかっていたんじゃないんですか? だからこそ山岸さんもあれのことを調べるのをやめたんでしょう?」
確かに以前に一度調べたことで『デッド・ゲーム』には関わるべきじゃないということはわかっている。
「ああ……けど、俺の知り合いがちょっと巻き込まれてしまってるんだ。頼むよ」
一瞬、二人の間に沈黙が流れた。だが、やがて、梶川は決意を決めたように口を開いた。
「なら……一つだけ……藤堂恭一郎という男を調べてください。それが一番の近道です」
「藤堂恭一郎……?」
「私が言えるのはそれだけです」
梶川は山岸に背を向けると事務所のなかへと入っていった。
(藤堂恭一郎……)
その名前を山岸は頭のなかで繰り返した。
どこかでその名前を聞いたような覚えがあった。
二月一日(水)
PM 4:17
いつもならば早く一日が終わって欲しい、早く帰りたいと思うはずが、今日はまったく違っている。会社にいるこの時間こそが一番安全に感じられる。会社の人たちの目がある限り狙われることはないだろう。
早紀はPCにむかう叩く手を止め、窓から差し込む西日に目を移した。
陽が落ちてゆくのが窓から見える。
夜がくることがこんなに怖く感じたことはこれまでなかった。
今朝の電話のことが気になった。
――殺してやる。
ただのコールマン。そう、そのはず……だった。
それなのに、なぜこんなに気になるんだろう。他の四人のカードマン、彼らは今どう動いているのだろう。すでに私のことを見つけだしているんだろうか。
(私を見つけ……そして、殺すために)
そう思うだけで背筋がぞくりとする。
なぜ、私はこんなことを考えていなければいけないんだろう。
早紀は去年の自分を思った。
去年の自分はもっと違うことを考えていられた。交際しはじめたばかりの彼のこと。そうだ、あの頃はそんな時期だった。今はもう別れてしまったけれど、あの頃は毎日そのことばかり考えていられた。
彼は今何をしているんだろう。
「早紀ちゃん、どうかしたか? ぼんやりして」
ぽんと肩を叩かれ、びくりと身をすくめ振り返ると打ち合せから戻ってきた課長が馴々しく笑っている。
「あ……いえ」
「さっさと帰りたいって顔しているな。デートの約束でもあるのかい?」
「いえ、そんなことないですよ」
それならどんなにいいだろう。
でも、もう彼はいない。ほんの些細なことが原因で去年の秋に別れてしまった。
「デートかぁ。若い人はいいなぁ」
早紀の言葉を無視するように課長はニヤニヤ笑いながら席についた。
小さな冗談でも今の早紀には不愉快にしか聞こえない。だからといってそれを顔にだすことは出来ない。
早紀はもともと会社の人と親しいつきあいはしないことにしている。忘年会、新年会、それと歓送迎会を除いては飲み会にも出ないことにしていた。人付き合いが元来苦手だということもあった。けれど、それ以上に会社という組織が好きになれない。
会社のなかの多くの人が多くの考えを持ち、それでも一つの組織に無理にまとまろうとしていることが不気味に思えるのだ。
それよりも――
一瞬、頭のなかをよぎった考えにぞっとした。
(もし、この会社のなかに残りのふたりがいたら?)
カードマン五人のうちの三人はわかっている。だが、まだ二人の正体はわからないままだ。場合によってはその二人が早紀の身近にいるという可能性だってありえる。
(この会社のなかにも……)
ちらりと課長の顔を横目で見た。
そう、課長がカードマンかもしれない。それとも……
そう考えるとこの会社にいることも怖くなってくる。
いや、考えないほうがいい。考えれば考えるほどわからなくなってくる。
早紀は考えを振り切るようにまたPCのディスプレイに視線を向けた。