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第1話 有罪

「朝日奈透。有罪」


声は、頭の上から落ちてきた。


地鳴りのような声だった。遠くで大地そのものが唸っているような、低くて重い響き。言葉の終わりに、足の下の石畳が微かに震えた気がした。


暗い広間だった。天井は見えない。足の下の石畳だけが、妙に冷たい。俺の正面、一段高い場所に、巨きな影が座っている。顔までは闇が深くて見えない。ただ、目だけが合った気がした。


裁く者というのは、こういう姿をしているらしい。


「待ってほしい」


俺は自分の声が震えていないことを確かめてから、続けた。


「有罪は分かった。では罪状と、その根拠を聞かせてくれ。手続きというものがあるはずだ」


影の脇から、筆を持った小男が進み出て、巻物を広げた。


「朝日奈透。生前、医師。患者一名を、その判断の過ちにより死に至らしめたる罪」


「根拠は」


「手術記録、麻酔記録、ならびに同席せし医師の証言。そして――」


小男は、広間の隅に据えられた大きな鏡を指した。


「浄玻璃鏡。亡者の生前を映す鏡に、嘘は映らん」


なるほど。なら話は早い。鏡が真実だけを映すというなら、俺の無実も映るはずだ。俺はあの男を殺していない。


「映してくれ」


鏡が、静かに光を帯びた。


手術室の光景が浮かぶ。無影灯。モニターの波形。台の上に横たわる男。――その映像が、一瞬だけ、乱れた。


違う手術室。若い男の手。震える、メスを持つ手。


視界の端に何かが混ざっただけだと思った。だが、胃の底が冷えた。あの手は俺の手だった。十年近く前の、俺の手だった。


なぜ、今それが映る。


考える間もなく、映像はあの夜に引き戻されていった。


――三日前。午後十一時四十分。


救急外来に、多発外傷の男が運び込まれた。四十代。交通事故。骨盤は砕け、腹の中に出血が広がっている。血圧は七十を切り、意識はなかった。このままでは三十分ともたない。


「オペ室へ。輸血を走らせろ」


手術台に男を移し、俺は患者の右側に立った。対側に助手の外科医。頭側に麻酔科の三浦悠真。後輩で、俺の手術には何度もついてきた男だった。


開腹すると、腹の中は血の海だった。脾臓が裂け、腸間膜の血管が破れている。一つずつ結紮し、ガーゼで圧迫し、出血源を潰していく。俺の手は止まらなかった。止める理由もなかった。


「血圧、六十二」


頭側から、三浦の声。


「ノルアドレナリン、上げてくれ」


「上げてます」


モニターを見た。血圧は戻らない。波形の山が、なだらかに低くなっていく。


出血のコントロールは進んでいる。腹の中の血の勢いは、確かに収まりつつあった。なら、この血圧の戻らなさには、別の理由がある。


そう思ったのは一瞬だった。次の瞬間、心電図の波形が崩れた。


「心停止。――胸骨圧迫、始めて」


台の脇に回り、両手を組んで胸を押した。百回を超える圧迫のあいだ、俺はずっと考えていた。出血は止めた。輸血も走っている。なぜ血圧が戻らなかった。


午前一時二十二分、蘇生を終了した。死亡確認。死因は、大量失血に血圧の維持の失敗が重なった、多臓器の虚血だと、その場では結論づけた。


手術室を出て、廊下の自動販売機の前で缶コーヒーを買った。手が、微かに震えていた。


気になったのは、記録だった。


当直室に戻って麻酔記録を開く。昇圧剤の流量は「〇・一〇」。指示通りの量だ。だがシリンジポンプの履歴には、別の数字が残っていた。術中のある時間帯、ポンプは記録の半分以下の速度でしか動いていなかった。


数字が、合わない。


誰かが記録を書き換えた。そうとしか考えられなかった。


廊下で三浦とすれ違ったのは、その直後だった。


「先輩、お疲れさまでした。記録は、綺麗にまとめておきましたから」


振り返ると、三浦は笑ってもいなかった。


「先輩も昔、そうしてもらった側でしょう」


その言葉の意味を、俺はすぐには掴めなかった。


翌々日の事故調査で、三浦はこう証言した。


「執刀医の判断が遅れました。出血源の特定に時間をかけすぎたと思います」


会議室の空気が、静かに傾いた。全員の目が俺に集まる。俺は生データの食い違いを口にしたが、正式な記録は「綺麗にまとまって」いた。俺の手元にあるのは、ポンプ履歴の控えだけだった。


そして、数日後の当直明け。


早朝の当直室。三浦が点滴バッグを提げて入ってきた。


「顔色、最悪ですよ。せめてこれだけでも」


疲労回復の点滴。当直明けの医者にはよくある話だった。俺は断らなかった。今思えば、疲労で判断が鈍っていたのだと思う。


点滴が落ち始めて、数分後だった。


指先が痺れた。腕が鉛のように重い。立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。自分の橈骨動脈に指を当てる。脈が――飛ぶ。遅くなる。形が崩れていく。


高カリウム血症。


症状の並びが教科書通りだった。カリウムが急速に血中に入れば、心筋は伝導を失い、心臓は止まる。点滴に混ぜられたのだ。


犯人の顔は、思い浮かべるまでもなかった。


ナースコールまで二メートル。だが俺の体はもう動かなかった。声も出ない。死因は、自分で診断がついていた。


カリウムの過剰投与による、心停止。


最後まで、俺の頭は計算をやめなかった。投与速度と、致死域に達するまでの時間を。――ああ、間に合わないな、と。


静かに、鏡の光が引いた。


俺は広間に戻っていた。


「……見ての通りだ」


小男が巻物を巻いた。


「いや、見ていない」


俺は一段高い影を見上げた。


「鏡は事実を映すと言ったな。だが映っていたのは、切り取られた事実だ。ポンプの生データは現世にある。記録は人が書き換えられる。俺は患者を殺していない。そして俺自身は、あの後輩に殺された」


「――証拠は」


影が、初めて口を開いた。


広間の空気が一段沈んだ。地鳴りのような声だった。大きくはない。だが、その低さが腹の底に響いて、一言ごとに石畳が軋む気がした。


「ここには、ない。現世に置いてきた」


認めるしかなかった。俺の論理は正しい。だが証明する手段は、この広間には一つもない。


沈黙が落ちた。長い沈黙だった。――やがて、地鳴りが低く笑った。


「……面白い男だ」


「何が」


「八つの地獄を踏み抜いて、この間へ戻ってきた亡者など。――久しく、見ておらんよ」


意味を掴みかねて、俺は黙った。影は続けた。


「なら、やり方を教えてやろう。等活から阿鼻まで、八つの地獄を踏破して、ここへ戻ってこい。できたなら、お前の異議を聞いてやる。裁きを覆す機会も、な」


賭けだった。俺は条件を整理した。


「踏破の定義は。一層ごとに、何をもって越えたことになる」


「越えたきゃ分かる。越えられなきゃ、それまでだ」


「制限時間は」


「死んだ人間に、締め切りなどあると思うか」


「失敗すれば」


「その層で、永劫苦しむだけだ。……皆、そうしてきた」


条件は最悪だった。だが、他に道はなかった。俺は頷いた。


「受けよう」


転送の感覚は、一瞬だった。


灼けた大地の上に立っていた。空は赤黒く、地の割れ目から熱気が噴き上がる。遠くで、大勢の亡者が鉄の棍棒を振り回し、互いを打ち殺していた。


――風が吹いた。


涼しい風だった。その風が通るたび、潰れた頭が元に戻り、折れた腕が繋がり、死んだはずの亡者たちが起き上がる。そしてまた棍棒を拾い、殺し合いを始める。


蘇っては殺し合い、殺されては蘇る。等活地獄。死が、終わりにならない場所。


俺の背後で、誰かが言った。


「おや。珍しいね、自分から歩き出す亡者は」


振り返るより先に、涼風がまた一筋、死体だらけの大地を撫でていった。


(つづく)

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