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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

面会室

作者: 紡木 悠
掲載日:2026/08/12


 あの出来事から二ヶ月が過ぎた頃、あの子が訪ねてくるようになった。


 最初は一度きりの見間違いだと思った。

 眠れていなかったし、薬も増えていた。


 だから白い部屋の向こうに小さな影を見たときも、疲れているせいだと思い込むことにした。けれど次の週も、その次の週も、同じ時間になると、あの子はいつも先に椅子へ座っていた。


 面会室はいつも静かだった。

 壁は白く、床は音を吸い、消毒液のような匂いが薄く残っている。

 ここで泣いていた記憶だけが、まだ乾かずに染みついている気がした。


「今日も来たのね」

「うん、だってもう少し待てば、一緒に暮らせるんだよね」


 その言い方が無邪気すぎて、息を止めた。

 膝の上で指を組み直す。ここへ来るたび、指先だけがひどく冷える。


 本当に、会えることを期待して待っているみたいだった。

 そのたびに私は、やんわり拒絶する言葉を返す。

 それに対して、あの子はいつも悲しそうな顔で問いを返してくる。


「どうして?」


 その問いは毎回、少しずつ形を変える。


 どうして、会えないの。

 どうして、そっちへ行けないの。

 どうして、ひとりにするの。


「無理だったの」


 ひとりでは育てられない。お金もないし、意気地もなかった。

 眠っても、起きても、心は軽くならなかった。


 何もかもが足りなかった。拒む理屈はいくらでも並べられるのに、並べるほどに、それは事情ではなく、ただの言い訳に聞こえた。

 

「ごめんね」


 私たちの間には、決して交わることのない透明な仕切りがある。

 あの子は黙っている。


 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ待っていた。

 私が受け入れる言葉を、ここに並べるのを。


「……本当は、私も会いたかった」


 振り絞るように短く伝えると、影がわずかに揺れた。

 そのしぐさに見覚えがあって、すぐに打ち消す。

 似る相手などいるはずがない。

 抱いたことも、名前を呼んだことさえないのだから。


「じゃあ、どうして」


 目を閉じると、忘れたいものほど鮮やかによみがえる。

 息苦しさ、皮膚に残った跡、鈍い音、そして動かなくなったその後も、臓腑の奥に残って、こびりついて落とせないもの。


 そのどれも、いまさら言葉にしたところで何もほどけない。


「さみしいよ」


 その声は、今まででいちばん幼かった。

 胸の奥で、何かがゆっくり裂けた。


 この子が寂しいのか。それとも、自分がずっと言えなかったことを、私の代わりに言っているだけなのか。


 廊下の向こうで足音がした。現実が近づいてくる音だった。

 この子に残された時間はあとわずかだ。


 椅子から立ち上がる。

 もう恨みも未練もない。

 あるのは、鈍く沈んだ懺悔の気持ちだけだった。


「寂しくないよ」

「どうして」


 あの子が顔を上げる。

 まだ一つ、言わなければならないことが残っていた。

 伝えなくてもいい、残酷な言葉だと分かっているのに。


 胸の内側で、名前のない黒い感情が音もなく渦を巻く。

 それでも、せめて声だけはやさしく置こうとして、唇を開いた。


「あなたを待っている人がいるから」


 小さな目が、まっすぐ私を見た。


 それと同時に、透明の仕切りに映る自分の顔が目に入る。

 目が窪み、頬がやつれ、生気がなくて、まるで他人みたいだった。


 それから、ゆっくりと言った。


「きっと、あの男が待っているから」

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