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ばっちゃんの手紙と呪い

作者: 森下春
掲載日:2026/06/30

 ばっちゃんはいつも家の縁側にいた。太陽の方を向いて、古い揺り椅子に座っていた。特に何かするわけでもなく、まるで庭の草木と同じように、時を静かに刻んでいた。風が吹けば白い髪が揺れて、陽が傾けば皺だらけの頬に影が増えた。


「ばっちゃん。見て」


 僕は絵を描くのが好きだった。何度も描いては、ばっちゃんに見せた。ばっちゃんだけが、僕の絵をたっぷりの時間を使って観てくれた。


「紫陽花かい。綺麗だねえ」


 最高の絵だ。ばっちゃんはいつもそう言って、僕の頭を撫でる。皺だらけの手のひらは温かい。いつも太陽の温度を吸収していたから。


「将来は画家か漫画家さんかねえ」


「でもさ、ばっちゃん。絵だけで生きていくには才能がいるんだって。一握りの人しか無理なんだって」


「誰がそんなこと吹き込んだんかねえ」


「誰とかないよ。いろんなところで、いろんな人が言ってるんだ」


 ばっちゃんは目を細めた。

 亡くなったじっちゃんも考えごとをするときは、そうやっていた。


「そしたらこうするといい。自分の才能を疑いそうになったら、ばっちゃんに確かめに来なさい。おまえは天才だと言ってやる。分かるまで伝えてやる。おまえはそれを都合よく信じればええ」


「都合よく?」


「ああ。何を信じるかなんて、おまえ次第だ」


「分かった。約束だよ?」


「約束するよ」


 それから二週間後、ばっちゃんはコロっと亡くなった。

 いつもの縁側で、揺り椅子に座ったまま寿命を迎えたそうだ。

 さらに四十九日後、ばっちゃんのお骨はお墓に納められた。

 父さんはお墓の前で手を合わせて、また来るよ。と告げていた。


「ばっちゃんはもう喋らないよね?」


 僕が尋ねると、父さんは目に涙を溜めながら話した。


「そうだね。魂に口があればね。喋れたかもしれないのに」


 認めたくなかった。でも、やっぱりどうしようもないことだから、その事実を必死になって飲み込んだ。

 その日、家に戻ると一枚の手紙を渡された。ばっちゃんから僕に宛てられた手紙だった。僕は縁側の揺り椅子に三角座りで収まって、その手紙を読んだ。


 ばっちゃんの字はところどころ震えていた。

 濁点の位置もズレてるし、ひらがなばかりで読みづらかった。

 それでも僕はぐったりして眠るまで、何度も何度も手紙を読み返した。特に最後の一文を僕の宝物にした。


『おまえは天才だ。自分を疑いそうになったら、何度だってこの手紙を読み返しなさい。大丈夫。おまえは天才だ』


 これから先、幾度となく読み返すその手紙に、僕は涙でたくさんの染みを付けた。




  *

「また泣いてる」


 その声で、うたた寝から覚めた。顔を上げると、美術部顧問の浜辺先生が僕の絵を見つめていた。


「あなたの絵には、いつも涙があるわね」


「そうでしょうか?」


 僕は寝ぼけまなこで答えて、椅子に座り直した。

 描きかけのキャンバスに桜の花びらがくっついていたから、それを指ではらった。

 校舎の角にある美術室は日当たりが良い。

 山の稜線へと飲み込まれていく太陽がオレンジ色の粒子を放って部屋を満たしている。


「無自覚なの? おどろいたわ」


 ばっちゃんが亡くなってから十年が経ち、僕は高校三年生になった。涙で染みたあの手紙を読み返した回数は二桁では足りない。


 だからなのだろうか。


「うわっ、上手っ!」


 浜辺先生の横から、美術部員のひとりが僕の絵を覗き込んだ。

 それを皮切りに、他の部員もぞろぞろと集まって周りを取り囲んだ。

 皆が思い思いに感嘆の声を上げる。

 僕はこの十年間、絵を描き続けた。その甲斐あって、美術部の中でも一番絵が上手い。県のコンクールにも入賞したことがある。


「南くんって藝大受けるんでしょ?」


 部員の女の子に尋ねられ「うん」と頷いた。

 藝大とは東京藝術大学のことで、日本で唯一の国立の芸術大学だ。

 すごーい。と取ってつけたような声が飛び交う中で、ひとりが言った。


「青井さんも藝大受けるらしいよ」


「青井さんが?」


 僕は眉をひそめた。青井ひかり。彼女は美術部の問題児だった。

 部活動にはめったに顔を出さず、年齢を隠してクラブで働いていたそうだ。それが学校にバレて、最近まで謹慎処分を受けていた。


「さすがに無茶ですよね?」


 ひとりが浜辺先生に尋ねると、先生は意外な反応を見せた。


「そんなことないと思うわ。だって、受験を勧めたの私だもの」


 えー! と息をあわせたかのようにピッタリと美術部員たちの声が重なる。


 彼女が描いた絵を一枚だけ見たことがある。

 ゴミ山の上でかけっこをする犬。独創的で目を引く構成だったと思う。しかし、肝心の絵の技術は、この部の誰よりも下手だった。


「あの子が本気で絵に向き合えば、とっても伸びると思うのよねえ」


 浜辺先生は言った。のん気な顔で、顎に指を添えながら。


 翌日、青井ひかりは美術室にやってきた。金髪だった髪は、落ち着いた栗色になっていた。部員の視線を集めながら、僕の後ろに陣取ると、画架にキャンバスを立て掛けた。


「ねえ」


 彼女は言った。


「なに?」


 僕は絵に集中しているふりをして、ふり返らずに返事した。


「あんたも藝大受けるんでしょう?」


「本当に君も受けるの?」


「無理だと思ってるでしょ?」


 彼女の声は薔薇のようだった。

 美しいけれど、慎重に扱わないと、急に棘を向けてきそうだ。


「正直に言っていいの?」


「私が嘘を求めてると思う?」


「無理だと思う。思い付きで目指せる場所ではないよ。あそこは」


「へー。じゃあ、あんたは?」


「え?」


 僕は手を止めて、振り向いた。


「あんたはどうなの?」


 彼女は冷ややかな笑みで僕を見つめていた。

 まるで、僕が彼女に試されているみたいだ。

 大丈夫。おまえは天才だ。

 僕はばっちゃんの言葉を思い出す。


「いけるよ。僕なら」


 それから青井ひかりは毎日部活に顔を出すようになった。

 席は決まって僕の後ろだった。彼女はただ黙々と絵を描いていた。

 僕が帰る頃になっても、彼女はキャンバスに向き合っていた。


「予備校には行かないの?」


 ある日の帰り際、彼女に尋ねた。


 美大へ進学したいなら、美術予備校へ通うことはほぼ必須だ。

 まして藝大となれば、今から予備校へ通ったとしても、かなり厳しい。


「うちの親は、そんなものにお金を使えないんだとさ」


 彼女はそう言って、下唇を噛んだ。

 僕はこのあと予備校に行って、正しく、効率よく絵を学ぶ。でも彼女はここに残り、ひたすら絵を描くだけ。やっぱり無理だ。彼女に藝大なんて分不相応だ。


「あんたさ、他人の心配してる暇あんの?」


 青井ひかりは、また冷たく微笑した。左耳のピアスの穴が、僕にはどこか恐ろしいものに見えた。


「君よりはあるよ」


 彼女はイヒヒと堪えるように笑った。


「いいね。そういう強気なスタイル。面白いじゃん」


 変なやつだ。あまり関わらないようにしようと心に決めて、僕は美術室をあとにした。


 夏休みに入ると、僕は予備校と学校の美術室を行き来するようになった。

 予備校が休みの日に学校の美術室へ行くと、そこにあたりまえのように青井ひかりがいた。その横には浜辺先生もいた。どうやら付きっきりで絵の指導をしているらしい。浜辺先生は若い頃に美術予備校で教えていた経験があるそうだ。青井ひかりにとっては、まさに渡りに船だろう。


「青井さんは?」


 夏休みも終わりに近づいた頃、僕はいつものように学校の美術室に向かった。

 そこには浜辺先生がポツンと窓際に座っていて、青井ひかりの姿は見えなかった。


「ちょっときつく指導したら、怒って飛び出しちゃったの。わるいことしたわ」


 浜辺先生は温厚な人だ。

 そんな先生がきつく言うのは、それだけあとがない状況なのだろう。

 しかし、崖っぷちにいたのは最初からなのに。何を今さら。


 僕は何気なく青井ひかりの絵をのぞいた。そして見てしまった。


「これ……本当に青井さんが描いたんですか……?」


 僕はとんでもない勘違いをしていた。


「ええ。そうよ」

 

 浜辺先生は言う。


「こんなもの見せられたらね。わたしだって熱くなっちゃうわよ」


 キャンバスいっぱいに太陽のような瞳が描かれていた。

 その瞳は力強くて、眩しくて、本物の自信に満ちている。


「点描画ですか……?」

「ええ」


 点のひとつひとつが燃えているようだった。

 もはや、その絵は僕の知っている彼女の絵ではない。

 彼女は異次元のスピードで僕に迫っている。技術以外の面で比較すればあるいは……。


「この年になっても、嫉妬ってするのね」


 先生は彼女の絵に手をかざした。太陽に手をかざすみたいに。


「先生が嫉妬ですか?」


「あなたはしない?」


 しません。どうしてか、その一言が口から出てこなかった。


「でも、彼女は逃げ出しましたよ」


「逃げてない」うしろから声がした。ふり返ると青井ひかりがいた。「トイレに行っただけよ」


 彼女は無言で僕を横切って椅子に座ると、すぐに絵を描き始めた。

 その横で、先生はほっと胸を撫で下ろしていた。


「君はどうして藝大を目指すの?」


「ハマッチが勧めてくれたから」


 ハマッチとは浜辺先生のことらしい。

 浜辺先生がしきりに自分を指さしてアピールしている。


「それだけ?」


 彼女はなにも言わなかった。それ以上は答えるつもりもないのだろう。

 僕が諦めて席に座ると、ふと思い出したように、彼女はまた話し出した。


「わたしはわたしが大好きなの」


 蝉の鳴き声。

 風の音。

 太陽の暑さ。

 絵の具の匂い。


「だから、わたしのまま生きてていいんだって、みんなに見せつけてやりたいの」


 その言葉は、まるで風景の一部のように自然な力強さがあった。



「そう……。残念だったわね」


 三月。校庭には桜がほころび始めていた。

 浜辺先生は美術室の窓辺でうつむいた。


 今日は東京藝術大学の合格発表の日だった。藝大に現役で受かる人は少ない。

 一発で受かる方が珍しいのだが、それでも僕は自分がそっち側だと思っていた。


「意外と落ち込んでなさそうね」


 先生は僕の顔を不思議そうに見つめていた。


「まだ、実感が持てないだけです……」


「めずらしいタイプね。逆ならよく聞くのだけど」


「そういえば……」 


 僕はずっと、彼女のことが気がかりだった。


「青井さんはどうなりました?」


「ああ。彼女ね」


 先生が微笑んだとき、僕はとっさに視線を曲げた。


「受かったそうよ」


「え」


 いま、僕はどんな顔をしているだろう。

 きっと人には見せてはいけない顔だ。僕は彼女の失敗をどこかで願っていた。


 ようやく自分が落ちたという実感がわき起こって体中に喪失感がめぐった。そしてその何倍も、彼女が受かったという事実の方が、僕に衝撃を与えた。子供の頃から絵を描いてきた僕が落ちて、たった一年頑張っただけの彼女が受かった。そんなことがあっていいはずないのに。


「あなたのおかげなのよ」


 先生は優しく言う。フォローのつもりだろうか。


「僕の……? なにがです?」


「技術はすべて、あなたの絵から盗みなさいと伝えていたの」


 どうしていつも僕の後ろにいたのかずっと疑問だった。そういう企みがあったなんて。


「藝大を目指すあの子にとって、あなたの誠実な絵は一番のお手本になったと思うわ」


 それを聞いて、僕の心を満たしたものは誇らしさなんかではなく、どうしようもなく情けない怒りだった。


「僕は青井さんの踏み台ですか?」


「あなたのおかげなんだから、師匠と言えるんじゃないかしら」


「だったら、青井さんだけなんて、おかしいじゃないですか……!」


 僕は腰の横で拳を握った。

 手が震えていた。

 目頭がかっと熱くなった。


「わたしもそう思うわ」


 浜辺先生は憐れむように僕を見つめた。それがまた、僕を情けなくさせた。


「でもね。そういうことってあるのよ。とくに、結果がすべての世界ではね」


「納得できません……!」


「すべてあなたが納得するように世界が回るわけないじゃない。納得できないことをどう乗り越えるかも含めて、人生なのよ」


 僕は窓の外を見た。

 美術室から見える校庭の桜はピンクというより白かもしれない。雲が多いせいだろうか、それとも光の当たり方のせいだろうか、いつもより翳りが多い。絵を描いていると思う。この世界に同じ景色なんて存在しない。


「先生は、僕には藝大は無理だと思っているんですね?」


「そんなことないわ。本当よ。でも心配もしてるの。誰であろうと、それは茨の道だから」


「僕なら行けます。次こそは。絶対に」


 僕は天才なんだ。

 だから藝大に行かないといけない。

 じゃないと、ばっちゃんが嘘つきになってしまうから。




  *

 大丈夫。おまえは天才だ。


 ばっちゃんの手紙を読み返して、引き出しにしまった。

 気づけば、それは予備校に行く前のルーチンになっていて、このところ、毎日その手紙を読んでいる。


 浪人生活は、僕が想像していた以上にメンタルを蝕んだ。

 自分の足りていないところを暴いて、向き合って、直して。いくらやっても足りない気がした。

 まるで、透明な膜が何層も自分にへばりついているみたいだった。剥がし方は毎回手探りで、しかも何枚剥がせばいいかも分からない。


「おまえ、顔色わるいぞ。ちゃんと寝れてるか?」


 予備校の教室で須藤要に話しかけられた。

 彼も同じ浪人生だから、ここで同じ境遇を分かち合える仲間として、貴重な友達だった。


「それなりにね」


「気をつけろよ。受験直前にぶっ倒れたら笑えねえぞ」


「気をつけるって……。どうやって?」


「寝ればいいだろ」


 訊く相手を間違えた。

 須藤くんはあっけらかんとした性格だ。浪人生の不安やプレッシャーなんてどこ吹く風で、いつものん気な顔をしている。恋愛アニメかジャズミュージックの話ばかりして、最近は別クラスの女の子と付き合ったんだとはしゃいでいる。


「また昼にな」


 そう言って須藤くんは自分の席についた。


 予備校で僕らがすることは決まっている。描いて、講師に批評されて、また描く。その繰り返し。


 描いて、描いて、描いて、描く。頭の中に完璧な理想の絵があっても、一本一本線を足す度に、その理想は遠ざかっていく。そうなると絵を描くのが苦しくなる。毎日自分の精神をすり減らしながら生きている。逃げ出したいと、ふと思うことがある。


「昨日観たアニメがやばくてさ! 俺、めっちゃ泣いちゃって――」


 昼休みになると、僕らはいつも階段の踊り場でご飯を食べた。

 建物の隅にあるこの階段は人通りが少なくて、お気に入りの場所だった。


 須藤くんは例のごとくアニメの話ばかりだ。

 そんなのん気な彼が羨ましくもあり、妬ましかった。


「須藤くんはさ、絵を描くのが苦しくなったりしないの?」


 僕が須藤くんの話の腰を折ると、彼は口をへの字に曲げた。


「あんまり、そういう話はしたくないなあ」


「てことはあるってこと?」


「そりゃあ、あるよ。こんな状況だからな。それに俺たちは二回も受験に失敗してるし」


 そう。浪人をした一年目も、つまり二回目の藝大受験で、僕はまた失敗した。

 そして今年は三回目になる。次も失敗したら本当にあとがないかもしれない。


「なあ頼むよ。そんなに暗い顔ばかりするな。次こそは三度目の正直。今度こそ俺たちだって受かるさ! そしたらこんな苦しみからも解放される! そうだろ?」


 意外だった。こんなお気楽男も、ちゃんと苦しいと思っていたなんて。


「絵を描くのを辞めたいって思うことはある?」


 須藤くんは、とたんに真剣な目つきになった。


「それはない」

「どうして?」

「どうしてって……」


 須藤くんは頭をかきながら、視線をどこでもないどこかに投げた。


「せっかく好きになれたものを、そんな終わり方にするのって無しだろ。最後にはなんのわだかまりなく、また好きって言えるようになりたいじゃんよ」


 おまえだってそうだろ? 須藤くんは僕に尋ねた。


「僕は……」


 言葉に詰まった。好きという言葉の輪郭すらも、まるで分からなくなっていた。


「たぶん、逃げ出さないことを使命だと思ってるんだ」


 それからも僕は絵を練習した。できる限り描いて、描いて、描いて、描く。

 一日はきっかり二十四時間で、眠れば次の日がやってきて、そうやって日々は進み、ようやく受験の日がやってきた。一次試験には合格し、そして二次試験当日を迎える。


 僕は試験場に入る直前に、カバンのファスナーを開け、ばっちゃんの手紙を出そうとした。

 試験直前には、いつもそうしている。


 なかった。


「そんなはずは……!」


 カバンの中の小さなポケットにその手紙を入れたはずだった。

 昨日の夜だって確認したんだ。持ち物が揃っているか確かめるために中身を一度全部出して、何も忘れていないことを確かめて。それから……。


 こんなミスは初めてで、頭の中は真っ白になった。


「時間になりますよ。中に入って」


「え……。はい」


 いつのまにか、スキップされたみたいに時間は過ぎ去っていて、僕は何の心構えもできないまま試験に臨むことになった。


 落ち着け。大丈夫。おまえは天才だ。


 試験会場に入り、席に座った。誰にだって、平等に時は刻まれていく。一分一秒。正確に。


「始め!」


 試験官の合図がピストルの号砲のように鳴り響いた。




「おめでとう」


「おう……。ありがとうな」


 予備校の教室で、須藤くんは申し訳なさそうに笑った。


「おまえは……惜しかったな」


「惜しかったかどうかなんて分からないよ」


「ま、まあ。そうだな」


 藝大が発表した合格者の一覧に僕の受験番号はなかった。

 こんな思いをするのは、もう三度目だ。さすがに、もう疲れてしまった。


「それじゃあ。僕はこれから先生に報告だから」


「おい!」


 背中を向けると須藤くんに呼び止められた。


「待ってるからな! 来年……!」


「やめてくれ!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。大声なんて普段出さないから、みっともなく声がかすれた。


「期待しないでくれよ。僕なんかに……」


 僕は逃げるように、その場を去った。


 講師の先生は来年も受けるように僕を説得しようとした。

 今回は運が悪かっただけだ。次こそはきっと大丈夫だ。そう言っていた。

 もういいんです。僕は講師にそれだけ伝えた。


 僕は家に帰ると、部屋に立て掛けた絵や美術道具を全てクローゼットに押し込んだ。

 絵に関するものを全て取り除いてしまえば、僕の部屋はもの寂しいものになる。


 僕はキッチンの冷蔵庫からソフトクリームのアイスを取ってくると、部屋の窓を全開にして、アイスを舐めた。


 甘い。風が僕の頬を撫でる。少し肌寒い。


 アイスは溶けて、床に垂れる。僕はしゃがんで指で床のアイスを拭き取った。


 また垂れる。


 ちがう。


 これはアイスじゃなくて、僕の涙だ。



「うああ……。ああああ……。うあうううう……」



 声にならない声が僕の喉からこぼれていく。

 感情がぐちゃぐちゃに溶け出して、僕が僕である何かを崩していく。


 僕はアイスをゴミ箱に放り投げ、机の引き出しからばっちゃんの手紙を出した。


  大丈夫。おまえは天才だ。


「嘘つき!」


 その手紙を力任せに、真っ二つに破った。


「ばっちゃんの嘘つき……!」



 ブーブー。


 スマホが振動した。

 僕は自分の息が荒くなっていることに気づいた。手の甲で涙をぬぐって、スマホの画面を見つめた。

 それは浜辺先生からの連絡だった。


 結果。待ってるわよ。


 不合格の報告なんて、本当はメールで済ませたかったが、それでは毎年気にかけてくれている先生に失礼な気がして、重い足を引きずって学校に向かった。


 浜辺先生はいつものように美術室にいた。

 窓辺に立ち、光を浴びている。意外だったのはそこに青井ひかりもいたことだった。


「一年ぶりね」


 浜辺先生の声はずっと変わらない。

 優しい声だった。


「どうして青井さんが?」


「この子、よく遊びにくるのよ」


 先生は肩をすくめた。

 青井ひかりは椅子の上で足を組んで座っていた。


「さっそくだけど、訊いてもいいかしら?」


「青井さんがいる前で、言いたくないんですけど……」


 青井ひかりは僕を見上げて、目を丸くさせた。


「てことは落ちたの?」


 僕は目を伏せた。


「え? マジで?」


 彼女の前に立たされると、自分の情けなさを浮き彫りにされる。

 僕はすぐにでもこの場を立ち去りたかった。


「青井さん。ちょっと無神経よ。あなた」


 浜辺先生はめずらしく怒った声で彼女を叱った。


「ごめんなさい」


 青井ひかりはシュンとして謝った。

 さすがの彼女も先生には頭が上がらないらしい。


「でも思わなかった。わたしの場合、あの中であんたの作品が一番だったから」


「あの中?」


 僕が尋ねると、彼女はフンと鼻で笑った。


「やっぱり気づいてなかったんだ。あんたは試験で頭がいっぱいそうだったものね。あの日、手伝いで試験監督の補助をしていたのよ。わたし」


「そう、なんだ……」


 今思えば、あの日、中に入ってと伝えた声は彼女のものだったかもしれない。


「でも関係ないよ。君がどんなにいいと言ったところで、僕の絵には不合格の烙印が押されたんだ。結局、その程度の実力だってことだよ」


「なに言ってんの? あんた」


 彼女はまた鼻で笑う。


「音楽も料理も美術も、人の感性なんて主観でしょ。良いも悪いも、自分の目でしか決められない」


 彼女が僕に向けるのは、いつだって冷たい笑みだ。

 でもその中にも陰影があったことに初めて気づいた。


「南くん」


 浜辺先生は暖かな目で僕を見据える。


「一度初心に戻って、自分の好きな絵を描いてみるといいわ。評価されるための絵なんかではなくて、あなたの心がワクワクするような、楽しいって跳ねちゃうような。あなただけが素敵だと思えれば、それでいいと思えちゃうような、とっても素敵な絵を」


 僕は窓の外を見た。

 昨日の夜更けに雨が降ったせいか、雫が光を反射させ、桜はキラキラと輝きを放っていた。地面に落ちる木漏れ日の明暗が去年よりもくっきりとしている。


「少しだけ、ここで絵を描いて良いですか?」


 僕はそこで一枚の絵を描いた。

 美術室の窓から見える外の風景を。好き勝手に描いてやった。

 その窓から、僕が見てきた全ての日々の風景を、同じキャンバスの中に収めてやった。

 誰に何と言われようと、これが僕の最高の絵だと叫んでやる。そんな気持ちで。


 浜辺先生は「素敵じゃない」とその絵を褒めた。

 青井ひかりは何も言わず、ただ下唇を噛んだ。 


 僕は家に戻ると、真っ二つに破ったばっちゃんの手紙をテープで貼りつけた。


 あの日、ばっちゃんは僕の紫陽花を見て、嘘をついたかもしれない。

 それとも、本当に僕のことを天才だと言ったかもしれない。

 それは誰にも否定できないし、ばっちゃんだけのものだったんだ。


 なのに僕は、その言葉を世界の全てみたいにすがっていた。


「ごめんね……。ばっちゃんのせいじゃないのに」


 目からポロポロと涙が流れた。今日は泣いてばっかりだ。


「僕は描くから。また絵を描くから。こんな僕の絵でも、上手いと言ってくれる誰かがいるから。やっぱり僕は絵を描くのが好きだから」


 僕の宝物のその手紙には、新しい涙の染みが増えた。貼り合わせたテープの下で、破れ目がまっすぐ残っていた。


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