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形勝の地

わしはまだ売れっ子になる前の芸術家を手中に納めた。

絵が得意な狩野永徳と長谷川等伯、茶碗作りの名人千利休とその弟子古田織部じゃ。

千利休は前世でわしが切腹させてしもうたので後ろめたさから、よりいっそう優しく接した。

彼らに工房を与えて好きなように作品を作らせて独占する。

わしは信長様に織田家を去ることを願い出た。

一国一城の主になりたい、と申したら納得してくれた。

「サル。おぬしは天下人の器じゃ。かごに飼われておってはつまらぬ。天高く羽ばたくがよい」

晴れてわしは浪人となった。離れる時に羽柴秀吉の名前もちょうだいする。

丹羽長秀(羽)と柴田勝家(柴)で「羽柴」じゃ。秀吉は信長様より授かった。

長束正家殿は本人の強い願いもあり丹羽家を離れてわしについてくる運びとなった。

当然、丹羽家には大金と茶器を渡しておる。

明智光秀殿も仲間に誘った。信長様のそばにおるとまた謀反を起こす可能性もある。

わしのそばに置いたほうが安全じゃ。

光秀殿は真面目で熱心な仏教徒でわしの地獄の話や徳治主義の話をいつも真剣に聞いておった。

討論も何度も交わして仲良くなっておったので誘うとすぐに乗ってきた。

信長様も簡単に認めてくれる。

光秀殿はまだ軍功をあげてない時期なので信長様も高く評価しておらん様子じゃった。

黒田官兵衛と竹中半兵衛と大久保長安も伊奈忠次も仲間に率いれた。

官兵衛はわしを支えてくれた最強軍師で築城、兵法の達人じゃ。

半兵衛はもわしを支えてくれた天才軍師じゃ。

調略の専門家で活躍、戦場での直接戦闘よりも、相手を言葉や条件で寝返らせる「調略」に長けておった。二兵衛にへえは外交もできる。

大久保長安殿は、徳川幕府における初代勘定奉行じゃ。

家康は大久保殿の経理の才能を高く評価しておった。天下の財政を支える最も頼りになる男じゃ。

伊奈忠次殿は主に治水事業で江戸の都市整備に貢献した男じゃ。

のちに関東各地で検地を実施して新田開発、河川開発・改修を行い大都市「江戸」の礎を築いてくれる。4人とも城主に大金と茶器を渡せば譲ってくれた。

わしは仲間とともに小田原城に向かった。

北条氏政殿にお願いして武蔵国の漁村を買い取る。

これも大金と茶器と掛け軸でどうにかなった。

戦国時代の茶器は「一国に匹敵する」ほどの高い経済的・政治的価値(名物)を持っておったからの。氏政殿は漁村との交換など安いもんじゃと思ったことじゃろう。

しかし、武蔵国の漁村の名は江戸じゃ。

氏真殿は値段のつけられぬ宝を手放したことにいずれ気づくじゃろう。

江戸には参ったことがないが、江戸におもむいた家臣から詳しい説明を受けておる。

家康が江戸をどのように開拓して行ったかはすべて頭に入っておった。

大阪でわしがやったこととさほど変わらん。

わしは江戸城に入城すると、城の大規模な拡張工事に着手する。

まずは、江戸湾から江戸城への水路を整備し、建築資材などを海から効率的に運べるようにして同時に、江戸城近くの海の埋め立てを始めた。

利根川の流路を東へ変える「利根川東遷事業」にも着手する。

徳川家が60年かけた工事をたった3年で終わらせてやった。

前世で淀川の流路変更や大規模な堤防「太閤堤(文禄堤)」を築いた経験が生きる。

一夜で城を築き上げたわしは人の集めかたも銭の使いかたも家康よりも上じゃ。

結果、江戸の洪水を劇的に減らし、船運による物流が活性化された。

治水工事ではやはり伊奈忠次殿が大活躍してくれた。

利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れん。

大久保殿には石見銀山、佐渡金山、伊豆金山など諸国の主要鉱山を統括してもらった。

発掘された金と銀は諸国で山わけじゃ。

長安殿がいなければ発掘はできんし、わけあう精神を教え込んどるから銀山・金山を所有する地元の城主から文句は出んかった。

江戸と鉱山はわしに莫大な富をもたらした。

金の力に物を言わせて氏真殿から領地をどんどん買収し、いまや関東はすべてわしのもんじゃ。

毎年、朝廷に寄進を行っておるので朝廷との関係も良好をたもっておる。

前世と同じく正親町天皇から豊臣の姓も授けられた。

江戸では処刑を禁止する。前世の反省から人の命は罪人とはいえ大切にしておる。

江戸城の天守閣からの眺めは最高じゃった。いい風が吹いてくる。

家康に「江戸は形勝けいしょうの地」じゃからすぐに行くべきじゃ、と強くすすめたが、あれはウソじゃった。家臣からは戦で荒れ果てた未開の地と聞いておったからの。

しかし、本当に形勝の地じゃった。ウソから出たまことじゃ。

タマが声をかけてくる。

「徳川家康は江戸に呼ばないの?」

「そろそろ呼ぶぞ」

わしとあやつは6歳歳じゃ。家康はいま20歳ぐらいか。

いずれあやつにこの江戸を任せようと考えておった。

本来、あやつのもんじゃしな。

「家家康もけっこう残酷だよね?奥さんの築山殿と息子の信康を処刑してる。築山殿は斬首、信康は切腹」

「武田がたに通じておったからな。あやつも苦渋の決断じゃろう。わしは立派じゃと思うたよ」

タマは猫目になる。

「ほかにも裏切り者を残酷な方法で処刑してる。渡邉大門先生の記事によると、


大岡弥四郎は松平信康(徳川家康)のもとで、岡崎の町奉行を担当していたが、密かに武田勝頼と内通していた。弥四郎は武田軍の岡崎侵攻を手引きしようとしたが、仲間の山田重英が密告したので、計画は失敗に終わった。


 天正3年(1575)4月、捕らえられた弥四郎は、岡崎城下、浜松城下で引き回しにされたうえ、鋸引きの刑で処刑された。弥四郎の妻子は、磔刑に処されたという。


だってさ。これまず本人の前で妻子5人を磔にして槍で殺してるんだよね。死ぬまで7日間かかったって言うし、えぐいね。

事件に関わった共犯の松平新右衛門と家老の石川春重も切腹させられてるし」

「こやつらも武田がたに通じておったからな。裏切り者がどうなるか世間に見せしめにせねばならんかった」

大鳥逸平おおとりいっぺいっていうかぶき者も磔にして槍で刺してる。子分300人も斬首してる。血も涙もないね」

わしは家康を擁護する。

「江戸の治安を守るためにならずものを成敗しただけじゃ。その証拠にあやつらがこの世からおらんようになってもだれも困らんかった。どこからも文句が出ておらぬ」

「たしかにかぶき者は秩序を乱して暴れ回り江戸の治安を悪くするとんでもない悪党だったみたいだね。Wikipediaによると

当時の男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をはぎ合わせ継ぎ当てするなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。

他にも天鵞絨ビロードの襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大太刀(普通は太刀を手挟む)や長脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した。

多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった。だってさ」

「彼らに住む家や食事と仕事を与えて道徳と礼儀を教え込めばよかったが、家康も心に余裕がなかったのじゃろう。無法者は殺す。江戸も安全になりすっきりする。治世者も町人もそれが正しいという価値観じゃったのじゃ」

「害虫駆除と同じ感覚だね。大量虐殺といえば、家康は25歳の時にもやらかしてるんだよ。関連記事を読むね?


1569年(永禄12年)の堀川城の戦いで、徳川家康は徹底抗戦した籠城者や農民ら約700人を「なで斬り(無差別殺害)」にしました。『三河物語』に記される凄惨なこの事件は、遠江侵攻時の反抗勢力への見せしめとされ、浜松市の都田川周辺にはその名残(獄門畷)が伝わります。


堀川城には周辺土豪や武装した農民のほか、逃げ込んだ老若男女併せた農民たちなど、籠城者の数は2000人ほどに達していたといいます。武装蜂起した農民が含まれていたことから「気賀一揆」とも呼ばれます。これらいわば烏合の衆に対し家康は猛攻撃を加え、城は1日の戦闘で1000人が討たれ落城します。さらに後日、抗戦の関係者として700人が捕縛され斬首されるという徹底した処断が下されています。1700という死者数は、村民の半数以上が犠牲者であったとされます。このなで斬り事件はあまり知られてはいませんが、刃向かったとはいえ非戦闘民も含む農民に対してここまで苛烈な仕打ちを行った例は戦国時代でも少なく、家康最大の汚点といってもいい行為です。よっぽどムシの居所が悪かったのだろうか・・


たった1日の戦闘で約1000人を殺し、後日籠城徹底抗戦を主導したり関わった者たち700人を斬首し、都田川の堤上に並べるという悪辣な趣向を披露しました。


家康が反徳川勢力に対して行った最大級の殺戮行為であり、今後の反対勢力を威嚇する見せしめだったとされる。だってさ。徳川の黒歴史だよ」

「他国に恐怖を与えて戦わずして降参させるために最初の城では皆殺しにする。戦国時代の常套手段じゃよ。家康はわしや信長様にも比べれば、はるかに穏健派じゃ」

わしと信長様に比べたら家康など紳士じゃ。やったことはおままごとじゃ。

「あとは個人的な恨み(難癖)があった今川家臣に切腹を命じてる。

切腹させられたのは孕石はらみいし 元泰もとやすって武将だね。

関連する記事を抜粋するよ?


天正7年(1579年)より遠江高天神城の在番を務める。高天神城は翌年から徳川軍の攻囲を受け、同9年(1581年)3月22日に高天神城が徳川軍に攻略される(第二次高天神城の戦い)。元泰は捕らえられ、翌23日に切腹させられた。


なお、降伏者で切腹を申しつけられたのは孕石一人であった。


逸話

『家忠日記』『三河物語』に拠れば、今川家臣時代は人質時代の徳川家康と屋敷が隣り合わせであった。鷹狩りが好きな家康が放った鷹が獲物や糞を隣家の孕石の屋敷に落としており、度々苦情を申し立てていた。そのことに腹を立てていた家康により十数年ののち彼は切腹させられた。


迷い込んだ鷹が迷惑


家康の鷹愛は深く、竹千代と呼ばれた幼年時代から鷹狩りを楽しみました。今川家に人質として暮らしていた時、隣に住んでいたのが孕石でした。家康の鷹がときどき、孕石の屋敷へ迷い込んでしまったのです。


鷹は孕石の家をフンで汚したり、捕った獲物である小動物の死骸を落として行きます。怒った孕石は今川義元に厳重なるクレームをつけましたが、一向に改善せず、竹千代本人を厳しく叱りました。


家康はその恨みを約30年後、高天神城の戦いで晴らしたのです。


孕石は自分だけがなぜ切腹を命じられたのか、理解していました。覚悟した孕石は堂々と切腹に臨みます。だってさ」

「わしも恨みが深い性格じゃったから気持ちはようわかる。子供の頃に主水殿に理不尽に叱られたのかもしれぬのぉ」

「恨みは水に流せ。恩は石に刻めだよ」

「いい言葉じゃ。わしの座右の銘としよう」

「あんたの部下の大久保長安だけど家康に息子7人を切腹させられるよ」

「なんと!まことか?」

「ほんとだよ。大久保長安。1613年に死去した後、不正蓄財や幕府転覆の疑いをかけられ、一族が処刑される「大久保長安事件」に発展しました。 長安の息子7人を切腹させる。あと家康は古田織部も切腹させてる。豊臣家への内通疑惑でね。息子4人も自害、または処刑されてる」

「今世ではけしてそのような悲劇が起きぬように気をつけよう」

むやみやたらに人の命を奪う世の中ではいかん。

家康も地獄で後悔することになる。

「それに家康は釜茹での刑にも興味持ってたからね。心に闇を抱えてるんだよ。『日本拷問・処刑残酷史』柳内伸作(やない しんさく) 先生によると、


徳川家康も、武田勝頼を滅ぽしで、甲斐の国を占領した際、武田信玄や勝頼が罪人をゆでるために使用していた鉄釜を押収した。勝頼などはその釜で時には毎日五、六人を釜ゆでにした。家康はこれはおもしろいものを手に入れたとばかり、領国に持ち帰って、これで試してみようと、家臣に運送することを命じた。

ところが、奉行の本田作左衛門がこの釜を打ち壊してしまった。大志を持つ君子たる者は、このようなことをすべきでないと諌めたのだ。だってさ」

「家康殿はよい家臣に恵まれておる。わしが名物茶器などの宝物を自慢した際、家康は自分にはそのような名品はないが、命を惜しまぬ家臣500人が宝だ、と返してきおった。あの時は茶器を持っていないのが悔しくてそう言ったのかと思うたが本心じゃったようじゃな」

「家康も残酷すぎて放送できないエピソード多いんだよねぇ。大河ドラマの主人公にふさわしくないんだよ」

「戦国の世の価値観や常識と未来の平穏な時代の価値観や常識は違うのじゃ。名前だけ借りた創作物として観るべきじゃろう」

「前田利家も大河の主人公になったけど、ほんとは残酷だからふさわしくなかったね。一向一揆勢を1000人ばかり生け捕りにすると、磔にしたり、釜で炒たりあぶったりしたんだよ?」

「犬千代も残酷競争に巻き込まれておっただけじゃ。残忍なことをすると褒められるのじゃからどんどん残忍になる。逆であればよかった。わしはやさしければやさしいほどほめられる世を作りたい」

「信長に武田家は滅ぼさたけど、武田信玄や勝頼は罪人を釜茹でにしてたんだよね。だからきっとすごい怨念が武田家には取り憑いてたんだよ!勝頼は家臣に裏切られて家族と数十人の仲間と一緒に山の中や田んぼや草原を逃亡するんだけど、追い詰められて19歳の奥さんの首をみずから斬り落としてるんだよ。奥さんの侍女たちも自害。最後まで付き従った家臣たちは壮絶な討死。勝頼の16歳の息子も死んでる。つまり、残酷な行いをしたら呪いで最悪な結末になるんじゃないかな?豊臣家もそうだったじゃん?信長も!現世で逃げ切れても来世までカルマは追いかけて来て、きっと自分がやったことの責任は取らされる仕組みなんだよ」

「そのとおりじゃ。わしもその法則をもっとはようにわかっておれば、弱きものをなぶり殺しにしたり残酷趣味に走らずにすんだ。後悔ばかりの人生じゃ」

わしは肩を落とす。いや、落ち込むのは地獄に落ちてからでええ。いまは民草のために命尽きるまで駆け抜けようぞ。

「わー、あんな大きなわたがし食べてみたーい♩」

タマは青空に広がる巨大な雲の王国を見て騒ぐ。

タマの呑気な声に、わしの張り詰めた心はなごんだ。

参考文献 


顕微鏡の歴史 引用

刀剣ワールド 引用

織田信長以上に残酷だった前田利家は、一向一揆で反抗した人を釜茹でにしたネット記事引用

渡邊大門先生


なぜ家康は水害に悩む田舎「江戸」を選んだのか?雪ノ光 経営・戦略ネクストリーダーの道標 ネット記事引用

秀吉の策略か? 家康の慧眼か?―徳川が江戸を本拠とした理由 小林 明先生 ネット記事引用

戦国時代、鋸引きの刑で地獄の苦しみを味わいながら死んだ3人の男たち 渡邉大門先生 ネット記事引用

茶人と流派の歴史「織部流の祖 古田織部(古田重然)」ネット記事引用

堀川城 ~やりすぎ家康 滅ぼされた気賀一揆~ ネット記事引用

堀川城 やり過ぎ  家康25歳の悔恨 ネット記事引用

Wikipedia かぶき者 引用

徳川家康の鷹愛を軽く見ていた孕石元泰の切腹 ネット記事引用

どうする家康に登場する人物「伊奈忠次」 ネット記事引用

Wikipedia 伊奈忠次 引用

『日本拷問・処刑残酷史』柳内伸作(やない しんさく) ネット記事引用

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