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パスト・ライフ

作者: 月狂 四郎

 これは私の独り言。山手線で見た、遠い日の記憶。

 罪――それは、いつまで経っても人間を戒め続ける。


 ――一六五六年。場所は、おそらくロシア。

 当時、私の名前はオルガだったと思う。

 酒の飲み過ぎで全身に脂肪をたくわえた私は、酷寒の地にある娼館で女衒をやっていた。

 元々は殿方のお相手をする遊女だったのだけど、時の経過とともに需要も無くなり、そこそこ頭も回ったので裏方へと引っ込んだ。

 当時の同僚がどうなったのか、あまりよく憶えていない。

 わずかな人達は貴族の妾になって、後は病気や面白半分の殺人で死んでしまったのだと思う。

 私自身はそんなに大した娼婦ではなかったのだけど、商才があったせいか店のマダムを任されることになった。

 当時、娼館には暗黙のルールがあった。

 仲間が死んでも傷付かないように、いつも一定の距離を取っていたのだと思う。

 いつ貴族や軍人のきまぐれで殺されるかわからない娼婦の仲間達に、いちいち家族愛なんて持っていたら身が持たない。

 だから私も人生というものにさしたる興味もなく、かといって絶望することもなく日々を過ごしていたのだと思う。無駄な人生をどうして生きるかって?

 生き方の話なんて、私達の中では禁句だった。

 自分で人生に幕引きなんてしたら、神様が私を迎えてくれなくなる。だから、自殺なんて選択肢にすら無かった。キリスト教徒の自殺者は天国には行けない。

 どうして私達は生まれた頃から他の人よりも多く償わないといけないのかと思いながら生きていたけど、この世界には説明のつかない不条理なんていくらでもあった。

 だからどんな理不尽でも受け入れた。

 受け入れるしかなかった。

 ある日、とても綺麗な子供が売られてきた。10歳の少女で、没落貴族が借金のカタに愛娘を売り出したということだった。

 名前は、思い出せない。ひとまずエーリャと呼んでおこうと思う。そうさ、天使って意味の名前さ。

 エーリャは大切に育てられた娘らしく、凛とした目で私を見ていた。

 とは言っても、自分が売られたことをただ知らなかっただけなのかもしれないけれど。

 とにかく、情を持たないポリシーを貫く私がひどく惹かれた娘だったのはよく憶えている。

 だけど、ここは娼館。ここにあるのは食うか食われるか。そこに名家の生まれという要素など少しも関係なく、客を魅了出来ればお姫様のようになれるし、出来なければ飢えて死ぬだけ。

 経営者に回った私の存在など、異例中の異例だった。多くの人は遅かれ早かれ後悔と苦しみとともに命を落としていく。

 運の良い娼婦は貴族に買われて妾になれるけれど、ほとんどの人は病気か飢えで死ぬ。昨日までは人気者でも、時の経過とともに美しさが衰えて、誰も買い手がつかなくなれば行く先は同じ。そこが天国だと信じたかった。

「神様は生きるための姦淫なら赦してくれるでしょう」

 その言葉はどちらかと言うと、自分のために言っていた気がする。そうでなければ、この世界はなんだってこんなに理不尽に出来ているのか。

 エーリャはとてもいい娘で、才能もあった。

 売り物にならない時期は店の手伝いをしていたけれど、見た目もかわいくいじらしい彼女は、仲間の娼婦たちにとてもかわいがられた。幸せな家族を持てない彼女達にとって、エーリャは本当に娘のような存在だったのだと思う。

 そのまま大きくなったエーリャは大層な美人となって、本当に傾国のような女性になった。英才教育を受けた彼女の技術はたちどころに男達を昇天させて、夢中にさせて、そして破滅させた。

 エーリャに夢中になって夫婦仲が崩壊した男も後を絶たなかった。

 私は彼女が誇りだった。没落貴族に売られた少女を一人前の傾国に仕上げたのだ。それもそうだろう。

 だけど、私は自分を戒め忘れていた。幸せ過ぎた毎日に。

 幸福というやつは、のんびりとその味を噛みしめているとすぐに牙を剥く。

 ある日、エーリャの評判を聞きつけた貴族だか軍人だかが彼女を買いに来た。

 明らかに不穏な空気を醸し出している奴らで、嫌な予感がした。

 彼らは大金を差し出して、横柄にもエーリャを差し出せと言う。

 私の勘が「やめろ」と言っていた。だけど、そういうわけにはいかない。

 相手は表社会の名士。楯突けばここの娼館ごと焼き払いかねない。神を冒涜する者として。理由なんて何だっていい。こいつらは好きなように事実を書き換えることが出来る。そういう時代だった。

 断るわけにはいかなかった。だけど、私はどうしてもエーリャを差し出したくなかった。

 だけど彼女は私の反対を振り切って、自らケダモノの方へと歩んで行った。

「わたしは、大丈夫だから……」

 そう言って手を引かれていく彼女の背中を見て、言いようの無い罪悪感が胸に残ったのをよく憶えている。

 結論からすると、予想通り彼女は帰って来なかった。

 目撃者からの知らせを受けた私は、馬車に乗って現場へと向かった。

 不思議と感情は溢れてこなくて、おそらく私が私自身を守るためにそうしたのだと思う。

 吹雪の中に埋もれるのは、全身痣だらけになった裸体だった。

 息を呑んで、凍った髪を撫でた。それは固くて、どう見ても生きているはずがない。だけど、信じることが出来なかった。信じたくはなかった。

 手袋ごしに伝わる硬い感覚。それは、人肌とはかけ離れた感触だった。

 私達の心を癒してくれた天使は、こうやって唐突に姿を消した。

 この時に気付いたのだ。私は、この世界で決して情を持ってはいけないという掟を忘れていたことに。

 エーリャが逝って、しばらく何も手に付かなかった。酒は荒んだ心を癒してくれるどころか、永遠に治りそうにない頭痛を一層酷くするだけだった。

 だけどいつまでもくじけているわけにもいかなかった。私にはあまりにも多くの女達の人生が委ねられていたからだ。


   ◆


 しばらく時間が経って、悲しみがまぎれた頃に、また没落貴族の才女が売られてきた。

 細い肩をした、凛とした目を持つ少女だった。

「エーリャに似ているわね」

 思わずそんな言葉が口をついて出る。

 私が情を持ったばかりに、注いだ愛情の分トラウマへと変換されていった天使との思い出。やめておけばいいのに、目の前の子を見て、エーリャが帰って来たような気がした。

 でも、この娘もこれから世界のおぞましさを嫌と言うほど思い知ることになる。それが本当に幸せなことなのか。

 この娘にも自身の運命を呪う日が来るのだろうか……?

 私みたいに。そう、私みたいに。

 永遠に癒えない、心の傷。

 思い出せばすぐ、あの時の痛みが胸の奥に蘇ってきた。

 だけど――

「私が、守ってあげる」

 彼女の両肩に手を置いて言った。

 凛とした目を持つ少女は、少しだけ目を見開いていた。

「私があなたを守ってあげる。どんなことがあっても、絶対に」

 自分で言っておきながら、何て愚かなんだろうと思った。

 それでも、愚かであることが正しいのだと思った。

 この娘も私も、この先の人生で何度も傷付くだろう。

 それでも、それでも前へと進んでいく。気が狂いそうになっても前を向く。そうやって足掻くことが、生きることが人生なんだ。

 窓を見ると、雪が降っていた。

 どれだけ悲惨な光景も、雪は白く埋め尽くしてくれる。依然としてその下に隠れた目を背けたくなるような現実があれど、私はそれらを雪の上から踏みしめて歩いて行く。

 そうやって生きた先にきっと私は倒れて、その体も雪に埋もれて見えなくなる。

 でも、それでもいいのだ。

 きっと真っ白な世界が私の罪ごと埋め尽くしてくれる。

 その時に私はあの天使とまた出会い、きっと神のもとへと連れていってもらえる。

 だから今はこの娘を救いましょう。

 きっとそれが、私の贖いになるのだから。


   【了】

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