2
遠藤結衣。
美術館のミュージアムショップで物色していた美月に声をかけてきたこの女性の、名前。
美月の中学校時代の同級生だった、結衣。
もともと、顔立ちの整った綺麗な女の子だった。美月が記憶している中学校時代の彼女の顔から幼さを取り除けば、今、美月の隣に立ち、驚きの表情を浮かべているこの女性と合致する。左目下の泣き黒子は、美月の記憶に残っている遠藤結衣の泣き黒子と一緒だった。
「美月と出逢うなんて、すっごい、偶然。」
吃驚した、と少し高めのトーンの、彼女の声。
美月が憶えている遠藤結衣の声音より若干高めだが、それは今、彼女が驚いて発した声だからだろう。
「元気そうだね。美月」
と続けての声音は、少し落ち着いたトーンになった。
結衣は、いわゆる、ヒエラルキーの頂点に位置するクラスメイトだった。
あの頃の、中学生時代といったおこちゃまの集団生活の中のヒエラルキーなんて、大人になった今では、理由のわからない組織階層だ。勉強ができる、だけでは駄目で、また、見目麗しいだけでも駄目で、スポーツ万能でも駄目で、面白いだけでも駄目で。誰かが持ち上げたそのことに、誰もが乗っかって頂点に押し上げる、といったようなものだ。少なくとも、美月が在籍していた当時は、そうだった。カリスマ性があれば良いのだろうが、そうそう人の心を鷲掴みにすることができる人物など、輩出されるわけはない。当時、ヒエラルキーの上位に位置していた同級生達は、今振り返ってみれば、たいした人物像ではなかった。
けれども結衣は、違った。
同級生の中では、比較的整った顔立ち。勉学は常に上位を保っており、彼女は理由なく、人を惹き付ける魅力があった。性格も明るく、特にイヤな奴、といった印象はない。近寄り難くもなく、友人は多かった。学年を超えて、誰もが結衣を知っていたし、結衣に気軽に声をかけていた。
それが、美月の親友だった、彼女。遠藤結衣。
「久し、ぶり、だね。結衣。」
久しぶりも、久しぶりすぎる。彼女と最後に出会ったのは、中学校卒業式の日だった。それも遠目に、友人達に囲まれている彼女の姿を見ていただけだった。加え、結衣と言葉を交わすのは、中学3年の3学期に袂を分かって以来だ。同窓生が集う、はたちの集い、に美月は出席していないし、中学校の同窓会は、誰も音頭を取る者が居ないのか、卒業後、そのような話はない。
そもそものところ、その当時の同級生達は、美月の居場所を知らない筈だった。美月が今、生活しているこの地は、美月の故郷からは、ずいぶんと遠く離れている。美月の実家に美月の連絡先を訊ねれば、知ることはできるだろうが、実家からそのような連絡が来たことはないので、もしかしたら、美月は中学校の同級生達からはお呼びじゃないのかもしれない。
美月にそのつもりはなかったが、この地に出てくることで、美月は高校までの人間関係を清算してしまっていた。だからと言ってこの年齢まで、淋しさや空しいといった感情がわくこともなく、郷愁に駆られることもなかった。
やはり自分は、人間性のどこかが壊れているのかもしれない。
「美月とこんな、ふたりには全く縁のない土地で出逢うなんて、すっごい偶然だね。」
結衣が、美月に微笑む。美月の記憶にある、変わらない、華やかな笑顔だ。
あぁ、この笑顔で彼女は美月を裏切ったのだ。
彼女の裏切り、なんて言うと物騒だが、ソレは他愛のない出来事。大人になって振り返ってみれば、結衣にも何らかの事情があったのだろうと慮れる内容だ。けれども当時の、子どもだった美月には、決して許すことが出来なかった案件だった。だから、中学校3年生の3学期以降、クラスが違うこともあって彼女と会話をすることをしなかったし、顔を合わせることも極力避けた。結衣も思うところがあったのか、彼女から美月が結衣を避ける理由を訊ねては来なかったし、話しかけても来なかった。
つまりコレは、約15年ぶりの、彼女との会話だ。
「わたし、吃驚して言葉が出なかったよ、結衣。」
美月は結衣のその笑顔に負けじと、微笑み返す。
美月は結衣と、とても気が合った。
考えること、感性のほとんどのベクトルが彼女と一致した。一緒に居て気が楽で、楽しくて。
とても楽しくて。
学年の中の、ヒエラルキーの中程度に位置する美月が、ヒエラルキーの上位に位置する結衣と常に行動を供にすることに、美月自身に違和感はなかった。結衣もそうだったのだと思う。美月から声をかけて行動を共にすることもあったが、結衣からもたくさん、美月へ誘いの声がかけられていた。
クラスメイトから、美月は結衣の腰巾着、お付きの者、下僕といったような揶揄も美月の耳に聞こえてきてはいた。美月と結衣とでは、釣り合いが取れない、といった苦言を面と向かって呈されたこともあったように記憶している。
男女問わず人気者だった、結衣。
それでも。
そのような第三者の騒音も気にならないくらい、美月は結衣ととても仲が良かったのだ。気が付けば一緒にいたし、話し込んでもいた。
そう、何でも話していた。
日々の出来事から家族のこと、気になる異性のこと、将来の進路について。
同じ高校に行こうね、などといった、子どもの約束事。
「美月、こういう展示物、好きだったんだ。」
物販の物色を結衣と供に再開した美月の隣で、結衣が訊ねてくる。
それに対して美月は、
「タイミングが合えば、結構、美術館に足を運んでいるよ。」
うなずきながらそう答えた。そして、結衣は?と問うと、
「わたしも、とても好き。こういうの。」
やっぱり気が合うね、と彼女は綺麗な笑顔で返してきた。
その言葉は、中学校で過ごした日々を、結衣も思い出しているからだろうか。
けれども彼女は、でも、と、続け、
「夫があまり、こういうのは趣味じゃなくて。今日は招待券があったから来られた、ってところ。」
と、笑顔には翳りができる。
「結婚、したの?」
衝撃の情報だった。
いや、もうすぐしたら三十路を迎える年齢を思えば、結婚していてもおかしくはない。どちらかと言えば、同級生の中では結婚している方が多くを占め始めているのではないだろうか。独り者の美月の方が、少数派になりつつあるだろう。
美月の驚いた感の問いに、結衣は、ふふっ、と笑ってうなずくと、
「子どももいるよ。来月に、2歳の誕生日を迎える女の子なんだ。」
可愛いよと、更なる衝撃の情報を付け加えた。
「美月は?今日は独り?」
美月のこの驚きぶりを見たら、美月が既婚か未婚か理解できるだろうに。
それとも未婚か既婚か、ではなくて、彼氏と来ているのかどうかの方か。
美月は、結衣おめでとう、と先に祝福の言葉を結衣に伝えたあと、
「わたしは独りで来てる。結婚の予定も、さっぱりないし。」
そう答えた。
…笑顔で答えられただろうか。
美月からのその答えに、結衣は、そうなんだ、と呟くように返してくると、
「仕事、しているの?今日は休み?わたしは、仕事は結婚と同時に辞めちゃってて。」
続け様に、訊ねてくる。
近況報告、になるのか。中学校卒業以来だから、卒業後の動向が気になるところか。
「仕事、しているよ。わたしの勤めている会社は、土日祝と休みなんだ。一応、ホワイトになるのかな。企画立案の部署にいて残業も多いけど、その分のお給料はきっちり払ってくれているし。やりがいはあるかな。」
結衣からの質問に対して、このように物販物を物色しながら近況を含めた10年以上の期間の動向を報告するには、この場は似つかわしくないように思う。
なので、美月は、結衣、と名前を呼ぶと、
「喫茶店かどこかで、話さない?」
と、提案していた。




