四十、沼地に帰る
「円弧先生。今まで本当よく努めてくれた。あなたにもあなたの患者がいるだろう。元の沼地に戻るように」
「なっ……‼‼」
ナツヒが立ち上がる。
今すぐにでもカゲツに殴りかかりそうになるが、カゲツの笑みを受けて、一瞬ひるむ。
妖気が渦巻く。
キサラはふらつかないように、静かに立ち上がり、頭を下げた。
「わかりました」
「キサラっ⁈」
「ナツヒは坂城がみるように」
「しょ、承知しました」
「最後にカゲツ様。一つお願いがあります」
カゲツの妖気が弱まる。
落ち着いた赤い瞳はキサラをまっすぐ見ていた。
「もし、薬の調整の中で、ナツヒ様の体調が悪くなり、坂城先生が対応できなくなった場合は、まず私を呼び出していただくか、沼地に連れてきていただいてもよいでしょうか。大学校に運ぶときでも、私が付き添いたいのです。これは、元担当医としての責任です」
下心などではない。
それを伝えるため、カゲツの瞳を見つめ返す。
カゲツはキサラの目を受け止め、頷いた。
「君の希望、我々は君への感謝と信頼を持って応えよう」
「ありがとうございます」
キサラはもう一度頭を下げた。
「紅家の皆様。お世話になりました」
「円弧先生」
頭を上げたキサラの瞳とあったカゲツの瞳は、柔らかな光を抱えていた。
「私たちは本当にあなたに感謝しています。この決断はあなたのためでもあり、私たち紅家のためでもある。私も鬼であり、感情に左右される。だからこそ、そこにいる秘書の藤とも相談した、我々紅家の決断です」
「はい」
「キサラ!父上!」
ちらり、と見たナツヒの瞳は、揺れていて、キサラに助けを求めていた。
しかし、ここで求められているのは、国を守るものとしての判断。
キサラは床に膝をつき、ナツヒに頭をさげた。
「紅ナツヒ様。あなたを担当する医者以上の関わりをしていました。ご無礼をお許しください。あなたの体調はもうよくなっているでしょう。あとは坂城先生に引き継ぎます」
「キサラ………」
「ナツヒ」
何も言えなくなっているナツヒに、カゲツが静かに語りかけた。
「お前は紅の次期当主。その紅の角を重々肝に銘じて考えることだ」
「……はい」
「坂城先生、引き継ぎをします」
キサラはもう一度頭を下げて、坂城とともに食堂を去った。




