二、紅 ナツヒ
数日後。
キサラは南領にある紅家の豪邸の前にいた。
あの後、泥で汚れた橋の上で坂城に土下座され、赤居に紅家当主の正式文書をたたきつけられたキサラには抵抗する理由も気力もなかった。
お互いいくつかの条件を提示して、最終的に住み込みで働くことになった。
「円弧 キサラ様ですね。お待ちしておりました」
予定よりも早めに到着したのだが、豪邸の前には鬼である黒髪の男が二人立っていて頭を下げてくる。
「こちらにどうぞ」
「お荷物を持ちましょう」
「坂城先生をお呼びしてきます」
「こちらでお待ちください」
「お茶をお持ちします」
あれよあれよという間に豪華な門をくぐり、玄関から応接間まで通され、逆に戸惑う。
「円弧先生‼」
気がつけば豪華な椅子に座って、おいしいお茶を飲んでいた。
我に返ったのは、坂城が慌てて入ってきた時だ。
「お待ちしていました‼」
息切れしながら紙を持って現れた坂城は息を切らしながら、キサラの前に座る。
「早速ではありますが、こちらがナツヒ様についての記録です」
持っていた紙束を机に置く。
キサラは緊張しながら、その紙束を手に取った。
「ナツヒ様のこれまで経過をまとめますと……」
「いえいいです」
最低限の情報だけを頭にいれ、キサラは記録を返した。
「本人をみてから、改めて。私、本人をみないとわからないんで」
「わかりました」
坂城はキサラの意見を否定することなく、記録を受け取る。
「お部屋に案内します」
立ち上がった坂城の後について、キサラは部屋を出た。
「ナツヒ様は他者との関わりを好まない方です。私は幼いときからですから、慣れていますが。無視されても傷つく必要はありませんから」
「はい」
気難しいのか。
鬼の中には人間を嫌う鬼もたくさんいる。
医者のほとんどは人間なので、人間が嫌いなのかもしれない。
「今まで対応された医者の中には、話が聞けなかったものもいました」
「……心します」
キサラが普段みる患者の多くは、キサラを求めて来るものなので、キサラが質問すると教えてくれることが多い。
ただ、今回は依頼とはいえ、貴族の鬼。
一筋縄ではいかないのだろう。
「こちらです」
立派な扉の前で坂城が止まり、扉を叩いた。
「ナツヒ様、失礼いたします。坂城です。個人医の円弧先生を連れて参りました」
「……ッ」
坂城が扉を開けると同時に、中の空気が外に漏れ出す。
キサラは思わず息を止めた。
水っぽい匂い。湿度が高く、カビと腐った水のような匂い。
キサラは廊下で大きく息を吸って、中に入った。
「依頼を拒否していたとかいう医者か」
「失礼します、円弧 キサラと申します。診察にきました」
キサラは坂城に目で合図をしてから部屋に入る。
部屋は暗く、天気の良い昼間だというのに、窓もカーテンも閉め切られている。
部屋の奥に寝台があり、毛布でできた山がある。
「この状態が半年前から始まり、この三ヶ月で進みました」
坂城の説明を聞きながら、キサラは寝台の前に立った。
「ナツヒ様、毛布を失礼します」
毛布に手をかけ、めくる。
中から、黒い髪と赤い瞳がこちらを覗いてくる。
キサラの黄色がかった茶色の瞳と交差した。
「き、君は……」
赤い瞳はキサラと目が合うと、目を見開いた。