十二、沼と河童の今後
「ししょおおおお‼‼」
「シノ」
ほぼ一週間ぶりの我が家。
中央領にある大学校での仕事を終え、夕方に帰ってきたキサラを、河童のシノは待っていたようだ。
「元気そうね」
「元気ではないですよおお‼‼」
シノは泣いていたが、体調は変わりないようだ。
キサラはシノをなだめながら、小屋へつながる橋を渡る。
沼と草木の匂い。
ちょっと高めの湿度。
「ただいまー」
一週間しかたってないのに、扉に触れるのが久しぶりな気がする。
薬草の匂いが混ざった、懐かしい空気を胸いっぱいに吸う。
しかし、暗い室内に目が慣れると、小屋の中の惨状に目を見張る。
「………」
「し、師匠……すいません」
「……だいじょうぶ、しかたない」
ここを発つ前には、整理整頓されていたはずの薬草が、今は小屋全体にばらまかれていた。
種類もばらばら。
シノが謝るのはこれだろう。
「ほんとうに、ごめんなさい」
「後で片付けましょう」
キサラはシノを安心させるように微笑んだ。
荷物を小屋の隅に置いて背伸びする。
片付いてなくても、やはり自分の家は落ち着く。
小さくまとまっていて、必要最低限でかつ最大限の活用。
無駄がないこの小屋を思った以上に気に入っていることに気付いた。
「師匠が不在中に届いた手紙です」
「ありがとう」
一つしかない机の上には、出発前に片付けられなかった資料が残っている。
その机のあいているところに、どさどさとシノが手紙を置いた。
「不在中の訪問はありましたが、大丈夫でした」
「ありがとう」
不在中の訪問も、訪問者が手紙を残してくれたらしい。
キサラは差出人を確認していく。
「シノは、大丈夫だった?」
「何がですか?」
お茶を用意してくれたシノにキサラは問いかけた。
「ご両親。ここに来ることを反対していたでしょ?」
本来医者という仕事は人間が担うことが多い。
シノは河童という妖怪。
両親は「河童に医者は無理だ」と言い、シノがキサラの元にいることを快く思っていないと聞いていた。
シノを気遣うキサラは、シノの表情をみて察した。
「……」
シノの顔は固まっている。
キサラは持ち上げたお茶を机に戻し「そう」とつぶやいた。
「…無理はしなくていい。むしろ私のところにきてくれていたのは、幸運だったと思ってる」
「師匠……私はまだここにいたいんです」
「でも」とシノは続けた。
その瞳には、先ほど枯れたはずの涙がまた浮かんでいた。
「師匠がいない間に、私は手紙を受け取ることしかできませんでした。それなら、家の外にある箱と一緒です。それどころか、大事な薬草をこんなにばらまいてしまって…」
それでもシノは頭の水をこぼさないように気をつけてくれていたことが分かる。
乾燥した薬草はぬれていないので、整理すればまた使えるだろう。
シノの機転が働いた証拠だ。
「片付けることができない私に、できることは、師匠がきたときにお茶を淹れるだけなんです…」
「シノ…」
シノの淹れるお茶はおいしい。
これは多分、河童が水の妖怪だからだ。
人間にも妖怪にも、適材適所がある。
「だから、シノは、実家の仕事を頑張ろうと思うんです」
涙をこぼさないように、見開いた瞳の奥には、これまで河童の家から逃げてきた頃にはない、覚悟の光。
キサラにはわかっていた。
シノが医者に向いていないことも。
それを知ったときにきっとシノが傷つくことも。
事実から逃げてきたのは、シノもキサラも一緒。
今、そのときが来たのだろう。
キサラは静かに頷いた。
「シノがすべき、と思うことをしなさい。私の仕事は本来私の仕事だから。シノは気にしなくてもいい」
「師匠…」
人生の転機はこうして訪れるのかもしれない。
キサラは水面が揺れる皿の縁をなぞった。
「私は明日また紅家に戻る。明日のお茶を淹れてくれたら、帰ってもいいのよ」
「師匠、あ、ありがとうございます」
シノは皿の水がこぼれることもいとわず頭を下げようとするので、キサラは慌てて頭を起こさせた。