一、『沼地の闇医者』
かつて妖怪が地上に溢れたとき。
この国では人間と鬼が手を組んだ。
鬼は人間に、妖怪からの安全を約束した。
人間は鬼に、社会や文化を豊かにする技術を提供した。
人間と鬼に同調した妖怪達は、一つの国を作った―――。
* * *
「夏だなぁ」
地面で干からびたミミズを眺めて呟く。
カンカン照りの地面に這い出てしまったミミズは、その場で力尽きたらしい。
自分も気を付けねばなぁ、とキサラは笑いながら、ガラス瓶の中に落とした。
夏にしか手に入らない素材を目にすると、夏を実感する。
他にも夏草をいくつか摘み取り、機嫌良く自分の小屋に向かう。
北領にある沼地。
その中央にある小屋はキサラの家であり、薬品庫であり、診療所でもあった。
日陰の多いこの場所は、夏の暑さで疲れたものたちもやってくる。
キサラを必要とするものに、キサラは治療を提供していた。
そんなキサラの小屋の前に、患者とは思えない、黒い影がある。
「お師匠さまぁあああ‼‼」
「……師匠と呼ぶのをやめて、シノ」
沼地を渡り小屋にいく橋に足をかけた瞬間、キサラを呼ぶ声。
足を止めてしゃがむと、一匹の河童が震える瞳でキサラを見上げていた。
「おおおおお待ちしていましたぁああ‼‼」
「あの人たちのことね……」
「そうなんですぅうう！」
瞳と頭上の皿から、透明な液体が溢れる。
シノは子どもの河童で、妖怪の医者になりたいと数年前からキサラのところに入り浸っていた。
今はキサラ不在時の留守番をお願いしていた。
キサラとしては、薬の原料になる河童の爪がいつでも手に入るという意味で重宝している。
橋を歩いてくる複数の靴音。
キサラは立ち上がった。
「『沼地の闇医者』 円弧 キサラ先生ですね」
「闇医者ではないです。個人医です」
『沼地の闇医者』
一部でそう呼ばれているのは知っている。
だが、病院で働いていないというだけで、そう呼ばれるのは正直気分が悪い。
「も、申し訳ない」
『闇医者』と呼んだ男がすぐに謝ってくる。
目の前に並ぶのは二人、白衣を着た男と黒いスーツを着た男。
どちらも質の良い生地で仕立てられている。
『闇医者』と呼んだ白衣を着た男がばつの悪そうな顔をして、頭を下げた。
「私は、紅家の専属医をしております坂城です。このたびは、円弧先生にお願いがあり、伺いました」
「私は、紅家執事長をしております、赤居です」
隣の黒い髪の男が無表情で名乗る。
キサラは眉をひそめた。
紅家。この国の南に領地を持ち、南の砦を守る火の鬼の一族。
そういえば、二ヶ月前から自称紅家からの手紙が頻繁に来ていたことを思い出す。
内容があまりにも現実とかけ離れており、繰り返し来る手紙に『受取拒否』の文字を書いて送り返していたのだった。
「何かご用ですか」
「あの、何度かこちらから依頼をさせていただいていた内容なのですが……」
紅家の専属医 坂城がおずおずと切り出す。
キサラは手紙の内容を思い出そうとするが、首をふった。
「自称紅家からの依頼をいただいたことは覚えているのですが、内容は忘れましたね」
「あなたは…なんてことを…」
「だから言ったではないですか、赤居さん。人間は直接交渉したほうが早いって」
「そうですか…」
黙っていた赤居がごそごそと胸元を探る。
「人間はわからん。紅の鬼からの依頼ならすぐに対応するのが普通でしょうに」
「それは鬼の普通で、我々人間、とくに医者は違うんですよ」
「そうですか……」
そう言いながら赤居が一つの書類をキサラに提示する。
「円弧 キサラ様。紅家の次期当主 紅 ナツヒ様の診察・治療を依頼します」
「はぁ……⁈」
一番下には、紅家当主の名前が直筆で書かれていた。
今回は自称ではないようだ。
