邪智暴虐
恋人――とは。
友達や知り合いとは異なり、特別なパートナーである。定期的に会う機会を持ち、一緒に過ごす時間を優先的に持つ。お互い両思いであるという気持ちを確認している。
――というものが挙げられる。弟にそういう相手がいる事も知ったうえでなお、にわかには信じがたい奇跡が連発している。
おお、と言うしかなかった。
水瀬さんは少し考え、言った。
「⋯⋯もしかして君も、あの子たちの間柄とか知ってる?」
「⋯⋯間柄」
「え、変なこと言ったかな?」
「間柄って、なかなか使わないので。さらっと出てきてびっくり」
「他と比べたレベルは?」
「⋯⋯『邪智暴虐』を、教科書以外で言われた感じ」
「そりゃあ、すごいねえ。間柄⋯⋯そう、常用じゃないのか。あ、それで君さ、弟くんからカミングアウトされてるの?」
私は使い慣れない海馬をフル活用し、思い出す。
「⋯⋯や、スマホを⋯⋯通りすがりで見たとき」
水瀬さんは目を瞬いて、君もかあ、と頭を抱えた。その時ちょうど商店街に入ったのだが、彼は和菓子屋に並びながら会話を続ける。
「⋯⋯せめてどっちかが正面から言われてりゃあな、ちゃんと応援できるのにな⋯⋯」
「あなたも言われてないんですね」
「残念ながらー⋯⋯あ、この琥珀糖、十二個入をお願いします」と、財布を出しながらも水瀬さんは、それで、と接続詞を並べた。「僕はいつなら言ってくれるのか機会をうかがってる。君は?」
ショーケースからは目線を外さないまま問われ、
「同じく。恋人いるなら言ってくれよって思いますよ。ノンデリみたいなこと言っちゃうかもしれないし」
ポケットに手を突っ込み、数歩離れながら返す。
会計の邪魔になりそうな予感がしたのだ。
朗らかに和菓子を受け取り、水瀬さんは再び言い始めた。粘着ストーカーか。
「⋯⋯あいつ、ちゃんとやれてるか心配なんだよね。結構ばかだし馬鹿だしバカだし。いいヤツなのに⋯⋯」
ウンタラカンタラ。本当にいい兄をしているんだなあと感慨深くなった。
私とはまた、大違いである。ただ一つ言いたい。
「ウチの弟もいい子ですよ。しっかり者だけど、ちゃんと冗談も通じるヤツです。ちなみに努力もできるクソガキ。私より何でもできやがって」
和のほうが兄らしい、生きている価値がある人間だと思っている。それはこの十三年と少し変わらないし、口惜しいし憎いけれども、変わらず私の弟であり続けてくれるいい子なのだ。
なので。
「とにかく、私は横断幕でも振っていたいです」
「⋯⋯なに、それ、どっち? めっちゃ応援してるってこと?」
「そういうことです」
そこで、あれ、と思った。商店街を抜けている。
ここまでくると、私も知らない土地だ。
――どこだ、ここは。
とりあえずとばかりに断りを入れてパンの無人販売機に走り寄り、メロンパンを購入した。おいしいやつという確信がある。
そして隣の販売機を見るとちゃっかり水瀬さんもカレーパンを手にしており、二人してパンを持ちながらの移動となった。
「川ありますね」
すこし先の方に、橋のかかるわりと大きめの川が流れていた。ここからでは草が長くて見えにくいが、水面が陽を四方八方にひらめかせている。
と、水瀬さんが呟いた。
「飛び石もあるね」
顔を見合わせ、ガッツポーズを取る。
その瞬間、顔に風が当たった。次に、え、と困惑の声。私は隣を見て、そして斜め上を見た。
茶褐色の羽根が光のひだをすり抜けて、太陽に縁取られながら舞い上がる。
「⋯⋯ああ、トンビ」
目の端に光の束が散る。
「⋯⋯え、何で走るんですか!」
それが水瀬さんだと理解したあと、私は数歩遅れて走り出した。
犬の散歩をしている人たちが驚いたように身を引いて、それでも彼は止まらない。
海に、線路に、工場を横目に、川を下って走る。
ようやく彼がゼェゼェ言いながら立ち止まったのを前に、私もまたヒィヒィ言いながら足を止めた。
正面には林――正確には小さな森があって、それは海のつながっている。
水瀬さんは空を仰いで、あーあ、と言った。
「⋯⋯だめか〜⋯⋯」
「⋯⋯はあ⋯⋯? なんですか? 何が?」
「何がって? カレーパンだよ」
は? と私は眦を吊り上げ、まじかよ、と素のままで額を掻いた。
「あんまり必死に走るから、もっと大切なものが取られたのかと」
「え? ナイナイ。ご飯が最上」
さいですか⋯⋯と生ぬるい目を向けてから、私はそばの縁石に座り込んだ。
なんだか気が抜けた。