万年金欠
『あ、魚崎?』
蛇口と格闘しながら取ったスマホには、水瀬の文字が浮かんでいた。非常に申し訳ない。
「⋯⋯すいませんまじで! 財布⋯⋯私財布忘れていきましたよね!?」
『わかってんなら話が早い⋯⋯まって、今何してるの? 音がおかしい』
「蛇口が⋯⋯戻りません」
『あやうくバカって言いかけたわ』
「⋯⋯あー⋯⋯返す言葉もないです。スピーカーにしていいですか?」
『ああうん。早くしたほうがいいねそれは』
「どうも」
皿をすべて洗い替えていたのがせめてもの僥倖。私は蛇口を両手で押す。シンクを挟むため、とても動きづらい。
『⋯⋯続き、メールで言おうか?』
「ああいえ、お構いなく!」
正直なところ財布さておきの状況ではある。
困惑気味の水瀬さんの声が電話越しに響く。
『⋯⋯そう⋯⋯えーと、財布⋯⋯は預かっといていい? 不安?』
問題ないです、と叫びながら蛇口を押し込む。
硬い感触。パキ、というよう明瞭な音が聞こえたが、それはもうこの際どうでもいい。
逆転ゴールを決めたサッカー選手の如きガッツポーズ。
「――戻った!!」
『おめでとう』
「最高の気分です。どうぞ続けて」
『安心して続けられるよ。それで、財布取りに来る? それとも持っていこうか?』
「取りに行きます」
『フリーパスは?』
「⋯⋯財布の中」
沈黙が痛い。誠に、本当に申し訳ない。
私は残りのお年玉の金額を考える。うちの家は、お年玉がお小遣いになるタイプだ。
「ギリいけるか⋯⋯取りに行きます、水族館ですね?」
『ギリいけるかって言った? 金欠?』
「万年金欠です。なぜか」
『気持ちはよくわかるよ。悲しいけど』
「はは⋯⋯いつ行きましょうか?」
『水族館じゃなくてもいいなら、お金かかんないけど』
どうする、と言うのが最大限の配慮であることがよく分かった。
「⋯⋯お言葉に甘えさせていただいても⋯⋯」
『いいよ。どこがいい?』
「ウーン⋯⋯どこでも⋯⋯? あ、水瀬さん、おすすめスポットとかあります? 私あんまそっち側行かないので」
『そうだねー⋯⋯海が見えるところがあるよ。とても良いところ』
電話越しでもわかるほどに穏やかな声で、私は少し言葉に詰まった。そういう声を、私は知っている。それはそれは、よく。
彼はたぶん、俯いて遠いところを見ているんじゃないだろか。
窓の奥に宇宙があって、自分が小さな箱庭にひとりぼっちで居るみたい、と突然気づく瞬間は、そんな感じになる。つまり、置いていかれた感じ。
『――⋯⋯魚崎?』
「あぁはい、はい。なんでしょう」
『細かいことはいつ決めよう? 財布って、かなり大変だよね。どうやって来るの?』
「自転車で向かわせていただきます」
『⋯⋯それ、大丈夫?』
「いやぁ⋯⋯地下居住区をあまり通らない暮らしをしてるんですけど⋯⋯まずいですかねえ」
『まずくはないけど』
「⋯⋯水瀬さんは地下ですか?」
『違うけど』
「人のこと言えないじゃん」
『あはは⋯⋯ところで、今日は何曜日かな?』
「日曜です」
スマホに出てないんですか、と訊きたかったが、わざわざ耳から外してスクロールするより、訊いたほうが早いか⋯⋯と謎の共感性を発揮し、止めておいた。
『明日も休日?』
「⋯⋯あぁ! そういえばそうですね」
やったぜ、と小声で呟く。
『⋯⋯明日行ける?』
「いいっすね。行けます」
『おっけー。何時?』
「えー⋯⋯えー? 三時⋯⋯かなぁ」
『なら行けるね』
「なんか予定ありました?」
『睡眠って大事な予定がね。君もそうでしょ?』
「よくおわかりで⋯⋯やべ、帰ってきたかも」
スマホを手でおおって、声をひそめる。
ちょうど、自転車の両立スタンドがコンクリートに擦れる音がはっきりと聴こえた。
『大変だね。それじゃ、なんかあったら送って』
「ありがとうございます、では」
通話を切ると同時に、開錠音。
「ただいまー」
「おかえり」
私は必死でシンクを拭きながら、平然を装って声を返した。