Note.4 ワインと檸檬
萌美は県美術館の壁画を作成するも体調が優れず家族を残し亡くなっていく。残された彩夏はどうするすべもなく萌美の過去を遡って考えるが自分と翔太が異母兄弟だと思っていたが事実はそうではなかったことを知る。真相は誠が瑞菜の恋人高橋と接触し全てを解明にしていく。すさましい勢いでドラマは進展し二転三転をするがそこに人間の心の闇を知ることが出来る。最初からじっと見ていたのは「ワインと檸檬」の油彩だけだった。
Note3 ワインと檸檬
秋の夜空は吸い込まれるような綺麗な星空だった。壁画はもう少しで完成だった。萌美は不足しているのは星空を見て光だと思った。ずっと考えてきたが何が不足しているのかはよく理解が出来なかったが楔を打ち込みたいのにその楔になるものがない。萌美はぼんやりと考え数か月も経っていたのだった。そしてその不足しているものは光だし、自分自身も光が欲しいということが分かった。そうなるともうあとは描き切ることだけである。萌美は作られた足場や脚立の上から描く覚悟が出来た。
その光は篝火を主体にした花火だ。岐阜の花火は有名で自然との調和が上品に表現され歴史的な鵜飼いの篝火の絵巻は将に戦国絵巻で信長さえ感動したという。左サイドから大きく突き出した鵜飼大橋が突き出し、その下に鵜飼船が篝火を炊きながら下って来る総絡み。萌美はもう構想は模型に形を作り描くだけで明日から描こうと思った。
自宅に帰って彩夏に報告した。彩夏は子供のように喜びはしゃいで乾杯しようって抱き着いてきた。二人はその日は誠の話もせず親子二人で遅くまで話し込んだ。互いに誠の話をしたいのは分かっているのだが敢えて口にはしなかった。
「そう云えば彩夏の成人式に出席できなくてごめんね。お母さんが出席してくれたと思うけど大丈夫だった?」
「大丈夫だよ、もう大人なのだから。おばあちゃんもまだしっかりしているから。写真パソコンで送っただけだったね。持ってくるよ」
そう云って彩夏は立ち上がってアルバムを持ってきた。昨年萌美が居ないので祖母が一緒に成人式に出席してくれた。そして大将が撮ってくれた写真をじっくりと見つめた。
「ママの成人式の写真ってあるの?」
「それはあるわよ。見たことないの?じゃあ見せてあげる」
萌美はてっきり見ているものと思ったのだが実際の写真は知らないとのことだった。萌美は古い本棚からアルバムを出してきた。このアルバムには誠との生活がぎっしり詰まっている。ちょっと迷ったが一冊のアルバムを取り出した。
「これが私の成人式の写真よ。もう二十年前にもなるかな」
「ママ、綺麗。すごいね。モデルみたい」
初めて二十歳の写真を見て彩夏はすごく感動していた。萌美は桜を彩った和服を着ていた。実家の四国で式を挙げたのだけども周りからは浮いているような存在でそれだけ美人だった。
「やはり私と彩夏は似ているね。彩夏も綺麗だよ」
萌美はそう云ってワインを飲みほした。複数の品種をブレンドして作られるボルドーワインの瓶は碇肩で頑丈に見えるが特にAOPワインの最高の格付けが明快で好きだった。
「成人式の思い出って何かある?」
成人式は母親と行くと周りは同級生ばかりでみんな知っている幼馴染だった。その分気が楽だったが母親は随分喜んでくれたと萌美は話した。その時の写真を彩夏に見せてあげた。
「この写真は母と一緒に撮った写真だよ」
「おばあちゃんいくつの時だろね。おばあちゃんも綺麗。多分二十歳の時だからママと同じ位かな。あれ?するとおばあちゃんはママと私の二人の成人式に出席したのだね」
彩夏はそう云って笑った。そしてパラパラと写真を捲っていると誠の写真が出てきた。萌美は「あっ」と小さい声を漏らした。誠と二人が写真館で記念の写真を撮ったものだ。
「二人とも幸せそう・・・・・・」
「そう云えばこの壁に掛けている『ワインと檸檬』はその時の絵だわ」
萌美は急に思い出したように喋りだした。
あの時、写真館で写真を撮った後酒でも飲もうかということになり取りあえず口当たりの良い飲みよいワインにしようとドイツワインを選んだが、あまり酒に強くはない二人はぐったりするほどワインを飲み少し悪酔いしたことを覚えている。ボトルの形は非常に興味深く綺麗であったし色も瓶の色が青や緑が鮮明で魅力的だった。
「萌美は絵描きになっていくのだなあ。今からメジャーなのだから就活の心配はいらないね。僕の方は今から探さないと小説家では飯が食えないから仕事をしながら何処の新人賞に応募して頑張るかな」
「確かに最近では同人誌に入るよりも直接雑誌社の新人賞に応募する方が多くなってきたような気がするがこれも時代の流れかな。仲間内で傷の舐め合いをしても何の価値もないよ。私たちの仲間にもそう云う同好会が沢山あるのは事実。でも私はそれではそこで終わりだと思ったの。私はプロになる、つまり絵で生計を立てると決めたの。だから後ろ盾のない厳しい方を選択したのよ。誠にそうしろとは云わないが芸術で生きるということは非常に孤独だよ。完成したら発表もしたいし意見も聞きたい。でも職業とするならお金にならないのなら意味がないのよ」
二人は萌美の部屋でワインを飲んでいた。確か成人式が終わって数日たってのことだった。あの頃の二人は野心の塊で萌美は世界に羽ばたくのだと云っていたし、フランス、ドイツ、イタリアなど世界を旅してみたいと自慢気に云った。萌美は誠に世界一周させてあげると云い、誠は誠で自分は流行作家になるのだと云って笑わせた。ともあれ確かに二人とも二十歳の夢は計り知れなかったが大きな夢をもっていたことは事実だった。
そんなことを二人で語りながらワインを飲み一本は空けたが二本目になれば二人とも酔ってその場に寝てしまった。その時のイメージで描いたのが「ワインと檸檬」だった。何故檸檬があるのかというと檸檬の独特の酸味が好きだった。どちらかというと酸味のきついのは嫌いなのだが檸檬の香りが好きだった。そして何よりも好きにさせたのは高村光太郎の「智恵子抄」の詩の「レモン哀歌」の一節で「智恵子はがりりと噛んだ」というイメージが好きだった。自分が主人公のような錯覚を抱いてしまうのだが、確かにワインの空瓶とその傍らの黄色い檸檬は何となく違和感があるかもしれないから檸檬はこの絵には必要だった。ワインの飲み干しが檸檬によってどれだけ救われたか分かるだろうか。それは誠のアイディアだった。誠は檸檬を冷蔵庫から二個取り出して一個を智恵子と同じようにがりりと嚙んだ。そしてもう一個は萌美に渡した。彼女もがりりと檸檬を噛みお互い顔を見合わせ黙って笑った。萌美は誠の意味が分かるような気がしたがそれを口に出しては云わなかった。「ワインと檸檬」の絵画にはこのような経緯があったのだ。萌美は今はっきりと二十歳の日のことを思い出していた。
萌美は翔太のことを今話そうと思った。しかし翔太の話をすることに恐怖を覚えたがどうしても隠しておくわけにはいけないので機嫌のいいこの時に可愛そうだがもう終わったことなので話をしておこうと考えた。
「実は彩夏、翔太君のことで話があるの」
「翔太の話?もう随分日が経ったね」
萌美は翔太の出生の秘密を細かく話した。それは自分たち親子の人生そのものにも拘わることだったので、彩夏にすれば興味というより隠された秘密の扉を開けるようで別の怖さがあるように見えた。大学時代の瑞菜と高橋という遊び仲間の子供で、誠と結婚後も関係は続き不倫の結果生まれ誠の子供ではなかったのだと云った。
「翔太があいつの子ではないということはこの前大将の店で聞いたね。あの時は気が動転していたから何が何だか分からなかったがそれにしても酷すぎる。私には納得できない、何といってもあの女は私を叩いたからね。今度は叩き返してやる」
確かに彩夏にすれば誰に責任を取ってもらえればいいのか、瑞菜が結局なにもかも悪者ではないか、今から佐々木組に行くと云い出した。萌美は今更行っても何にもならないし実際に翔太は帰ってはこない。もう少し大人の対応をしてくれと彩夏の手を取り話した。翔太はそういう運命だったのだろうかと立ち上がった彩夏の目からぼろぼろと涙が流れて頬を伝わり床に落ちて行くのを萌美は見た。
彩夏は何を思ったのか萌美の携帯を手にして誠に電話を掛けた。
「彩夏です、突然にすみません。今母から翔太の事実を詳細に聞きました。私には納得がいきません。どうしても翔太が一人責任を被るようで悲しくてたまりません。あいつに一言云わないと私の気持ちが収まりません。電話番号を教えてください」
「彩夏やめてよ!」
萌美は彩夏の携帯を取ろうとしたがその場から他の部屋に走り携帯を萌美に渡さなかった。
「彩夏ちゃん、悔しいが事実なのだ。何と云ったらいいのか、僕がだらしないばかりにこんな人生の選択をさせてしまった。瑞菜の電話番号は知らない。別れる時にもう携帯は変えていたので削除したのだよ。しかし、弁護士に聞けばわかると思うけど知らない方がいいよ」
彩夏は翔太のことを思うと泣けて仕方がなかった。萌美が携帯を彩夏から取り上げて誠と話した。彩夏は床に頭を擦りつけて泣いていた。
「翔太君のことは事実なので最初は隠しておこうかとも思った。でも先日大将の店で話をしているので寝ている子を起こすようで心苦しかったけど話すことにしたの。何もかも私たちは隠し事をせずに今まで生きてきた。だから今回の事件もあなたには悪いけど話をしたの。ごめんなさい」
萌美はそう云って静かに携帯を切った。
二人の間には不思議な静寂の時が流れ、それはすごく長いような気がした。彩夏は壁に掛けられた絵をぼんやりと眺めた。萌美は絵を眺めている彩夏を見て彼女は今翔太と一緒の世界にいるような気がした。
「翔太と結婚することが出来たのよ。責任取ってくれと云ったのはあの女なのだから今度は責任を取ってもらう」
静寂を破るように彩夏は大きな声でそう叫んだ。萌美は彩夏の行動をたしなめてテーブルに座らせた。彩夏は手で涙を拭きながら崩れるようにソファーに座った。
「彩夏、人生にはいろんなことがあるのよ。私もこの事実には驚いた。でも考えたら二十年前から続いていた二人は私たち家族の結束を強めたのかもしれない。あの時誠が瑞菜と結婚しなくてもこんなに脆いものならば私は本当に誠と結婚していたかどうかも分からない。説明をしなかった私が悪いのだけどそれを若さというにはあまりにも単略過ぎるし酷過ぎる。もっと根っこの部分で翔太君のことは予測が出来たのかもしれない。可哀想な薄命な子だったね」
萌美はそう話をして外の景色に目を移した。
窓から見える長良橋には多くの車が往来している。少し左を見ると屋形船が並び昔風情の情緒を残した街並みがあるが、そこは歴史の一端で街起こしの一ページとなっている。
暫く静寂の後に大将から電話がかかってきた。
「先生、よかったら今からお寿司持っていきますけど・・・・・・。ネタが残って明日には使えないのですよ。市場で買い過ぎてしまったのでそちらに持っていこうかと思うのですが宜しいでしょうか」
大将は先日のことでかなり気を使っていることは分かった。萌美は大将に
「大将一緒に飲みませんか?出来たら女将さんも一緒に」
「本当ですか?じゃあ改めて電話させてもらいます」
そう云って大将は電話を切ったが折り返しすぐに返事が来た。
「先生、実は従業員も一緒に彩夏ちゃんと飲みたいというのですが大丈夫でしょうか」
「わあ、賑やかになるね」
「聞こえました?彩夏が喜んでいますので是非皆さんで来てください」
彩夏は翔太のことを忘れようとしているのが手に取るようにわかった。萌美は大将とお弟子さんが一緒に楽しんでくれるのならば云うことはない。そこに萌美は翔太の幻影を断ち切ろうとしている意思と影のある彩夏の姿を見た。その夜は彩夏の気持ちを和らげることが暗黙の了解で楽しい一晩を寿司三昧のみんなと過ごした。従業員は彩夏がアルバイトを一緒にしているということもあって気心が知れている者ばかりで将に彩夏の日という感じだった。
今頃誠は何をしているのだろうと不意に萌美は思った。こんな輪に入ることができない彼を哀れだと思う反面、運命という言葉で片づけるにしては残酷に思えた。明日から絵も描かなくてはいけないし兎に角頑張ろうと思ったが、どちらにしても彩夏を自分が守っていくしかないのだという事実は変えることはできないことだった。
リビングの絵はみんなを見つめるように静かに壁に掛けられている。この絵は彩夏の成長や二人だけの思い出を知っているし、翔太や誠などみんなを見てきた。どう生きていけばいいのか、正しい舵取りはどうなのだろうかと喋ることはないが何か不思議な力を何時も貰って来たことには違いない。何もかも見ているということは正しい判断だとは云えないが少なくとも二十年の歴史を知っている。萌美は自分もその先にメッセージとして見通せればいいのにと背中に大きな笑い声を聞きながら思った。
その時また萌美はぐらっときて床に倒れた。
「萌美ちゃん!萌美ちゃん!」
「誰か来て。萌美ちゃんが・・・・・・」
女将さんの声に彩夏は台所に飛び込んできた。
「ママ、ママどうしたの?」
暫くして救急車のサイレンの音が止みマンションの一階に着いた。救急隊員が担架をもって部屋に直行してきた。
「このお家の方は車に乗ってください」
そう云って萌美は一階まで運ばれた。病院には彩夏と大将が行くことになった。大将は彩夏に言った。
「最近仕事がきついんじゃないかなあ。個人的にも大変だったし」
彩夏はもしものことがあったらどうしようと不意に思った。誠に電話をすべきかどうかそれも頭をよぎったが様子を見てみようと思った。最近はよくこういうことがあって最初は貧血かなとも思ったがどうも違うようだと感じた。実家でも倒れて帰って精密検査を受けたが異常はなかった。倒れた翌日はかなり顔色も悪いのだがすぐに体調が戻るので今の時点では左程心配はしていなかったのだと大将に話をした。
救急病院では基本的な応急手当は出来なかったが急性心筋梗塞の疑いがあるとの医者の見解であったが明日血液検査やそれ以外のエコ―検査、心電図、結果によってはカテーテルの検査もしてみたいとのことだった。
壁画の発表は遅くてもこの秋分の日には完成していなくてはいけないし何としても完成をさせたいと思っていたが萌美はその気持ちとは裏腹に気力がどうしても散漫になって充実しなかった。病院で翌日血液検査をしたが血圧が高めである以外はそう心配はなかったが、空気が抜けたように倒れてしまうのは異常がどこかにあることに違いはなかった。二十四時間の内心臓の不整脈があるかもしれないということで検査してみた。後はCTかMRIの検査をしていくかではあるが兎に角時間がなかった。点滴をして血液の異常が見られなかったので二、三日経過を見て萌美は退院した。
退院後いよいよ本格的に現場に入った。何もかも忘れて絵具をナイフや大小の絵筆などを使い集中し器用にキャンパスにぶつけていった。もう時間は止まらない。一気に徹夜をしてでも描こうと思った。幸い彩夏も付き合ってくれるというし何かあったら困るので彩夏にすれば傍にいなくてはいけないと思ったのだろう。差し入れは大将が萌美の好きなネタで弁当を作ってくれた。アトリエに寝袋や毛布数枚持ち込みポロシャツを着こみ、化粧もせず髪を後ろで束ね帽子を被り一心不乱に絵を描き続けた。時には泣きながら、ある時は笑いながらそして歌を歌いながら感情のままに描き始めた。それでもまだ三分の一も出来ていなかったがどんどん進行していく様子がよく分かった。彩夏は完全に母親が自分の世界に入り、このようなきつい眼差しでキャンパスを見つめ何も喋らず黙々と仕事に励む姿を見るのは初めてだった。
「ママ、休憩しない?コーヒー飲もうか」
彩夏はそう云ってコーヒーを持ってきた。ジーパンやポロシャツに絵具が散乱して付着しているのだがそれも気にする様子もなく病気も左程今のところ影響はないみたいなので彩夏も安心していた。
「彩夏がいるから助かるわ。いつもは助手を頼むのだけど今回だけは自分一人でやりたかった仕事なの。それを彩夏と二人で出来るのって最高だわ。きっといい絵にして将来ずっとここに飾られていたいよね」
萌美はそう云って彩夏を笑わせたが彩夏は母親の決意をまざまざと目の辺りにして嬉しくもあり反面芸術家としての怖さも感じた。
「現場には誰も入れないでね。特に雑誌社や記者の方は断って。それから県や市の職員の方がもしも見えたら時間調整してから来てくださいと伝えて。もう二週間もあれば完成するから」
「あの男がきたらどうする・・・・・・」
「多分よく知っているから邪魔だと思って来ないよ」
そう云って萌美は暖かいコーヒーを飲み笑顔を彩夏に見せた。
「音楽でも聞く?」
「音楽?いいよ。気が散って集中力がなくなるから」
そう云って萌美はまた脚立に上がって作業を始めた。何としても秋分の日のイベントまでには約束の期限なので仕上げなくてはいけない。その日は美術館のイベントもあり県の公式行事も既に決まっているために出来れば秋分の日から一週間ぐらい前には完成をしておきたかったのだ。また県の関係者からもそう依頼されていた。
秋は芸術の秋といわれるようにイベントが全国でたくさん催される。この岐阜県においても同じで大イベントの新しい作品点の目玉が萌美の壁画だった。しかし、誰も中身は知らない。新聞社や週刊誌も知らない。知っているのは萌美と彩夏の二人だけだった。そう思うと萌美は痛快だった。そんな中で地元新聞社が特別インタビューを企画し全面に掲載したのだった。
場所は県庁の一室で窮屈な部屋でのインタビューを受けていた。司会者は主に絵を描くようになった動機を聞いてきた。萌美は気がついたら絵を描いていたが自分の心の中に幼い頃体が弱かったために、両親とともに護摩堂や霊山と言われる西日本最高峰の石鎚山やその西部に属する笹ヶ峰に登ることで何時しか信仰の気持ちが強くなり、その時の梵字など不思議に思ったと語った。あれは何であったのだろうかと思ったりしたがやはり自分の原点はああいった宗教の世界が根っこの部分にはあるのではないかと考えたりしていると話した。かといって宗教に熱心だということでもないのだがただあの場所に飾られている仏画が非常に神秘的な絵であったことが今の自分の芸術に繋がっているように思うと話した。そのことが鵜飼いの篝火や美濃の歴史に通じる。
司会者は今回の絵のテーマは何を表現しているのですかと聞いてきた。萌美は私の絵のテーマは家族であり、切るに切れない血の歴史の連鎖なのだと話した。司会者は何か怪訝そうな顔をして笑みを浮かべたがすぐに気を取り直し今後どのような絵を描きたいかと聞いてきた。萌美は将来のことは分からないけども多分に未来を予言する宇宙を題材にした絵を描いてみたい気がすると答えた。
翌日新聞の一面を割いてその記事は萌美の顔を前面に出し、大きくインタビューを中心に紙面は美術館のイベントを始め各行事のスケジュールを掲載していた。
精魂掛けた壁画は縦1.8メートル、横1.8メートルのキャンバスで下の方に大きく横たわっているのが長良川だ。左手には夕闇に輝く夏の花火が書かれている。山下清の長岡の花火の版画を思わせるような縦横無尽に描いた絵が描かれていた。萌美が一番苦労をして何かが不足しているとずっと悩んでいたものは生命だった。金華山に突き刺さるように鵜飼大橋が突出している。斜張橋の構造である鵜飼大橋は大きく太く一本の線というか柱で描かれそこから遠くに鵜飼船が見えるようになっていた。暗闇の中に怪しく燃える松明。その六艘の鵜飼船が総絡みで一気に下って来るのだがこの絵は何故か五艘は下るのだがただ一艘だけは流れに反して川を上ろうとする。その篝火はバケツでペンキをぶちまけた様な異様な波紋を広げていた。その大きな一体化した篝火は凡そだれも思いつかないような六隻の篝火を一つに集約したものだ。この光が絵のテーマ命の歴史だった。萌美の生き様がそうであるように、時代にそして自分の人生の生活に逆行せざる得ない姿なのだ。どうしても六艘の船の総絡みは描きたくなかった。敢えて一隻が離れて上流に上ろうとする風景は、将に不器用な人生のようで思うようにはならないという自分の構図を展開したのだった。萌美はこの絵を彩夏に見せた。
「ママ、凄い・・・・・・」
彩夏は興奮していた。壮大なスケールの中に美濃の歴史と伝統と近代的なものを調和させた見事な絵であった。驚きと共に母親の凄さに尊敬の念を改めて持った。
「彩夏、サインはあなたにさせてあげる。だから左下のこの位置に大きく赤い色でMと入れなさい」
「えっ・・・・・・、どうして?」
「この絵は彩夏がいたから描けたのよ。私一人だと多分途中で投げ出していたかもしれない。だからサインは最初から彩夏にさせたいと思っていたの」
彩夏は萌美の顔を見つめていたが思い切って入れることにした。
「力一杯書くね」
そう彩夏は云うと萌美の絵に向かって気持ちを落ち着かせるように暫くの静寂が流れたが、長良川が画面の真横にどっしりと横たわっているその下に大きく息を吐いてから真っ赤な絵の具で力強くMと入れた。
萌美はパチパチと拍手した。そして二人はその場で暫く抱き合いじっと余韻を楽しむように何も語らず身を寄せあった。この絵のタイトルは「萌えるMINO」と彩夏がつけた。どうしても母親の一字を入れてみたかった。二人は出来上がった絵を前にして座って肩を寄せ合い、ぼんやりといつまでも眺めていた。それは時間にしてすごく長いような気がしたがその場から離れる気も起らなかった。
オープニングセレモニーは秋分の日の前日に行われた。その日は澄み切った青空で何処までも幸福という気持ちが続いていくようなそんな天気であった。広い敷地を跨ぐように入ると会場は美術館に入ってぐるりと回った正面にあった。非常に大きいものだけに会場の天井の高さにも負けず廊下の部分では見劣りはしなかった。その会場に絵は飾られ紅白の幕で覆われて両サイドには紐がついていた。それぞれのセレモニーが始まり関係者が司会者の音頭に合わせ紅白の紐を引っ張った。縦1.8メートル、横1.8メートルの大きな正方形の壁画がお披露目となった。幕が引き落とされると、おおっというどよめきや新聞社や週刊誌など記者のカメラのシャッター音で会場は一気に盛り上がり一斉に参加者は拍手をした。暫くして会場が落ち着きを取り戻すとそれぞれの立場の関係の人々の挨拶を司会者がスケジュール通り進行していった。まず美術館館長が挨拶し県知事や教育委員長など続々と挨拶の連続で彩夏は末席で見守っていたがちょっとうんざりした。最後に司会者が作者を紹介しますと云ってやっと萌美を壇上に呼んだ。一段と大きい拍手に迎えられ萌美は壇上に上がった。萌美はピンクのワンピースを着こなし司会者から紹介されそして挨拶を要請されたので語り始めた。
「ご紹介を頂いた近藤萌美です。私の絵は『萌えるMINO』とタイトルを付けました。美濃の歴史と現在、その伝統の中に此処には清流の流れや鮎が踊り金崋山があってその上に岐阜城が眼下を見下ろしている。そういった恵まれた自然環境が乱舞する美濃地方を私のテーマにしたのです。この地方の歴史は激しい戦に明け暮れた人々の悲しい思いがありました。戦国の戦場となった美濃地方は斉藤道三から信長が平定し楽市楽座で城下は活気に満ち溢れましたが、明智光秀に本能寺で敗れ自害してから城下は再び荒廃し変貌していったのです。そこには平和とか幸福とか誰も責める事が出来ない家族意識や仲間意識という居場所がありました。小さな喜びに寄り添いながら家族の絆を保って生きてきたのです。しかし、この歴史ある美濃の国でもそういった血の繋がりといいますか構築された家族といいますかそんな関係を断ち切らなくてはいけない時代がありました。それは戦国時代を終え幕末の動乱を経てから明治維新を迎えそして世界大戦へと繋がる時代の流れ、肩を寄せ合い小さな平和を心の拠り所にして生きてきて、そのことが逆に寄り添う居心地のいい場所となりこの美濃の国を発展させてきたのです。それが今一番この世に求められている必要な時期ではないでしょうか。この絵の中の総絡みの六隻の船の内一隻だけが反対の方を向いて進んでいきます。情報が満ち溢れそれぞれの主義主張がまかり通り流れに逆らい意思に反して進んでいく姿は人生の縮図のような気がします。そしてそれは私自身なのかもしれません。私の絵は今後どの様に皆様に評価されるか分かりませんが、どうか今日はごゆっくりとご観賞ご観覧のほど宜しくお願い致します」
萌美はそう言って椅子に腰かけた。椅子に座った時心配そうな顔を彩夏がしているのが分かった。しかし、時間が経ち作品の説明も終わりこれからパーティーに参加しなくてはいけない予定になってはいたのだが体がきつく萌美は急遽辞退をして帰宅した。
帰ると萌美はベッドの上にそのまま倒れ込むように埋くまって寝てしまった。彩夏は心配になって大将に電話をした。大将はすぐに飛び込んできてこの症状はおかしいから救急車を呼ぼうということですぐに電話をした。
萌美の意識はぼんやりとあったが吐き気と共に胸を押さえて声を出して苦しんだ。彩夏は救急車の中で厭だったが誠に電話をした。彼は病院の行先を聞くと今から行きますと云って電話を切った。
萌美は急性心筋梗塞であった。極度の緊張の疲れとストレスによって極限状況になっていた。病室に入って医者がカルテを取り出して先日のことと重ね合わしていくつかの検査をして緊急手術をするといって手術室に慌ただしく看護師や医師がスタッフを組んで五人ほどが手術室に入りドアが閉まり手術中のライトがついた。
病室の廊下には彩夏と大将、そして駆けつけてきた誠がいた。彩夏はどうして自分たちはこのようにいいことがあったら次には必ず裏切られるような悪いことが起こるのか不思議な巡り合わせだと呟いた。
手術は二時間ほどかかった。手術室から出てくる萌美の顔色は悪かった。彩夏は萌美のベッドに寄り添い
「ママ、ママ・・・・・・」
何度も声を出して励ましたが萌美からの応答はなかった。彼女はそのまま集中治療室まで直行した。
「あとで先生の方から説明がありますので暫く待ってください」
と看護師が事務的に話して集中治療室まで入っていった。治療室の隣はナースステーションで緊急時に対応しているようだ。彩夏は実家の祖父母に電話をした。祖父はまたあの時の病気が再発したのかと云った。彩夏はそうですと云って電話を切ったが祖父母は今からそちらに向かうと伝えて電話を切った。
大将も店が忙しいのに同じように待合室で待ってくれた。
「大将、忙しい時間だから私一人でいいです。あとで報告に行きますから・・・・・・」
そう彩夏が話して大将には帰ってもらった。彩夏と誠の二人になった。待合室では気まずい空気が流れた。それを振り切る様に彩夏が云った。
「この後の話は私一人で大丈夫です。だから此処は引き取ってください」
「彩夏ちゃん、僕は彼女に対して申し訳がない気持ちでいっぱいなのだ。だから此処に居させてくれないか」
「でもあなたは家族ではないし親戚でもない。医者の話を聞かすわけにはいかない。結果はまた改めてお話します。以前からこのように倒れていたのです。ですから余り心配はないとは思うのですがかなりママも疲れていたから」
彩夏はそう云って誠を見つめた。初めて誠の顔を見たような気がした。瞬間目が合ってしまった。彩夏は眼を外すと
「どうしてママを捨てんたんだよ」
そう吐き捨てるように云うと今まで気丈に我慢して話していたことが一瞬にして崩れ床にうつ伏し嗚咽した。誠は抱えて椅子に座らせようとした。
「触るな!」
病院の中に大きく響くような声で叫んだ。誠はその声に驚き彩夏から離れた。病院の中は夕方にしてはかなり混雑している。待合室の中で彩夏だけが孤立しているような錯覚を覚え、もしも自分ひとりになったらと戸惑いを隠せなかった。あの絵が完成した時、萌美と二人で黙って抱き合った温もりの感触がまだ残っている。彩夏はその温もりを心の中でもう一度確認するように両手で自分自身を抱きしめ直した。
その夜遅く医者から呼ばれ事務所に入った。そこは雑然とした殺風景な倉庫のような感じの部屋で小さな机と青白く光るシャウカステンだけが異様な光を放っていた。上の方を見ると段ボール箱が積み重ねられ部屋全体が雑然として寒気を催すような感じだった。彩夏は雰囲気の中で押し潰されそうな気になり猛烈な不安と吐き気を感じた。
少し小太りの医者は白い白衣に聴診器を首に掛け、最初にパソコンでCDに映した画像を見せてくれた。
「この血管が切れた」
写真は勢いよく血液が流れる画面であった。太い血管や細い血管が根っこのように無数に突き出しそれが血液の流れと共に生き物のように揺れている。血液が脈々と流れるその画面を見る彩夏には気持ちを支えるのが精一杯だった。写真の画像をシャウカステンにパンパンパンと三枚挟んでおもむろに医者は話を始めた。医者は以前からこういうことがあったのかと聞いた。彩夏は萌美が半年間アメリカにいたことやその後日本に帰国しても仕事に追われ、また私的にも色々迷惑をかけて心労を掛けたのだと話をした。
「心臓が栄養としている冠動脈が閉塞や狭窄などを起こして血液の流れが悪くなり心筋が虚血状態になって壊死状態になっています。病名は陳急性心筋梗塞といいます。発作はかなり以前から何度もあったようですね」
医師は画像を見せてこの部分ですと話をしてくれた。原因は血管内のブラークという脂肪などの固まりが破れ血栓ができて心筋梗塞になってしまったのだと説明してくれた。手術をして一応の手当はしたが一時も油断が出来ないであることには間違いはないとも云った。通常の心筋梗塞ではステントとかバイパス手術などでかなりな確率で助かっているが合併症を併発することもあるので注意するように話をしてくれた。
一週間後萌美は集中室から個室に移ることができた。両親はあの後車で岐阜まで飛ばしてきたといって萌美を笑わせた。面会謝絶であるにもかかわらず各関係者から花束や見舞客が押し寄せてきた。窓越しからカーテンを少し開けて見ると週刊記者が病院の外で数人が待機しているのが分かる。外に出ると厭だなと彩夏は思った。
萌美は体重がどんどん痩せていくのが分かった。頬が少し落ち目も少々窪んでいるような気がしたが、胸の痛みは安らいだようだ。通常カテーテルの手術では最近は三泊四日もあれば退院できるのだが萌美の場合は長年狭心症のような病状が続いていたこともあって暫く入院となった。この際仕事は一年間ほど休養するとのことで各関係者にFAXをして済ませた。
十月の後半になって萌美は退院することができた。彩夏は学校を休み萌美の看病に付き添った。両親は暫く一緒に住むからと云って学校に行くように勧めたがあまり彩夏は気乗りしない風だった。どちらにせよ頭には留学の気持ちがあったからもう学校は止めてもいいかなと思ったりしていたのだろうと萌美は思った。
「彩夏、たまには気晴らしに買い物でもしてきなさいよ。必要なもの書いておいたから買ってきてお願い」
「今日はお天気もいいからママも体調がよさそうね」
そう云って彩夏は笑った。母は来客が見えるのでそれを捌くのが大変だった。インターホーン越しに話をするのだが決まって断りの言葉をかけていた。
退院してから大将や誠たちはお見舞いを持って訪れた。久しぶりに萌美に笑顔が戻ってきた。萌美の部屋の窓からは寿司三昧の大将の店がよく見える。忙しそうに店内を行き来している様子まで見える。夜彩夏は寿司三昧で働いていた。働くことで気が紛れるし萌美と両親とも久しぶりだから親子で過ごす時間を作ってあげたいと彩夏は考えたのかもしれない。退院してすぐに誠は家に来た。両親に挨拶をしてそして萌美と話をしたのだった。誠は普段あまり感情を表現しない男だがその日は何故か陽気だった。
「萌美、今度健康を取り戻して落ち着いたら温泉でも行こうか。下呂温泉に友人がいるので来いというから行ってみようよ。彩夏ちゃんもご両親も一緒に行こうよ。費用は全部僕が持つから」
そういえば白川郷にも学生時代に行ってからずっと行っていなかったことに気付いた。
「白川郷にも近いから行ってみたいね。学生時代に行ってからご無沙汰だなあ。お母さんは知らないでしょう。合掌造りって」
「四国は入母屋造りだから知らないよね。それに藁葺屋根で三階建ての建物ってどんなものなのだろうね。お父さん知っているの?」
「以前写真やテレビで見た気はするけど確かライトアップしたりあちこちで一斉に放水したりするのだろ?藁葺の三階建てなんてちょっとロマンティックな建物だよな」
「その白川郷の絵が僕たちを結び付けた絵だったのです。ある意味あの絵がこのような運命を引き寄せたのかもしれない」
「そうね」
萌美は誠の言葉に対し頷き目を落とした。
秋が終わりいつしか冬を迎えた。一年間の休養宣言をした萌美は一度行ってみたい処があった。それは毎年四月十九日、二十日に飛騨市古川町で行われる重要文化財の指定になっている気多若宮神社の例祭だ。四百年もの歴史を数えさらし姿で裸男が担ぐ櫓には直径八十センチの大太鼓がありその上に若者二人が背中合わせに股がり、そのすぐ下には二人の太鼓を叩く若者がいる。四人で大きな太鼓を上下、左右に打ち叩き太鼓の音が飛騨古川の町に響き壮大な風景を醸し出す。周りは提灯を掲げて一層太鼓を叩く若者達を浮かび上がらせる。ワッショイ、ワッショイ、ソーレの掛け声とともに打ち出し太鼓をドーンと叩く。昼間は豪華絢爛な屋台の曳き揃えで奉納をし、夜は逆に裸男のぶつかり合いが楽しめる。昼間はからくり人形、踊り舞台で子供歌舞伎などが実施され「静」を演じ、反面夜は激しく勇壮な起こし太鼓を叩き「動」を演じる。春の名物で暖かくなったら行こうと思った。みんなで行ければいいが彩夏は誠と一緒に行くのは嫌がるだろうなあと思った。
一方誠は会社を辞めて喫茶店を始めた。店の名前は「Moe」と名付け萌美の名を捩ることにした。萌美は最初照れ臭そうだったが彩夏に相談するとママの好きなようにすればいいというので店の名前は了承した。
萌美は暇だったので誠の喫茶店に顔を出した。
ビルの一画であるこの店は格子窓のついたお洒落な店舗だった。店内は少し暗く照明があちこちから射し込むように光のアートを作っている。流れる音楽はクラシックで誠の好きなチャイコフスキーのバイオリン協奏曲二長調35番が流れていた。正面にカウンターがあって止まり木に客が座り世間話をしている。その奥には磨かれたグラスが小奇麗に並べられ、その隣には常連客のマイカップがそれぞれ区画された枠に収まっている。そして振り向くと真ん中の柱に一枚の油彩が掛けられていた。萌美の「ワインと檸檬」の絵であった。いつも萌美に見つめられているような気がするのだと云って笑わせた。
「今度違う絵を持ってきてあげるよ。ああそうだ、あの絵があるからあれを掛けて」
それは二人の出会いとなった白川郷の合掌造りの絵であった。誠はそんな高価なものを貰う訳にはいかないと云って辞退をしたが萌美は
「私に悪いと思うのなら掛けなさい」
そう命令口調で云いながら大きな声で笑った。そのうち届けるからと帰って行った。そして振り向き様に
「彩夏は来たことあるの?」
「いや、来てくれれば嬉しいけどね」
誠はそう言って右手を軽く上げた。
木枯らしの吹く外は寒くタクシーに乗って早々と自宅に帰った。何故か古川町の起こし太鼓のDVDを友人から貰っていたので見ようと思った。それにしてもまたしても胸が痛くなって来るので一度病院に行こうかと考えていた。寒い時期あまり外出はしないようにと云われていたが家の中でじっとしているわけにもいかず萌美は長生きできないかももしれないと不意に思った。そしてもしものことがあればと考える気持ちになるのは自然の成り行きだった。
その夜遅く誠から萌美に電話があった。
店が終わってから電話をしているようだった。店内の音楽は消えていたので多分自宅のマンションからだろう。誠はマイカップを作って持参してくれたお礼を述べたがカップを何時造ったのか知らなかったと云った。マイカップのデザインは自分で創作し、焼き物の技術は知らないので大学時代の友人に頼んで最初から教えてもらったそうだ。生涯最初で最後かなと笑ってデザインを形に手解きを受けながら造ったそうだ。友人の焼き物教室は家庭的な部屋で数人の生徒が見え、中には学生もいれば主婦や老人もいるといった年代層は全く関係なかった。確かに芸術に年は関係ない。しかし、趣味と芸術はどう違うのだろうかと思ったが楽しいことには違いはなかった。楽しいことはいいことなのだがそれは芸術というのにはかなりかけ離れている。萌美の場合は趣味の延長が芸術のようになったが本来芸術と趣味の境界はどこだろうか、楽と悲の違いか、だとすれば境界線は何処だろうか。そんなものは必要なのだろうか。楽しければいいのではないかと萌美は思った。その延長に芸塾が存在すれば申し分はない。要は他者のの評価だけだ。
確かに今、焼き物を造るのは楽しくてあちこちから笑い声が聞こえて来る。こんな毎日ならいいなと思った。自分の場合は孤独でその中で一人戦わなくてはならないから物凄いエネルギーが必要になる。それは楽しみの世界を超越しもう戦いの場でしかなかった。不幸な環境の中でしか芸術は生まれないのではないだろうか、そんな悲劇の中の叫びみたいなものが自分の芸術ではないのかと思った。自分の命を削る代償が芸術というものであるならば何と酷い仕打ちなのだろう。問題を表現するには絵を描くことしか知らないしそれを探求し職業とするには余りにも辛かった。
誠との話が終わって家では母親が夕飯の支度をし始めていたのでみんなで大将の店でお寿司を食べに行こうということになり建物の道路を渡った。父親は小走りに道路を走って横切った。
「お父さんは若いね」
萌美はそう云って笑った。
「あれ?来たの?」
「いらっしゃいませ!」
彩夏の声に続いて店員が大きな声で迎えてくれた。店内は少し早かったのか客はまばらだった。大将と女将さんが挨拶に来た。父は元気な声で
「お店に食べに来たことがなかったものですから早く来たかったのですよ。美味しそうなネタがたくさんありますね。それにお店が何より綺麗だ」
寿司ネタは木札に書かれ真ん中の水槽を中心にその上段の壁にぶら下げられている。彩夏も生き生きとして働いている。彼女の働く姿を初めて父母たちは見て父が云った。
「彩夏、邪魔になったらあかんよ」
関西弁で喋って笑いをとっていた。それにしてもこの様な平和な時は何時まで続くのだろうか。萌美は誠から瑞菜と高橋は二人で中国に行ったが帰国後結婚したと聞いた。あの二人もまた運命的な繋がりを持っていたのかと思うと結局学生時代の四人はそれぞれの道を進むしかなかった。
暫くの時間が経った頃、萌美は体調が優れないので先に帰ってお風呂に入るからゆっくり食事をしてから帰ってと云い残して店を出た。街は師走ということでクリスマスや正月の準備でキラキラと輝いていた。総タイル張りの萌美のマンションもイルミネーションが屋根から流れるように輝きすっかりクリスマスの準備が出来ていた。行き交う車も何か落ち着きがなくクラクションの音が異様に大きく気ぜわしく感じる。遠くからジングルベルの音楽が聞こえてくる中、彼女の足元に何かのチラシが風に吹かれ巻き付いた。手でその紙を払って目の前の自分のマンションに帰った。
ソファーに座って「ワインと檸檬」の絵を眺めた。しかし、どうしてこの絵を掛けたのだろうか。いくら記憶を辿っても分からなかった。萌美は倒れてからワインは飲んでいなかったが別に止められていたわけではないので飲んでみようと思った。
軽めのワインをワインセラーから出して飲むと久し振りの香りは懐かしかった。萌美はワインをグラスに注いで香りを嗅いでみた。プーンと甘い酸味の臭いがする。グラスを左に回してティスティングしてみる。ワインは空気と混じり酸化するとまた違った香りがする。萌美はそれを楽しみながら一口口に含みウイスキーのように舌でワインを転がして飲み干した。鼻からスーとワインの香りが心地よく抜けるともう一杯グラスに注いだ。その時急に胸が重くなりグラスを床に落とし倒れた。薄れゆく意識の中で助けを求めようとしたが立ち上がることも出来ず、空気が抜けたような感じの中で意識を失った。
萌美が意識を回復したのはそれから数時間経ってのことだった。今自分がいるのは何処にいるのかあの時どうなったのか分からなかったが徐々に様子が分かってきた。集中治療室にいる萌美の傍には彩夏や両親がいた。そして誰が連絡したのか誠もそこにいた。
微かな意識の中で萌美は夢を見ていた。
そこは結婚式場だった。豪華なシャンデリアの下で立派な料理がテーブルに並び、煌びやかな燭台にはローソクの明かりが輝いていた。入り口の扉を見ると彩夏が誠とバージンロードを歩こうとしている。赤い絨毯は精霊の祝福、命を共に歩んでいくという深い意味があるそうだ。絨毯の下には悪魔が住んでいて新婦を守るために絨毯を敷いたと伝えられていることを萌美は知っていた。最初のFirst stepは新婦誕生の日になる意味らしい。彩夏は萌美がデザインしたウェディングドレスを着て、カサブランカのブーケの花を手に持ち誠と腕を組んでバージンロードをゆっくり歩いて来る。カサブランカは威厳、純潔、無垢、高貴などの花言葉がある。ロードは誕生から過去、現在そして未来の新郎にバトンを渡す意味で大きな意味を持つ。よく見ると待ち受けている新郎は翔太ではないか。その翔太に彩夏のバトンが譲られた。誠が彩夏を翔太に手渡したあと今度は逆に入り口の扉に向かって一目散に走り出した。そこには微笑む萌美がいる。彩夏と翔太は二人を手招きしバージンロードの途中で飛び跳ねながら手を振り待っている。萌美と彩夏の二人の花嫁は赤い絨毯のバージンロードの中央で互いに抱き合った。微かに音楽の音が大きくなったように聞こえる。今まで二十年の苦しさや悲しさが一気に吹き飛んだ瞬間だった。詩人は泣きながら詩は書かないというが互いに抱き合った中で演出のない演出に萌美は泣き、彩夏も萌美の胸に埋まり涙を流した。萌美は彩夏に譲った同じウェディングドレスを何故か着ている。バージンロードは誕生から未来の人生そのものを演出し、萌美は夢の中で結婚式を夢見ていた。たくさんの来客がいるかと思って周りを見渡すと誰もいない。存在しているのは彩夏と翔太、そして萌美と誠の四人だった。ただ燭台のローソクの明かりだけが会場の隅々まで輝いている。
萌美はバージンロードを誠と歩きそして型通り感謝の気持ちの手紙を読もうとした。会場のライトが消され燭台のローソクの明かりだけになった。中央にスポットライトが当たり萌美はその輪の中に一人ぽつんといた。パイプオルガンが鳴り響き司会者が何か云っているのだがよく聞き取れない。その状況の中で萌美は両親に手紙を読もうとしたが手紙を開けてみるとそこには何も書かれてない白紙の手紙があった。
萌美はかなり夢の中で動揺していた。
何か夢のなかで萌美を呼ぶ声が聞こえては来るのだが誰がどう呼んでいるのかは明確には理解できなかった。
萌美は白紙の手紙を読んだ。
「お父さん、お母さん今まで有難うございました。気が付けばもう私は四十二歳になっていました。小さい頃病気ばかりでお父さんやお母さんに心配をかけ、あのお大師様の護摩堂で祈祷して頂いたことを小さいながらも覚えています。般若心経を唱えあの護摩木を焚き炎が天井を突き破るような風景を私は一つの人生の節目として捉えていました。自分の人生の選択をどこで間違ったのか不器用な時代を生きてきたような気がしますが、みんなのお陰で画家として認められ美術館にも保管されるようになりました。これから私はどうなるか分かりませんが私が魂を削って描いた絵は何時までも残ると思います。命懸けで描いた絵は何時の時代になっても色褪せないしその心は失われない。これもみんな私に協力していただいた皆様のお陰です。もしも私が死んだとしても私の魂の絵は永遠です。本当に感謝しています」
式場の中は誰もいない。萌美が一人白紙の手紙を読んでいた。パイプオルガンとバイオリンの音ばかり聞こえてくる。多分あの曲はバッハの「G線上のマリア」萌美はそう思いながら夢を見続けていた。
「私は誠と一緒に住んだのは学生時代の一年でした。これからはずっと一緒かと思うと嬉しくてたまりませんが大きなことは欲張っていません。大きな幸福は要らない。小さな幸福、一握りの幸福でいいの。小さければ小さいほど喜びは大きいのよ。だから私はそれで充分なの。不器用な人間だと云われるかもしれないが私には一番よく似合っているような気がする。これから彩夏にはどんな未来が待っているのか私には分からない。でも難しい壁にぶつかった時には立ち向かっていける人生を歩いて欲しいし逃げないで欲しい。何といっても彩夏は私の子供、私の分まで幸せになって欲しい。困ったら私の絵に語ってくれればいい、相談に乗るわ。私たちは不幸な時代を二人で肩を寄せ合って生きてきました。この燭台で輝いているローソクの明かりように何時消えるか分からない。でも今までの行き違いや罠に陥れられたこともたくさんあったけど負けなかった。たった一年の生活が私の人生そのものだった。愛情にはリスクがつきもの。でも信じることの大切さを彩夏に伝えていきたい・・・・・・」
そこまで読むとウェンディングドレスを着た萌美はスローモーションの場面を見るようにゆっくり倒れローソクが一斉に消えた。
「ママ、ママ頑張って。私を一人にしないで」
萌美は誠と彩夏の手に少し力を入れて握ったような気がした。萌美の目から涙が頬に一筋流れ蛍光灯の明かりできらりと光った。父親は萌美の頬に流れた涙を見て外の景色に向かって肩を震わせた。病室は寒々とし何もないが家族の思いは熱い戦いだった。
薄れていく意識の中で、萌美は誠と彩夏の三人で朝の食事をしている姿を夢の中で見ていた。それは萌美にすればずっと心の支えであった夢だった。
カーテン越しに射し込む春の陽射しは食卓のテーブルを照らしている。テーブルの上にはコーヒーとパン、そして萌美の手作りのスープとサラダが並べられている。彩夏は誠の傍でコーヒーを飲みながら誠が読んでいる新聞を覗き見しながら何か喋っている。萌美がテーブルに着いた。背後には壁に「ワインと檸檬」の絵が掛かっている。そして三人での朝食が始まった。三人とも楽しそうに話声がしているのだがその声は萌美には何を話しているのか聞こえない。しかし、穏やかな表情を萌美はしていた。きっと今まで夢に見た生活を今現実のものに引き寄せているのに違いない。萌美は小さな声で
「彩夏・・・・・・」
と呼んだがそれは余りにも弱弱しく声にはならなかった。
母親はナース室に走り込んで行った。
萌美の容体は急変し医者は彼女の胸を何度か押したが胸が苦しいと言いながら息を引き取った。
「ママ、ママ・・・・・・」
「萌美、萌美・・・・・・死ぬな、死んだら駄目だ。これからなのだぞ」
母親はわっとベッドに泣き伏せた。
「お気の毒さまです」
静寂の中に非常な医者の言葉が響いた。看護師は酸素吸入器のマスクを取り、注射針を抜き点滴を外した。彩夏は目眩を感じその場に倒れそうになり大きくよろめいたのを父親が抱えた。
「彩夏、しっかりしろ」
年末の気忙しさの中で萌美の葬儀はしめやかに終わった。
取りあえず家族葬でその後「お別れの会」を改めてすることにし新しい年を迎えた。四十九日も終え毎日彩夏はぼんやりと目的を失ったような虚ろな日々を送っていた。もう自分には誰もいなく肉親は四国の祖父母だけだった。誠は肉親とは認めたくなく萌美がいなくなった今彩夏はどうすればいいのか分からなかった。祖父母は四国で一緒に暮らそうと云ってくれたがそんな気にもならず萌美が段取りしたアメリカに留学しようと思った。
そして萌美の葬儀も報道関係も下火になって落ち着き、普段の生活に戻ってきた頃家の近所の公園にぶらぶら目的もなく出かけるのが日課になっていた。そこで彩夏はいつも同じ時間にぼんやりとしている五十歳前後の男性がベンチに座って子供たちを見ていることが気になった。いつしか毎日顔を合わすだけで会釈をするようになり話を少しずつするようになった。
「このご近所なのですか?」
「ええ、ほんの少し行ったところです。家にいても誰もいないのでこうして子供たちの姿を見るのが楽しみなのですよ。私にも昔息子がいたのですが亡くなってしまいましてね」
「そうですか、それは大変でしたね。私も最近母を亡くしました。どうしていいか分からずぼんやりしていまして気が付けばいつもここに来ていたのです」
「あなたのお母さんはまだお若いでしょうに」
「四十二歳でした」
中年の男は高橋と名乗った。髭を伸ばし放題にし、髪を後ろで括り黄色い歯をしたその男はどう見ても七十歳前後にしか見えないほど肌に張りがなく弱々しく老けていた。
「実は私は犯罪者みたいなものです。自分の子供を殺しました。実際に手を掛けたわけではないのですが、嫁さんが子供は翔太というのですが父親は大学時代の友人だと子供に告白したのです。それはちょうど自分の家庭の中が壊れそうになった時だったそうです。子供は最初不審な顔をしていましたがどうしても納得がいかず私の処にやって来ました」
彩夏は翔太の父親がこの高橋なのだと気が付いて猛烈な吐き気を催した。夕闇の公園はいつしか子供たちが去りブランコが風で小さく揺れている。砂場には子供が忘れていった青いバケツや緑色のスコップが放置されていた。
それにしてもどうして今頃翔太の話が出てくるのだろうと思った。翔太は自殺したが、本当にこの男が殺したのではないのだろうかとさえ思った。
「あの、間違っていたらごめんなさい。翔太って青山翔太君ですか?」
「お嬢さんは翔太を知っているのですか?もしかしたら彩夏さんという女性ですか?」
「そうです、私が近藤彩夏です」
高橋はベンチからふらつきながら立ち上がりおもむろに膝から崩れ落ちるように土下座をした。その姿に父親としての風情は感じることは出来なかった。春はまだ遠く冷たい木枯らしが頬を殴りつけるように撫で、彩夏は黄色いジャンパーの襟を立てた。
「私たち結婚するようになっていたのよ。翔太の父親があなたとは知らなかった。親が違うと云うことはごく最近ママが亡くなる前に聞きました。私が四国に行っている時行方が分からなかったのはもしかしたらあなたの処にいたのですか?」
「そうです。家で翔太と彩夏さんは異母姉弟だと云うことで両親が喧嘩して翔太は飛び出したのです。瑞菜は私を殺そうとナイフで刺してきました。殺そうとされたことは二度目ですがこの傷がそうです」
高橋は腕をまくってその傷を見せた。傷口は赤く腫れ少し爛れていたが袖をしまいベンチに座って尚も話を続けた。
「私を殺すことが出来ないと分かった瑞菜は私と再婚後自分のナイフで翔太と同じように手首を切って自殺しました。もうそれは私が殺したようなものです。翔太の父親は私だから彩夏さんとは異母姉弟ではない、異父姉弟でもない普通の血筋の関係ない男女だとあの時話をしました。翔太は私の話を聞いてからまた飛び出しました。追い掛けてやっと捕まえて話をすると彩夏には悪いが別の女の処に行くと云う。他にも天秤に掛けた女性がいたようで正直似た者同士の親子かと苦笑しました。もうどうでもいいや。何もかも嫌になったと云っていました」
「どういうことなの?それって、瑞応寺で別れた時すでに翔太は私とは姉弟という関係ではないと云うことを知っていたの?家を出て行方不明になっていた時あなたの処に転がって、その後別の女性の処に転がっていたという訳なのね。何か馬鹿馬鹿しくなってきた。みんな作り話みたいで出来過ぎだわ、こんな話ってあるの。翔太も知った上でのことなら単なる遊びだった云うことか。ふざけるなよ、私たち家族を滅茶苦茶に壊したのはあなた達だろ。もう元には戻らない私たちの過去を返せ・・・・・・。でもその話を聞いてすっきりしたわ。何て酷い人たちなの。最低!」
そう叫んだ彩夏は急に立ち上がり近くの砂場に忘れた青い子供のバケツに砂を入れ高橋にバケツごと思い切り投げつけた。少し顔をそむけた高橋だったがバケツは確実に顔面に当たり高橋の額が切れ頬に血が流れた。彩夏は泣くと云うより無性に悔しかった。
「お嬢さん、気のすむまでやってください。全て私が悪いのです」
彩夏はその高橋の言葉に吐き気がして公園の隅の草むらで激しく嘔吐した。高橋が近寄り大丈夫かと声を掛けたが彩夏は「いい加減にして!」と叫び傍に合った竹の棒を手にして高橋の頭や肩を叩いた。思い切り今までの歴史を叩き潰すよう力任せに叩いた。高橋は頭を抱えてじっと我慢をしていたが「勘弁してくれ」と鳴き声になった。彩夏はそれでも声を無視し竹の先がばらばらになっても止めず、高橋の真っ赤な血が竹に付着した。顔面が赤く腫れた高橋は突然大きな叫び声を出してその場から逃げ出した。
裂けた竹で彩夏の手も血で染まり地面に投げつけるように竹の棒を捨てた。洋服に散った鮮血は何か萌美との二十年間に及ぶ生活を膿の血で塗りつくし正当化するような気がして、悪い悪霊の膿を噴き出す様な気がした。公園のベンチに凭れ今までの思い出を壊すような裏切りの行為に、冬の木枯らしは容赦なく彩夏の顔を叩いた。
一カ月後。
彩夏は祖父母に留学を告げアメリカに旅立っていった。心の傷がまだ癒えていないまま過去を捨て去るように日本を後にした。まだコートが必要な三月初旬の季節だった。
―ルポライターの視点 NO.5―
萌美が亡くなった。
彩夏を残し、芸術作品を残してこの世を去った。翔太が死を選択しケジメをつけたと思えば今度は萌美が県美術館の作品を最後に心筋梗塞による心不全で亡くなった。僕はこのことを知ったのは彩夏からの電話だった。彩夏は気丈にも各方面に亡くなったことを連絡した。FAXで関係事務所に流せばいいと僕は提案をしたが彩夏はそうすることで一つ一つ自分なりにケジメをつけたいのだと納得するように呟いた。
一緒になるべきものが何者かの侵略で目的を達することが出来ず裏切りや残酷な破壊、絶望などは誰が計算したのか分からないが居心地がいい奴がいるのだろう。僕はその居場所を覗いてみた。そこはただいい友人がいるとか悪友なのか、あるいは打算的な連中なのかよく理解は出来ないが少なくとも云えることは萌美と誠は純粋な仲であったということだ。考えれば芸術は純粋でなければ描けるはずはない。誠にしてもつまらない小説だというが結果的に打算で書いているわけではなかった。芸術の真価は果たして何なのだろう。あの「白川郷」を描いた壮大な絵画、二十歳に書いた「ワインと檸檬」、美術館に書いた「萌えるMINO」の作品の三点は僕を驚愕の世界に落としこんだ。それだけに素晴らしい作品できっとそこには萌美の魂が宿っているのだろう。
翔太は高橋の子で誠の子供ではなかった。その事実を打ち明けられて彩夏は真実が分からなかった。その翔太も実際は誠の子ではないということを瑞応寺で会った時に知っていた。その意味では翔太は単なる結婚という言葉遊びで彩夏を自由にしていたということになる。高橋が公園でそのことを自白した事実は彩夏には裏切りの言葉に思えた。僕は彩夏の気持ちを察すると慰めを掛ける言葉がなかった。
僕はその高橋と会う機会が偶然あった。彩夏が会った公園で同じように会ったが彼女が感じたようにまだ五十歳にもならないのに風貌は七十歳に近い感じに見えた。何故彩夏に叩かれたことに対して怒らなかったのか僕は聞いてみた。
「学生時代から俺も萌美が好きだったのだよ。瑞菜は遊び相手であったが結婚はする気はなかった。萌美と一緒になれるなら俺は何もかも捨ててもいいとさえ思ったが、彼女は誠から離れる気持ちなどは更々ないし将来の計画もきちんと立てていた。俺はその萌美に一度猛烈に迫ったことがあるがそれは卒業近い年末の事だった。萌美と二人で話をしていた時だ。彼女は長良川の河川敷で絵を描いていたが俺は彼女を木立の中に誘い込み無理やり彼女を求めた」
「その時萌美はどのような態度をとった?」
「彼女は思い切り俺の頬を叩いてきた。その上キャンバスの三脚で俺を何度も頭を叩いてきた。気性の激しい女だった。俺はこれには参ったが、それからは反逆というか誠に対する嫉妬が余計萌美に対して起ったことは自然の成り行きだったのだよ」
高橋はそういうと瑞菜との関係や翔太との経緯などを語りだした。僕はこの男の世界も可哀想というよりか自分自身の世界に溺れてしまったある意味世間に見捨てられた自己愛の強い弱い人間だったのだ。僕は萌美の絵はそういう環境や歴史の中で、生まれてきたが(それを不幸というのであればそうなのだろうが)気が付いたことがあった。三枚の絵画には共通点があった。それは太陽だった。あの白川郷の作品にも美術館の作品にも太陽が生き生きと描かれている。ただワインと檸檬にはそう云った太陽はないがその象徴は檸檬だった。レモンの黄色い色は太陽であり光だ。僕は確実に萌美の心理を掴んだ。
次回は最終回です。展開の早い中で人間の」生き様を描いた作品は同級生のルポライターの言葉で締めくくっていくが納得がいかない「何故?」ということは解決をどのようにしていくのだろうか。最終回は22日(土)に発表いたします。