交錯する感情の、その先。
(レオンハート視点)
あんな風に感情を剥き出しにしたエミリナの表情を、僕は初めて見た。彼女は自分を捨てた元婚約者を追いかける為、靴すら捨てて走り去っていった。
「これは一体……。何があったのでしょうか」
侍女が一人、入れ替わりに部屋へとやって来る。辺りに散った破片と取り残された僕を見て、目を剥いた。
「すみません、僕の不注意で大切は茶器を割ってしまいました」
謝罪を口にすると、とんでもないとでも言いたげに彼女は首を左右に振った。
「ご令息様、お怪我はありませんでしたか?」
そう問われて、ふと考える。
「……そうですね。この辺りが、ほんの少しだけ痛みます」
静かに心臓に手を当てると、思いの外鼓動が速い。なぜ、怪我もしていないこの胸の奥が痛むのか、その理由を深く追求することには、何の意味もないような気がした。
オーウェンは、私が予想した通りの場所にいた。第三庭園の、白樺で作られたガーデンチェア。私よりずっと体の大きな彼が座っても、一人では広過ぎる。
「やはり、こちらにいらっしゃいました」
はぁはぁと跳ねる呼吸を整える余裕すらなく、私は彼の前に立つ。なぜだかぼうっとこちらを見上げ、小さな声で「僕ここに来たんだ」と他人事のように呟いた。
「お隣、よろしいですか?」
「い、いや。君は今すぐにあの令息のところに戻った方が……」
気不味げに俯いたオーウェンは、最後まで言葉を紡ぐことなく息を呑んだ。
「エミリナ、足が血だらけじゃないか!どうしてこんな……、靴も履いていないなんて!」
「走るのに邪魔で、捨て置いてしまいました。おそらく、破片でも踏んだのではと」
淡々と言いながら、許可もなく隣に腰掛けた。彼の頭は酷く混乱しているようで、指が忙しなくそわそわと動いている。
「淑女たるもの、人前で足を晒すなどあってはならないこと。どうかはしたないなどと思わず、私に慈悲をお与えください」
「そんなことどうでも良いよ!とにかく、早く手当を……っ」
立ちあがろうとした彼の腕を、強引に引く。そのせいでスウィングチェアが大きく揺れ、それに乗じるようにして私はオーウェンの肩にとん、ともたれかかった。
「エ、エミリナ!」
「……温かい」
身体の芯からぽかぽかと、まるで陽だまりに寝転がっているような気分で、思わず微睡んでしまいそうだと思う。
「本当はずっと、こうしたかった」
「……いけないよ。だって僕達は」
「婚約なんて、そんな形式だけのものどうだっていいわ」
胸に頬を寄せると、彼の鼓動がより強く音を鳴らすのが伝わってくる。それは私にまで伝染し、指の先まで赤くなっているのではと錯覚する。
「結局どうあっても、私は貴方を嫌いにはなれない」
「エミリナ……」
「もう、参りましたわ。どうぞお好きなだけ、私を弄んでくださいませ」
幸せな記憶も、辛い記憶も、どちらも私の足を引っ張るというのならば、今すぐに全てを捨てても構わない。
「次にこっぴどく捨てられたなら、その時は何の未練も残さずにこの世を――」
「だめ!そんなことは僕が絶対に許さない!」
ぎゅうっと痛いほどに抱き締められ、思わず体が反応する。それでもオーウェンは、私を離そうとはしなかった。
「冗談でも、二度と言わないで」
「何をおっしゃるのですか。ご自分だって、同じことをしようとしたくせに」
「あ……」
指摘されるまで、すっかり記憶から抜け落ちていたらしい。バツが悪そうに、小さく鼻を啜った。
「ごめんね、エミリナ」
「謝罪はもう結構です」
許したいのに、許せない。けれど許しを乞われないことにも、我慢が出来ない。矛盾だらけの自分本意な感情が、私の決して広くはない心の中で耐えずせめぎ合っている。
「今すぐおっしゃって、貴方の口から。どうか、もう一度自分を受け入れてほしいと」
そっと体を離し、オーウェンの瞳をじっと見上げる。それはまるで澄んだ湧き水のように、みるみるうちに彼の瞳に溜まっていく。支えきれなくなった目元からぽろぽろと溢れ落ちた涙は、無遠慮に私の頬を濡らした。
「……言えない、そんな都合の良いこと。絶対に言っちゃいけないんだ」
「なぜですか?私はこれまでのことは全て水に流すと」
「君以外の女性とキスしちゃった」
涙の粒は一層膨らみ、とても私だけでは受け止めきれない。私は泣いていないのに、彼が泣くせいで既にくしゃくしゃに汚れてしまった。
「一度だけ、あのココット嬢と……。たとえどんなに謝罪を繰り返しても、こんなこと許されない。穢れた僕は、真っ白な君に触れる資格なんてないんだ」
えぐえぐと嗚咽を漏らしながら、その長躯は今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに力をなくしている。支えようと腕を伸ばしても、オーウェンは拒絶するように体を捩る。
ああ、これが原因だったのかと妙に納得する自分がいる。弁明しないことも、三日間だけと言ったことも、私を手放そうとしていることも。全ては、ここに起因している。やっと謎が解けたと、どこかすっきりとした気分だった。




