一度壊れたら、元には戻せない。
「横になられてください。また熱が上がってしまいます」
「あ、あの。僕……」
「貴方にとっての空白の六年間、私との関係については?」
その質問に、オーウェンは小さく頷いた。まるで小さな子どもが叱られているかのように、長躯を丸めている。
「君に随分、酷いことをしたと」
「婚約については?」
「解消したって、聞いたよ」
弱々しい声は、熱のせいなのだろうか。寝ろと促しても、頑なにそうしない。細長く骨張った指先は、忙しなく目元を拭っている。まずは汗を拭けば良いのにと思いながら、私はサイドテーブルに置かれているタオルに手を伸ばした。
「どうぞこちらをお使いください」
「う、うん。ありがとう」
わざと触れ合わせた手を絡め取り、力強くこちらへ引き込む。熱い吐息を吸い込んでしまいそうなほどの距離で、潤んだ碧色の瞳を深く見つめた。
「なぜ、記憶喪失などという嘘を?」
タオルがするりと手から滑り落ちたけれど、そんなことは気にもならない。
「この私を誤魔化せると思わないでください」
本当は、とても不快だった。オーウェンは嘘を吐くのが苦手で、左目の涙袋にある黒子に触れる癖がある。そして、問い詰めれば良心の呵責に耐えきれなくなり、すぐに白状してしまうのだ。
「馬鹿にして楽しいですか?こんな茶番に騙されて、この六年をなかったことにするとでも?」
「ち、違うんだ。僕はただ」
「ココット様がいなくなり、ご自分の立場が悪くなった途端に、私を再び利用しようとするなんて。先日、こんなことは止めてくださいと願い出ましたのに」
なぜ私は、この方の前でだけこんなにも感情を揺さぶられるのだろう。いや、少し違う。十歳の時に変わってからこれまでずっと、私は平静を保つことが出来ていた。期待せずに諦めていれば、それは至極簡単なこと。
「全生徒の前で私を捨てるよりも、これはもっと酷いわ」
「エミリナ……」
「私がどれだけ昔の貴方に焦がれたか分かっていて、こんな……っ」
無意識の内に、ぐっと眉間に皺が寄る。そんな私を間近にしたオーウェンは、より辛そうに眉を下げた。
「最初に記憶喪失だと勘違いしたのは、兄だった。どうやら、うなされている間ずっと君の名前を呼んでいたみたいで」
それは、グレイ殿下も言っていた。私を説得したいが為の方便だと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
「だけど僕は、それをあえて否定しなかった。エミリナに会えば記憶が戻るかもしれないと言われて、また顔を見られると期待した」
「そうしてまた、婚約解消をなかったことにしてくれと言うおつもりだったのですか?」
責めるように睨みつけた私を、オーウェンはただ哀しげに見つめるだけ。今にも溢れ落ちそうなその涙を、拭う気にはなれない。
「いや、もう言わない。君を傷付けるだけだから」
「では、国王陛下に弁明をしろと?」
それ見たことかと言いたい気持ちを、歯を食いしばって堪えた。綺麗事を並べても結局、彼は私と結婚するつもりなどない。
「ただ、最期に顔を見て謝りたくて」
いつの間にか主導権を握っていたのはオーウェンで、私は彼の指から逃げ惑う。
「あのパーティーの夜、一緒にいた辺境伯の令息と婚約することになったって、聞いたよ」
彼からその話題を切り出され、どくんと心臓が跳ねる。後ろめたいことなど何もないというのに、なぜだか罪悪感に胸が潰される。
「この六年間、僕は君を傷付け続けた。どれだけ謝っても許されることではないけれど、どうしても伝えたかった」
「……なぜ、今さらそんな」
「僕が、ようやく僕自身を取り戻せたから」
微かに笑うその顔が、やけに白んで見える。確かに目の前に存在しているのに、今にも砂城のようにぽろぽろと崩れて消えてしまいそうだと思う。
「まさか貴方、死ぬ気なの……?」
どうしてだか、そうとしか考えられない。オーウェンは力なく首を振り、否定にならない否定をしてみせた。




