私の心を乱すのは、憎いはずの貴方だけ。
♢♢♢
レオンハートとの婚約話は、予想以上にとんとん拍子に進んでいった。当然両親は喜び、兄もまた然り。事務的な感情はとても楽で、私が彼に心を乱されることも、その逆もない。
まだ知り合って間もないけれど、レオンハートは人として尊敬出来る人物だ。きっと私達は、何の問題も起こさない夫婦になれるだろうと。
不思議なことに、彼から言われた言葉は私にとっては何の障害にもならない。それどころか、安堵した自分に罪悪感さえ覚えたほどだった。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「我が弟オーウェンが、記憶喪失になってしまったんだ。ただでさえ騒がしい王宮内が、さらに酷い混乱に陥っている」
「記憶喪失……」
それは、兄の帰国祝賀パーティーよりも後のことらしい。再び体調を崩し高熱を出したオーウェンは、次に目が覚めた時には六年間の記憶の一切を失っていた。
当然、自分が私を捨てココット・キルティエラを選んだということも忘れて、熱にうなされ苦しみながらも、私の名を呼んでいるらしい。
「大変虫の良い話であることは重々承知している。けれど、一度で良い。弟に会ってやってはくれないか」
「グレイ殿下……」
国の第一王子が、わざわざスウォルトの屋敷にまでやって来て、あろうことか私に頭を下げている。人払いをしていて本当に良かったと、内心ほっと胸を撫で下ろした。
兄もレオンハートも私とグレイ殿下が二人きりになることを反対していたけれど、こんな話は到底聞かせられない。
「どうか顔を上げてください。私は、殿下の望みを無下には出来ません」
「では、オーウェンに会ってくれるか」
「そうしろとおっしゃるのなら」
本当は、もう二度と顔を見たくなかった。けれど、兄はいずれこの方に仕える身となる。ここで恩を売っておくことが、スウォルト家の繁栄に繋がるはずだと、無理矢理自分を納得させた。
「早速、馬車に乗ろう」
「今すぐにですか?」
「心配は要らない。君に必要なものは、全てこちらで準備する」
いくらなんでも、強引過ぎる。殿下と同じ馬車に乗らなければならないと考えるだけで、胃の辺りがきりきりと痛んだ。
「はい、分かりました」
「ありがとう、エミリナ」
彼はオーウェンのことが、心から心配なのだろう。だったら私ではなくココットにでも会わせてやればいいのにと、心中で悪態を吐いた。
「エミリナ、本当に行くのかい?」
「私に選択肢はありません」
「泣きたくなったら、僕を思い出して」
グレイの後に続き馬車に乗り込もうとした私に、レオンハートが耳元で囁く。
「ありがとうございます。心が軽くなりました」
私の微笑みは、彼の神秘的な双眼の中で微かに揺れていた。
強引に王宮に連れて来られた私は、すれ違う使用人や宮廷貴族達にこぞって好奇の目を向けられる。慣れていると言いたくもないけれど、何も心に響かない。私はずっと昔から、そうして自分を守ってきたのだから。
「辛い思いばかりさせて、本当にすまない」
「いえ。殿下に謝罪していただくことでは」
「いつも冷静な君には、感謝しているよ」
グレイ殿下は、昔から私にも優しい。けれど打算的な面もあり、簡単に信用してはいけないとも。いずれはこの国を統べる王として、善良なだけでは足元を救われる。だからこの方は、これで良いのだ。
「入るぞ、オーウェン」
部屋の扉をノックしたのは、私ではない。グレイ自ら、私の為に開けてくれた。けれど入るつもりはないのか、私が中に入ったことを確認してそのまま出ていく。
「兄さん?僕、今は食欲が……」
荒い息遣いと共に、そんな台詞が聞こえてくる。どうやら食事の時間と勘違いしているようで、天蓋付きのベッドの上で、ゆっくりと体を起こすのが見えた。
「まだお辛そうですね、オーウェン殿下」
ふかふかとしたえんじ色の絨毯を、静かに踏み締める。声で気が付いた彼は、こちらに視線を移すなり目を見開いた。
「エ、エミリナ……?」
「グレイ殿下に頼まれました。貴方様が記憶喪失になったので、会ってほしいと。いかがですか?何か思い出したりは」
「い、いや……」
額に玉のような汗を浮かべながら、気まずそうにすいっと顔を伏せる。私は一切表情を変えないまま、ベッド脇のカクトワールに浅く腰掛けた。




