結局、誰かの唯一にはなれない。
学園にいた頃は常に好奇の目に晒され、それでも決して舐められたくないと、気丈に振る舞っていた。
オーウェンとココットが仲睦まじく笑い合う姿を見るたびに、心臓を思いきり引きちぎられているような痛みに襲われた。けれどそれにもだんだんと慣れた頃、婚約解消を宣言された。そして今は――。
「エミリナ。少し昔話をしても良いかな」
柔らかな声色を聞き、私は静かに頷く。レオンハートはおもむろに、胸ポケットから金の懐中時計を取り出した。それは随分と年季の入った代物に見えるが、同時に彼にとってとても大切なものなのだと、雰囲気から察する。
「僕には、婚約者がいたんだ。けれど彼女は、僕のせいで死んでしまった。僕が誰彼構わず良い顔をしていたせいで、他の令嬢を勘違いさせてしまったみたいなんだ。それを逆恨みされて、馬車の車輪に細工をされた。婚約者と二人で事故に遭い、死んだのは彼女だけ」
「……そうですか」
冷たい言い方だと分かっているけれど、他に言葉が見つからない。上辺だけの慰めならば、嫌と言うほど受けてきただろう。私が今さら悼んだところで、彼の心を軽くすることは出来ない。
「この懐中時計は、彼女から貰ったんだ。あの事故の時に壊れて、止まったまま。戒めとして、肌身離さず持ち歩いてる」
手中のそれを見つめるレオンハートの瞳は、酷く哀しげに揺れていた。
「これからも、僕の一番は彼女だ。それでも、君は僕の妻になってくれるかい?」
「ええ、もちろんです」
兄の言っていた『問題』とは、これだったのか。予想より遥かに大したことではなかったと、ぼんやり考える。もちろんそれは私にとっては、という意味でしかないが。
即答した私に、彼は目を見開く。
「レオンハート様は、お優しい方ですね」
「優しい?婚約を申し込もうとしている女性に、君を一番には愛せないと告げているのに?」
「普通は、上手く隠すと思います」
「それは、自分が責務を負わないためさ。負目を感じたくないから」
その考え方こそが、善人の証拠。オーウェンは六年もの間、私と婚約を続けながら他の女性とも逢瀬を繰り返していた。両親に逆らう勇気がなかったのだろうが、本当にズルい男だと思う。そして、それを悪びれている様子すら見せなかった。
「ねぇ、エミリナ。君は、大切にされないことに慣れ過ぎているように見える」
「だからこそ、レオンハート様は私を婚約者に選んだのでは?」
嫌味のつもりはない。傷付いてもいない。ただ「それを貴方が言うのか」という感情が湧いたのは確かだ。
「ははっ、確かに。ぐうの音も出ないな」
「本来、貴族同士の結婚とはそういうものです」
「正直、迷ったんだ。あんな思いをした貴女に、今度は別の意味で過酷を強いることになるのでは、と」
彼も彼なりに悩んだ末の答えなのだろう。いずれ辺境伯を継ぐ者として、結婚という選択肢からは逃れられない。もしもしがらみがなければ、どこかの片田舎で婚約者を思いながら静かに暮らしていたかもしれないのに。
この先生涯を共にするのだから、少しでも自分に都合の良い相手を見定めることは、私は悪だと思わない。
「兄の健勝な姿を見て、我がスウォルト家は安泰だと確信しました。ですからもう、この国に未練はありません」
「オーウェン殿下の姿を見ているのが、辛い?」
その質問に、私は答える義務を持たない。ただひとつ、これだけははっきりと言える。
「最初から、親の決めた結婚相手としてだけ殿下と接するべきでした。私は、彼との距離を測り間違えました」
「……それは、とても哀しい言葉だ」
私は、オーウェンと積み重ねて来た日々を全否定する。そうでなければ、あまりにも辛いから。
「公衆の面前で捨てられた哀れな女だと、私は生涯謗られ続けなければなりません」
「エミリナ……」
静かに目を伏せる私の手の上に、レオンハートが自身のそれをそっと重ねる。ひやりとした冷たい感覚に驚くと同時に、心の中心で燃えたぎっていた炎が、ゆらゆらとくゆる。
「僕達は今後、誰かを好きになることはない」
「それが一番、正しい選択です」
「互いの穏やかな人生の為に」
彼の手にきゅっと力が込められたことで、内心その場から駆け出してしまいたい衝動に駆られる。私は自分が思っていたよりもずっと、非合理的で未練がましい女なのだと、ふいに泣きたくなった。




