もう、顔も見たくない。
「初めまして。と言っても、僕は貴女を存じていますが。セルゲイ辺境伯の嫡男、レオンハート・セルゲイと申します。以後、お見知り置きを」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。ガドル帝国では、兄が大変お世話になったそうで」
レオンハートは、私の想像を遥かに超える美青年だった。瞳と同じ色の髪は耳辺りですっきりと切り揃えられており、微かな風にもさらりと揺れる。
さほど背丈が高いようには見えないが、引き締まった肢体が彼の中世的な雰囲気によく似合っている。男性とは思えないほどの色香に乗って、ふわりと甘い香りが漂っていた。
「そうだね、否定はしないかな」
少し悪戯っぽく言うものだから、つい表情が緩んでしまった。レオンハートは蠱惑的な瞳でじっとこちらを見つめ、形の良い唇で私の名を紡いだ。
「エミリナと呼んでも?」
「ええ、もちろんです」
「僕のことも、どうぞ名前で」
このたった数分で、彼がどれだけの女性を虜にしてきたのかが、手に取るように分かる。兄が言っていた「問題」というのは、恐らく女性関係について。私を正妻として迎える代わりに愛人を認めろだとか、交友関係には一切の口を出すなだとか、そんなところだろう。
「僕が君を初めて見たのは去年だったけれど、ますます美しさに磨きがかかっているね」
「光栄です、レオンハート様」
「変に恐縮しないところも、素敵だ」
そんな風に褒められると、少し居心地が悪い。慎ましやかに一歩引いた女性が良しとされがちなこの国で、私の評価はずっと低かった。
ありのままを認めてくれたのは、オーウェンただ一人だけ。
「もしよろしければ、僕と踊っていただけませんか?」
数秒の沈黙の後、レオンハートの明るい声が私の耳に響く。気を遣わせてしまったのかもしれないと、申し訳なさが胸に広がった。
「レオンハート様さえよろしいのでしたら」
「もちろん。僕は今日、貴女以外の女性は目に入りませんので」
「ふふっ、お上手ですこと」
「いやだな、真実ですよ」
彼が笑うと、薄紫の瞳が揺れる。シミひとつない肌がぴかぴかと輝いて、普通の女性なら触れたいと思うのだろうと、そんなことを考えた。
「どうぞ、お手を」
「はい」
手袋を嵌めた指を、そっとレオンハートに伸ばす。彼と触れ合う直前、それまで穏やかだったテラスの雰囲気が喧騒に包まれた。
「エミリナ!」
酷く懐かしい声が響き、輝く金色の髪が私の視界を独り占めにする。以前突然屋敷にやって来た時と同じように、彼は今日も息を切らしていた。
「……オーウェン殿下。なぜこちらに」
そう口にする前、彼の姿を見た瞬間「本当に回復したのね」と安堵した自分に嫌気がさす。自然と眉が吊り上がり、先ほどまで緩んでいた頬がぎゅっと締まった。
「困りますわ、オーウェン殿下。本日はいらっしゃらないものとばかり」
「招待状も出さず、とんだご無礼をお許しください。ですが私達は娘の為を想い」
いくらなんでも、第二王子を叩き出すわけにはいかない。慌てて駆けつけた両親は、オーウェンの機嫌を窺うように下手に出ている。それを遮ったのは兄で、彼はずいっと前に出ると、毅然とした態度でオーウェンに対峙した。
「オーウェン殿下。本日は私の帰国をわざわざ祝ってくださり、誠に感謝いたします」
「え……っ、あ、ああ」
完全に忘れていたと、表情が如実に物語っている。オーウェンは申し訳程度に祝辞を述べると、すぐさま私に近付いてきた。
「おっと、失礼。申し訳ありませんが、彼女には私が先にダンスを申し込んでおりますので」
レオンハートはそう言って、ぱっと私の手を取る。思わずびくりと震えてしまったが、それよりもオーウェンの反応が大げさで、そちらに意識を持っていかれる。
まるで婚約者に浮気でもされたかのように、傷付いた顔をして。今にも泣き出しそうに、澄んだ碧眼が揺らめいている。
私よりずっと高い背を情けなく丸めて、祈るようにこちらを見つめていた。
「……泣きたいのは、私の方よ」
ぽつりと呟いた言葉は、自分が思っていた以上に響いていたらしい。スキャンダルの再燃かと、周囲が嬉々としているのが分かる。
けれどもう、我慢がならなかった。最大の屈辱を味わったあの日のことを、オーウェンは忘れさせてくれない。今までの行いを全てなかったかのようにして、好きだの愛しているだのと、自分勝手なことばかり。
「以前にもお伝えした通り、私達の婚約は円満に解消されました。兄の帰国を祝ってくださるお気持ちは大変ありがたいですが、誤解されるような行動はお控えになられた方が、殿下の為かと」
「……ごめん、こんな真似。迷惑だって分かってるけど」
「貴方はよほど、大勢の前で私を辱めるのがお好きなのですね」
盛大な嫌味と共に、私はくるりと背を向ける。なぜこんなにも罪悪感を感じなければならないのか、このくらいの報復は許されるはずなのに。
無意識のうちにレオンハートの手を振り解いていた私は、頭を垂れることもせず逃げるようにその場を去る。
「僕も失礼いたします、殿下」
すぐにレオンハートのそんな声が聞こえたけれど、気を遣う余裕もなかった。




