史上最悪の夜。
「エミリナ・スウォルト!今ここに、貴女との婚約解消を宣言する‼︎」
元より滑舌の良い滑らかな声がよりよく通って聞こえるのは、ここが学園の中心にある大ホールだから。
螺旋階段の最上段。誰よりも目立つ場所に仁王立ちになり、傍には白兎のように小さく可憐な令嬢を置いている。
「ありえませんわ、オーウェン殿下。私は一切、事前の報告を受けておりません。そのように大事なことを今おっしゃっても、到底受け入れることは出来ません」
ああ、なんて頭が悪いのかしら。今日は、この王立学園で一年に一度開かれる創立記念のダンスパーティー。そんな晴れの日に、いやそうでなくともだ。公衆の面前で婚約解消など、見たことも聞いたこともない。
きっと、この世界のどこを探してもそんな愚か者はいないだろう。この男が人類初だ、そうに違いない。
先ほど名を呼ばれたのは、紛れもなくこの私。スウォルト公爵家長女、エミリナ。そしてたった今高らかに婚約解消宣言を行ったのは、我が国の第二王子であるオーウェン=レイヴン・トレントハークその人。
すらりとした手脚に引き締まった肢体、顔立ちも一級品であり、彼の肖像画を模した葉書がひっそりと学園の女生徒達の間で流行しているほど。
絹糸のように滑らかな輝く金髪に、よく映える碧眼。左目の涙袋の辺りにある黒子が、甘いマスクを一層引き立てている。健康的な肌は艶々と輝き、爪の形までもが完璧だった。常に爽やかな柑橘系の香りを纏わせ、誰に対しても分け隔てのない穏やかな性格。
その実虫嫌いの泣き虫で、教育係に叱られてはいつも泣いていた。赤く腫れた彼の瞼を冷たいタオルで冷やすのは私の役目で、三日会いにいかなければすぐに王宮の従者がスウォルトの屋敷にやって来た。
確かに私達は政略結婚だけれど、オーウェン殿のことは人として尊敬していた。彼は暇さえあればにこにこと私の顔を見つめ、綺麗だ可愛いと褒めた。そのくせ、ほんの少しの触れ合いで顔を赤らめ、もじもじと照れたように黙る。
そんなきらいゆえに、国の第二王子として彼を頼りないと吹聴する者も多く、その分私がしっかりしなければと、より一層勉学に励んだ。私には社交性がなく、容姿も派手でキツい。対人関係は彼に任せ、私はそれ以外のことを担えばいいと、そう思っていた。
感情を言葉にすることが苦手な私を、彼はいつも気遣ってくれた。
――エミリナは僕にとって、世界で一番可愛い女の子だよ。
真っ赤な顔で頭を撫でてくれたあの温もりを、私は今でも鮮明に覚えている。
「お前が受け入れなくとも、これは既に決定事項だ!王子の婚約者という立場にみっともなく縋りついていないで、さっさと身を引け!」
昔の幻影をいつまでも手放せないのは、私だけ。周囲の喧騒を物ともせず、こちらを睨め付けている。優しい眼差しも、蜂蜜のように甘い笑みも、可愛らしく照れた顔も、すべては遠い日の記憶。
その証拠に、私のドレスは濃い赤。彼の隣にいるただの後輩に過ぎないは、淡いブルーに宝石が散りばめられたもの。いくら記念パーティーとはいえ、いち学生が着るドレスにしては高価過ぎる。
オーウェンが自主的にそうしたのか、彼女がねだったのかは分からないけれど、明らかに私との違いを見せつける為に用意された、オーウェンの瞳と同じ色のそれ。
裾がひらりと揺らめくたびに惨めで堪らない気持ちにさせられるのだから、二人の作戦は大成功と言えるだろう。
「オーウェン様。わたくし怖いです。またどんな嫌がらせをされてしまうかと思うと……」
「ああ、ココット。心配せずとも、君のことは僕が守る。こんなにも華奢な体に傷を付けたこの女を、絶対に許したりしないから」
「嬉しいですわ……」
細い腰を抱いて、ぴたりと体を寄せ合っている。第二王子という立場にありながら、婚約者でもない令嬢と公衆の面前でべたべたと、実に不快極まりない行為だった。