閻魔の間
一瞬だった。
気がつくと、目の前に巨大な門があった。
青銅か鉄か、何かそういう重くて固そうな材質のその門はきっと上にも横にも数十メートルはあった。
師匠はその門に声をかけた。
「こんちは。天使ですけど。あのぅ、新入りを連れて来たんですけど、閻魔大王様、いらっしゃいますか?」
すると、巨大は門は二人が通れる程度にすうっと少しだけ開いた。
二人が中に入ると、そこにこれまた巨大な机があり、そしてさらに巨大な閻魔大王がいた。
男は閻魔大王の見上げた。
閻魔大王の姿は想像以上に怖かった。
髪は怒髪天を突き、ぎょろりとした大きな目に、顔からはみ出さんばかりの太い眉、毛むくじゃらの髭を蓄えていた。
その表情はへの字口で厳しく引き締まり、まさに大王にふさわしい風格だった。
「人間よ」
閻魔大王が言った。
身がすくむ恐ろしい声だった。
「貴様は死んだ。よってここで裁きを言い渡す。何か言う事はあるか?」
閻魔大王に睨まれて男は尻もちをついた。
いまにも食われそうな迫力に漏らしてしまいそうだった。
「しし、師匠!こんな怖いなんて、聞いてないよー!」
「バカお前、言ってないんだから当たり前だろ!しっかりしろ!」
「でも師匠…」
「いいからお前はそこでじっとしてろ。俺が弁護してやるから」
そういうと師匠は閻魔大王に語りかけた。
「あのう、閻魔大王様。私、天使でございますです。この男の天使として、私が弁護しようかと思うのですがよろしいでしょうか?」
師匠は出来るだけ深く腰を折り、揉み手をしてありったけの笑顔で言った。
「許す。申してみよ」
「ははあ。ありがとうごぜえます。こいつはですね、人間時代コメディアンでした」
「うむ。知っておる」
「コメディアンと申しますのは、人を笑顔にする事を生業としております」
「うむ。そうだな。わしの手元の調書にもそう書いてある」
「こいつはさして大した人間でもなかったんですが、そりゃあもう一所懸命に笑いを届けて来ました」
師匠はへたりこむ男の頭をぽんぽんと叩いた。
「どうかその生き様に免じて、なにとぞ地獄行きだけはご勘弁いただけないでしょうか。どうかこの通りです」
そういうと師匠は正座し、閻魔大王に土下座をした。
「し、師匠!」
自分のために師匠が土下座をしている。
その姿を見て男は狼狽した。
「バカ!お前もちゃんと正座して謝れ!はやく!」
師匠に言われて男は師匠同様に土下座した。
「言いたい事はそれだけか?」
と閻魔大王は言った。
「ははっ。私からは以上でごぜえます」
「では人間。お前は何か言う事はあるか?」
師匠は男をつっついた。
「ほら!お前もなんか言え!」
「ええっ?なんかってなんですか!?」
「いいから!思う事を言えばいいんだよ!」
男は混乱した。
そして考え込んだ。
閻魔大王はじっと男の言葉を待った。
男の頭の中を、生きていた頃の事が駆け巡った。
役者を夢見て上京し、仲良くなった友人に誘われお笑いへ進んだ。
そして無我夢中で笑いの道をひた走った。
妻にも恵まれ、友にも恵まれ、たくさん飲み、たくさん笑い、たくさん泣いた。
思い通りになることなどほとんどなかった。
それでも、素敵な人生だった。
男の頭の中を、共に過ごした人たちが駆け巡った。
場面が、声が、匂いが、感触が男の中に押し寄せた。
男はようやく、自分がしてしまった事の重大さに気がついた。
男は泣いた。
号泣しながら言葉を紡いだ。
「おれ、おれ、みんなに、謝りたいです。こんな俺を、カミさんは愛してくれました。相方の二人がいなかったら俺はなんもできなかったです。師匠やたくさんの先輩にお世話になりました。後輩たちにも世話になりました。いっしょに酒を飲んでくれた奴らや、仕事をしてくれたスタッフや、俺たちの芸で笑ってくれた人たちに、俺は何も言わずに来てしまいました。おれは、おれは…」
男はただただ泣いた。
声を上げて泣き続けた。
師匠はただ黙って男の背中に手を置き続けた。
男がようやく泣き止むと
「言いたい事はそれだけか?」
と再び閻魔大王が聞いた。
「はい、閻魔様。俺が皆に言いたいのは、ありがとう、そして、ごめんなさい。それだけです」
男がいい終わると、閻魔大王は大きな木槌を鳴らした。
耳をつん裂くほどの轟音が響いた。
二人はただ土下座で平伏して身を縮めた。
「判決を言い渡す」
と閻魔大王が言った。